上海で日本語を話している中国の若者達

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GREEから転載の日記「知ってる人は知ってる会社 レッズ」

2007年01月05日 | 日記
株式会社レッズ。今日この会社は存在しないが、この社名は知らなくとも、この会社の手がけた製品を見たり買ったり遊んだりしたことのある人は多いだろう。
ブリスター入りのアクションフィギュア、ミニュチュアのスケートボードのテックデックがお手元にあったら見てください。

そもそも、有限会社レッズの最初に付き合いだした時代(独占販売契約を結んでいた)の海洋堂の実態は、まだ大阪の小さな模型店だった。
トッド・マクファーレンもおもちゃ大好きの漫画フリークのコミック作家に過ぎず、世界にここまで大きなフィギュア市場は存在していなかった。
壽屋さん浪漫堂さんもまだガレージキットを出していたそんな時代。

実はレッズは当初エポックをスピンアウトした蘆田氏ではなく、私と同郷の岡本氏が始めた有限会社だった。
当時は女子高生のスカートの捲れるガレージキットなどを発売していた。
(詳しくは「週刊アスキー」:当時は「週刊EYE-CON」連載の「カオスだもんね!」の第2巻を御参照ください。)
ちなみに最初の商品は自由に絵が書けるジグソーパズル(要するに何も印刷されていないタダの切ってある紙)だった。
主力製品は1/4ダースベーダーやスパイダーマン。

まだ25歳のマイクロコア駆け出し営業主任の私は、よくファミコンを調達しに蔵前に足を運んだが、そこである老舗の玩具問屋社長から二人を紹介された。
人のよさそうな岡本氏に比べ、蘆田氏は、長髪のむさ苦しい姿の怪僧ラスプーチンのような容貌で眼光の鋭さが印象的だった。
この出会いから5年後に株式会社レッズの立ち上げに参加し、出資することになるとは全然予想もしていなかった。

梅雨のある日、レッズを訪れると(当時は件の老舗の玩具問屋の6階の一角を間借りしていた。隣のスペースは井関社長率いる「YAMATO」だった。)アルバイトの女の子が床で寝袋で寝ていた。
お世辞にも綺麗とは言えない事務所(鼠が出る半分倉庫だった。)の床で20歳弱の娘が転がっていたのである。
当然「どうしたの?」と聞くと、忙しくて帰る暇が無いとの答え。
実は私はNTマシンの売込みを兼ね、YRLの休日を利用して業務システムの入れ替えに来ていた。(入れ替えの報酬はLDプレイヤーだった。)
当時のレッズのシステムは、蘆田氏が粗大ゴミに出されていたPC9801を拾ってきてMSーDOS上で蘆田氏自身が作った「桐」の帳票で運用していた。
さて、そこで帳簿のデータを覗くと当月の売り掛け総額が1000万に達していた。(前年まで5年間のレッズはたった2人で平均年商1000万だった。)
そのほぼ全て取引内容が、製造元がTMT(トッドマクファーレントイズ)。
販売アイテムは「スポーン」となっていた。
壁に掛かっているブリスターパック(後年「ブリスター」という映画も製作され、その小道具はレッズが作製することになる。)のもの凄く精巧な造形と彩色だが気味悪いPOPな人形がその正体だった。

蘆田氏は前職のエポックで札幌営業所長を務めていた事もあり、経営手腕はなかなかのものだったが、拡大営業に不向きな見た目の人物だった。
そこで、件の老舗の玩具問屋社長と相談し、2度目の賭けに出た。YRLを辞めレッズに移ることにした。
(もちろん家族は大反対したが、数年来の付き合いとの事もあり、最後には折れた。蘆田氏もそうだが、私にも絶対に成功する確信が経験上あった。)

現行の給与と変わらないという条件で総務部長として参加(名刺は自分でMacで作った)することになったが、玩具業界は未知の業界でもあり、営業部長は、スポーンを売るために、ほぼ同時期にトミーを辞めて来た村上氏が務めることになった。
ちなみにYRL時代の給与はマイクロコア課長期の約1/2であったが、そもそもマイクロコア課長期が異常であり、あの時期以上の給与を得た事は現在まで一度も無い。

蘆田氏のエポック時代の同僚で経理を見に来ていた千葉氏、物流のプロとして蘆田氏とは高校生からの付き合いの阿部氏、トミーの元営業でアメトイのマニア(実は米国のGIジョーコンテストで優勝して雑誌に載った事も有る実力の有る事をトミーでは知られていなかった)で企画の村上氏、大阪でのパートナーの元玩具問屋営業のパーヤンこと片桐氏、編集デザイン事務所あがりでMac使いの植松女史、そしてあの床で寝ていたバイトの子、更に阿部氏の助手に秋葉で時計を売っていたバイトの男の子、そして私に蘆田氏、岡本氏の10名が有限会社レッズの最大構成人員だった。

最初期、TMTのフィギュアは、それまでの玩具とは程遠い気味悪い外見から玩具流通は敬遠していたので大きく2つの戦略に打って出た。
その効果は大きく、特定のメディアで大きく取り上げられ、クールなアイテムとして浸透していった。(ポストバブル時代のムーヴメントに乗る事に成功した。)
やがて、全員での出荷作業(トラック集積場でのシール張り)が追着かない程に急成長していった。

しかし、2ケ月間の急速な売り上げ拡大は仕入資金不足(キャッシュフローの悪化)を招き、黒字倒産の危機を呼んだ。
この年の売り上げ予測は半期で1億円を超えていた。つまり資本金と売掛金の入金予定だけでは経営できなくなってきた。
銀行は、こんな零細企業は全く相手にしてくれなかった。(そりゃそうです。去年の年商と同額が毎月必要なのだから。)
そこで前出の10人の内、付き合いの長い私達7人が自分達で出資して株式化することにした。
何と後年経理担当役員に収まる千葉氏は第一期は出資しなかった。
(そもそも千葉氏はアメ横で自分の店を構えていたので会計処理のアルバイトに来ていた。)
後々離脱時に、出資金は全額回収したが、現在レッズが倒産していることを考えると幸運と言えない事も無い。

マイクロコア時代に輪を掛けて、全てを自分達でこなさなくてはいけなかった事が、自分の会社との意識を強くしていった。
商品企画、原型製作、広告制作、海外発注、輸入通関処理、告知、コンテナの受領を含む検品、加工、出荷、店舗営業、代金回収、不良品処理等の全てを行った。
しかし、これがレッズの分裂を生んでしまう種になった。(その最初の発芽が最初10人以外から出たのも皮肉だったが。)
しかし7人から其々300万ずつ集め、株式会社を別法人として設立した。

蘆田氏が社長、パーヤンが大阪営業所長、阿部氏は商品部長、村上氏は東京営業所長と営業部長と開発部長、植松女史が広報課長、千葉氏が経理部長。
そして私は商事部長と総務部長とシステム開発室長を兼務した。
全員30代前半から20代後半だった。尚、役員には件の老舗の玩具問屋社長に就任していただいた。
(岡本氏はスピンアウトし、有限会社レッズをキューティーズに社名変更し現在に至っている。)

株式会社レッズの誕生であった。
(その時私は31歳になったばかりだった。)

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