額田城(那珂市)は茨城県内最大規模の中世城址です。南に有が池、北が久慈川という自然の要害である額田台地の真ん中に位置し、難攻不落といわれました。現在残っている本丸、二の丸、三の丸の城跡だけで77,000㎡、外郭をすべて加えると東京ドームの21.5倍の広さで、額田の宿の4分の3は城郭内だったとされます。
この額田城は、佐竹氏分家と、佐竹氏重臣の小野崎氏という二つの系統の額田氏が、中世にそれぞれ約170年間治め、どちらも最後は佐竹氏に滅ぼされたという歴史を持ちます。
まず鎌倉時代初期に、佐竹氏4代義重の第2子義直が額田の地を領し、額田氏を名乗り築城、その後拡張を続けて現在の規模になりました。しかし10代義亮の時、佐竹宗家と対立し、応永30年(1423)佐竹13代義人に攻められて落城し滅びます。(これが佐竹氏分家として約170年続いた前期額田氏です)
その後、佐竹義人の重臣小野崎氏が城主となり、江戸氏から養子を迎えるなどして以後7代照通まで続きましたが、天正19年(1591)「照通に異心あり」として、佐竹19代義宜に攻められ持ちこたえますが、秀吉からの退城勧告を突きつけられ照通は伊達政宗の許に逃げたと伝わります。(これが佐竹氏家臣として約170年続いた後期額田氏です)
さて、その前期額田氏の初代額田義直が亡父義重のため守護寺としたのが曹洞宗の鱗勝院です。
佐竹氏が秋田へ移封となると、秋田佐竹氏初代義宣が秋田にも鱗勝院を建立し、額田鱗勝院の末寺として現在も存続しています。
額田城南方の有が池に面した参道は現在使われていないようなので、それが山門との幽玄な雰囲気を出しています。
本堂の大棟と香炉台には、五本骨扇に月丸の佐竹紋がしっかりと付いていました。
本堂前にある開基額田義直の五輪塔です。
後期額田氏の時代になると、額田城の守護寺として小野崎従通の招きにより、親鸞上人ゆかりの阿弥陀寺が大山(城里町)の地から移されました。佐竹氏の秋田移封には一時従いますが、その後旧地に戻り再興し、浄土真宗二十四輩本蹟十四番の寺として法灯を伝承しています。
素朴な楼門、上の階に梵鐘がある珍しい造りです。左手奥に見える赤い幟の先が額田城です。
本堂と親鸞聖人の像です。
阿弥陀寺は、光圀公お手植えといわれる大きな枝垂れ桜が有名です。
元禄11年(1698)に光圀公御成りの際に植えられたと伝わりますので、樹齢323年になります。光圀公はここから約7キロ北西の西山荘に隠居されており、元禄13年(1700)その地で没しました。(享年73歳)
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