Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

資金なし、人材なし、自粛でも、ゴスペル!

2020年05月27日 | 日記
 私の家では、いつもゴスペル・ソングが流れています。車で移動する時もCDをかけて、自然に口ずさみ、歌っています。我が家でこのような習慣となったのは、ちょうど一年程前、牧師である夫が、「来年4月から、教会でゴスペル賛美礼拝を始めようと思う」と言い出したことに始まります。今迄も、賛美歌やプレイズソングは聴いたり、礼拝で歌っていましたが、2020年4月から、今迄の土曜礼拝に加え、日曜日に新たなスタイルの礼拝を始めることを考え、二人で色々相談してきました。このゴスペル賛美礼拝では、ゴスペルソングを皆で歌う時間を長くとり、聖書のメッセージは子供でも、初心者でもわかりやすい簡潔な内容にし、地域の人が気軽に来られるスタイルの礼拝を始めることにしました。

 そのための準備として、昨年から那須塩原市のゴスペルクワイアー(ミンゴス)の練習に参加をし始めました。そしてなるべくたくさんのゴスペル賛美の曲を聞き、自分たちが歌えるようになり、遂には礼拝に参加する人々の賛美をリードできるようにまでなれればと願い、既にそのような礼拝をしている他教会の人々からアドバイスを頂いたり、話を聞いたりしてきました。正直、あまり音楽的才能のない私たち夫婦には、途方もなく難しいプロジェクトに思えました。まず、二人共ゴスペルをリードできる楽器を弾けないですし(私はせいぜい従来の礼拝で楽譜をみて賛美歌を奏楽する程度)、ゴスペルをキーボード等で自由自在に伴奏する才能はどう頑張ってもないのです。そのうち、演奏が出来る人、教会でゴスペル・クラスをひらけるような人材を神様が送ってくださること祈り求めながら、とりあえず今は生演奏がなくとも、ゴスペルは歌うことはできます。以来、私たちの頭の中にはいつもゴスペルが流れ、時折どちらともなく、森を歩いていても、車を運転していても口ずさむようになっています。

 賛美は力です。一般的に音楽は人の心に影響力がありますから、なおさら賛美は歌詞の内容が聖書のことばであったり、神様への祈りであったりするので、歌っていると励まされ、くじけそうになっても力が与えられます。賛美で重要なのは、誰に向かって、何のために歌うのかという点であり、コンサートのように自分たちを喜ばせたり、観客を楽しませるためでは本来ありません。つまり賛美は神様に向かって、神様を崇める為、感謝を捧げるために歌うのであり、心がこもっていれば奏楽や音楽のジャンルに関わりなく、神様に受け入れられるのです。もちろん、それに加えて、レベルの高い演奏、コーラスがあれば素晴らしいことですし、神様を信じていない人は是非ゴスペルを聞いたり歌ったりするのを楽しんで頂きたいですし、それはそれで素晴らしいことです。ただ、信徒にとっては賛美は礼拝、神様への感謝の捧げものだからです*1。

 一般的には、才能や技術、知識、経験がある人々を集め、それに基づいてプロジェクトを準備し、広告宣伝をして人を集め、開始していくというのが事業です。しかし、キリスト教の教会の伝道に関しては、必ずしもそうではなく(もちろん、これらがすでに与えられていれば恵ですが)、一番大事なのは、神様からその牧師やリーダーに与えられるビジョンです。「 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」*2 と聖書に記されているように、自分たちのやりたいことを行うのではなく、神様がなさりたいことを私たち信じる者がビジョンとして捉えて、祈りながら、計画を進めていきます。そして、必ずしも計画通りにいかないことが多々あります。しかし、神様はもっと大きな視野と時間の流れの中で、そのビジョンがなされるように導かれることがあります。それは人間には見通しがはっきりしないものなので、そこで問われるのが信仰です。神様への信頼と、聖書で約束されている多くのことばに裏付けされた確信が信仰として私たちに与えられ、それだけが頼りです。必要なことはその時期に与えられる、チャンスも与えられるという希望によって、前向きに日々生活をしていけることは本当に神様の恵です。

 私たちの教会は資金もない、人もいない、まして、この春から新型コロナ感染拡大で3密自粛という社会となり、教会の宣教にとって全ての状況が不利に転じたかのような幕開けとなりました。地域のゴスペル・グループをゲストに迎えてのイースター礼拝は延期、教会の集会を積極的に広告宣伝できない状況下。それでも、私たちは神様が一年前に夫にその志を与えたのだから、それが神様のみ心にそう計画であれば、下記のみ言葉のように、必ず福音のよい業を始められた神様(主)が完成させてくださると信じつつ、この4月から二人だけでも集会を続けてきました。土曜・日曜の朝の従来のスタイルの礼拝、そして、日曜午後にゴスペル賛美礼拝、そして夕礼拝、木曜夜の聖書の学びの会と開き続けてくると、以前から土曜礼拝に来て下さっていたが方々を中心に、数人の方々が参加されることもあり、少人数なので自ずと3密にならず、マスク・消毒をして細々と毎週礼拝を神様に捧げられていることは、この上ない恵であり、感謝の想いで一杯です。

 このように、私たちの弱いところにこそ神様の御業が力強く働かれるというみことばに励まされて*3、実際たくさんの恵を神様から受け礼拝を続けて約2ヶ月が経とうとしています。このことは、多くのキリストにある兄弟姉妹たちのお祈りと献金によるもので、彼らを通して、主から与えらている恵です。その方々に、主にあって心から感謝するとともに、引き続き教会で感染が起こらないように対策は取りつつ、徐々に社会情勢に合わせて、延期している宣教活動がなされていくことを願い、自分たちだけでなく、日本の、世界の教会のために、日々祈っています。こんな時だからこそ、神様を求める人々が一人二人と教会を訪ねてくると信じ、主に期待して、今出来る事をこつこつとしていこうと思います。

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 」ピリピ人への手紙1章6節

 
*1「だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。 」へブル人への手紙13章15-16節
*2 ピリピ人への手紙2章13節
*3「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」第2コリント人への手紙12章 9-10節

病からの回復、その後の苦しみ

2020年05月22日 | 日記
 “…we are like pariahs.” (私たちはまるでのけ者だわ) *1 これはアメリカの新聞記事から引用ですが、アメリカで新型コロナにかかり、ようやく回復、陰性反応も出て、家に戻ることが出来た後、自身の存在が病から生還した証として人々の励ましになると期待し、血漿を寄付して治療に貢献できた者として意気揚々と戻ってきた人々に起きた悲劇が報じられていました。現実は、近隣の人や家族からあたかも伝染病患者と接触をさけるような態度を取られます。ショートメイルで連絡しても、返事はこない。近所を歩いていると、自分を見た途端、走って逃げ去る近隣の人々。治ってから数週間たち、別件で入院し(住んでいたマンションが火事になり、煙を吸って入院)、病院側から、本人が家族と会いたいと言っていると伝えるも、家族は会うことを拒絶。多くの新型コロナウイルス・サバイバーは病気には打ち勝っても、周りから隔離され、精神的に追い詰められているという記事を読み、心が痛みました。

 アメリカの感染者数は、人口も異なるので日本のそれと比較にならない程未だに多いのですが、それでも減少しているとされ、徐々に経済活動を再開する政策が取り始められているとのことです。しかし、治った人々が職場や地域に今まで通りに復帰できるかどうかは、そう簡単ではなく、様々な問題がこれから出てくるのではないでしょうか。日本も同様です。日本では、感染していない医療従事者の子どもたちさえ、保育園の預りを拒否されることがあります。どの国でも、恐れが偏見を生み、そして酷い場合はそれが暴力的行為になり、新たな犯罪に繋がる可能性があります。もし、自分が、身内が感染したら、陰性反応がでるまで他者と接触はできないし、ある程度の期間孤独に耐えなくてはならないのは仕方がないことですが、その間リモート面会や電話で話すなどなんとか会話をしたいものですが、社会に戻って差別的待遇を受けることは辛いです。

 イエス・キリストは2千年前の社会において、伝染病のゆえに隔離されていた人々に接し、その病を癒やされたり、罪人として社会からのけ者にされ、食事も付き合いもしてもらえない人々と共に食事をされたと聖書に記されています。なぜそのようなことをされたのでしょうか。まず、イエス様は神の子でありましたが、人の体をもって生まれてきたので、お腹もすくし、疲れる、つまり人と同じ条件の肉体を持っていました。その上で、人の痛み、孤独、蔑み、悲しみ、そして十字架刑での拷問と死、とおよそ人が経験するであろう全ての苦しみを経験されたので、人の気持ちに同情できるお方です*2、今迄一体だった天の神様とも、十字架で死なれ3日後に復活されるまで断絶され、独りで全人類の罪を負われました。下記の聖書の箇所は、預言者イザヤがそのイエス様の救い主としてなさることを預言した箇所です。だから、そのような差別された隔離された人々に寄り添えたのです。彼は人々の物理的・精神的苦しみから解放することが出来る救い主として、この世に来て下さったのです。それは、イエス様と天の神様が人を愛するがゆえです。そしてイエス様が十字架の死で終わらず、復活されて今も天で生きておられるという信仰によって、信じる者に希望が与えられます。

  人は独りでは生きていけない、社会的な生き物です。しかし人の中に罪と恐れがある限り、差別や偏見はなくなりません。たとえ、家族からも見放され、全ての人から拒絶されたとしても、全ての人に同情出来るイエス・キリストだけは見捨てないという約束*3は、大きな励ましです。私は彼らのような差別や隔離された経験はありませんし、比較のしようがないですが、孤独の体験、全て悲観的にとってしまう時期はありました。大きな病気をした時、しばらく手術後体力もなく体の痛みもあり、仕事や教会へ行くことさえも出来ない、家で、家族とも離れて暮らしていた時、本当に孤独でした。後に仕事に戻ったとしても、一人暮らしなので、だれとも話すことがない日もあり、寂しいと感じていたことは何度もありました。それでもなんとかやってこられたのは、イエス様が共にいてくれるという信仰に支えられていたからでした。目には見えなくとも、イエス様が聖書の言葉を通して、祈りを通して、私が孤独に押しつぶされないように寄り添って下さったからです。その経験を通して、主イエス様は生きていて、私を愛し、辛い時には助けて下さる、強めて下さる優しい方だと信じられるのです。

 今、孤独の中にいる方々が、神様に助けを求めて、祈り、そしてなんとかこの辛さを乗り越えてほしいと願います。社会から取り残されたように感じる時があったら、その時こそ、SNSで呟くより、神様に祈り求めるほうが良いと思います。他者は自分が期待した通りに自分を理解してくれないし、動いてくれません。その辛さを神様に叫んだ時、神様それを聞いておられるので、その後、心に平安が与えられ、独りでも、心が強められて、一日一日を乗り越えられたという経験をすると、次回に何か起きた時、それを思い起こして励まされるからです。そして、立ち直ったら、今度は自分が、孤独の中にいる人の少しでも励ましになればという心が与えられます。神様の愛は自分が受けたら、他の必要としている人へ流すという愛の連鎖、それが神様が望んでおられることでもあり、そのような機会が与えられればと願います。

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 」 イザヤ書53章4-5節

*1 “They Beat the Virus. Now They Feel Like Outcasts.” By Sarah Maslin Nir, May 20, 2020, New York Times.
*2 「この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」 へブル人への手紙4章15-16節 ()は追記
*3 「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。」へブル人への手紙13章5 節

政府を批判する前に

2020年05月19日 | 日記
 アベノマスクが来ない!10万円の給付金の案内が来ない!休業補償が十分じゃない!経済の回復をどうするつもりか!「緩み」とか言わないでほしい!

 メディアでも、人との会話でも巷ではこのような政府に対する不平、文句のことばが飛び交います。私もうっかり、家族に言ってしまいがちです。しかし、不平、批判を言うのは簡単ですが、ではもし自分が政治家たちの立場だったら、もっと良く出来るのか?と問いつつ、批判するのを止めて、彼らが適正で知恵を得た政策を施行していけるように、日々祈ることにしています。そして、すべて政府が解決してくれると思わず、新しい生活スタイルに自らどう行動していくかを考えた方が、建設的で効果的ではないかと、自分自身に言い聞かせています。

 第35代大統領 のジョン・F・ケネディ氏が就任時のスピーチで、「あなたの国があなたのため に何ができるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるか考えてみましょう 」といったのはある意味、的を得ていると思います。結局、国というのは国民全体の協力がなければ、いくら政治家だけが法律を整備し、政策を打ち出しても、その主体は国民です。もちろん、お上に盲目的に従うのではなく、独裁的、不条理な政策に対しては、非暴力的方法で声を挙げてそれをストップさせなければならない時もあります。しかし、今のように、国民の安全を守ることと経済活動のバランスをどう保っていくかは政府にとっても困難な課題であり、段階的政策が必要です。政府も試行錯誤をせざるを得ない状況とある程度理解しようと務め、批判ではなく、どうしたら互いに協力しつつ、生き残っていけるかを模索していかなければならない時ではないでしょうか。

 キリストの使徒パウロは、2千年前のローマ帝国独裁政治時代の人でした。その信仰ゆえに、政府から迫害され、投獄、最終的には死刑に処せられたと伝えられています。しかし、彼は迫害されても忍耐し、今日の聖書の箇所は、彼がその迫害の最中で書いた、テモテという自分が信仰を育てた教会のリーダーへの励ましの手紙の一節ですが、そこで王や上に立つ政治家たちのために祈りなさいと勧めています。自分の家族が処刑されたり、自分も地下で隠れて生活しなければならないという状況であれば、革命を起こして武力で政府と対決することで平和を得ようとするのが、人間が今まで歴史的に繰り返してきたことです。しかし、真のキリスト者は違います。どんな政治家であっても、その人たちのために祈ることが神様の愛の実践、平和へ至る道だと、これはキリストご自身が言われてきた教えにそっています(前日のブログ参照「祝福するとは」)。この時代の上に立つ政治家とはローマ皇帝で、しかもクリスチャンに対する最も残虐な迫害で有名なネロ皇帝でした。自分を迫害する相手のために祈る事で、祈っている私たち自身が、安らかな生活を送り、信仰を持ち続けて過ごせると、それが神様のみ心にかなうことだからと説明しています。祈っていても表面的には不安定で苦しい生活が続くかもしれませんが、心の平安、信仰は持ち続けることは可能であり、心の中でどう思うか、信じるかまで、他者や政府がコントロールできないですし、誰もこの信仰を取り去ることは出来ないのです。

 日々のニュースで政府の政策が報じられる時、批判的な気持ちが沸いてきたら、それを「神様、彼らに知恵が与えられ、国民の生活のため良い施策が行われますよう、彼らを導いて下さい」と、出来るだけ具体的な願いも含めた祈りに変えていこうと思います。そして、たとえ状況が思わしくなくとも、祈るときには感謝できることを見つけて、神様への感謝を忘れずに、そして神様は人間を大切に思って、救おうとしておられる全能のお方であり、必ず良い方向に導いて下さる方だと信じて祈り続けようと思います。

「そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。」第一テモテへの手紙2章1-3節

相手を祝福するとは

2020年05月18日 | 日記
 葬儀の時、弔辞、追悼の言葉が述べられる機会が多いと思いますが、その場合、故人を偲んで、その方との良い想い出が語られたり、その方の生前の立派だったこと等、通常良いことが述べられます。たとえ、その故人があまり良い人でなかったとしても、特に功績があった人でなくとも、その人の良かったところが語られるでしょう。なぜなら、その亡くなった人がたとえどんな人であっても、葬儀の時に故人を悪くいうものではないという、葬儀での礼儀があるからです。

 先日、教会に来た方が礼拝後に突然こう言いました。「相手を赦すっていうのは、出来る事じゃないですね」と。具体的になぜ、誰をどうして赦せないのかについては話されませんでしたが、同時にその方はこうも言われました、「不思議なことがあってね、昨日まではこれはおかしいと思っていたことに対して、今日、教会の礼拝に来たら、別の考えに繋がって、自分の中で解決してしまったんですよ。」これについても、具体的に何に対して違和感を持ち、そして翌日には大丈夫になったのかをその方は話されませんでしたが、聞いていた私たちがわかることは、その方は土曜も日曜も、教会の礼拝に来ていたことです。彼は現役時代は企業で働く技術者だったそうで、理論的に物事を考えられる方のようで、「聖書は理解するのが難しい、勉強中です」と言われて、私たちの教会の礼拝にもよく来られている方です。

 聖書の言葉は科学の本でも、小説でも哲学書でもないので、理論的、この世の常識では理解できない箇所があり、また矛盾すると思われる箇所があると思います。しかし、聖書は信仰を持って読むとき、自分の知識で理解するものではなく、その時その時に、インスピレーションと表現されるでしょうか、「あっ、そういう事なのか!」とひらめいて、心にストンと落ちるかんじでその内容が理解できることがあります。ですから、私も聖書で何度も同じ個所を読み、牧師さんたちからそのメッセージが語られていても、以前はわからなかったところが、その時には理解が与えられることがよくあります。つまり、私の信仰の成長の度合いに応じて、理解できるように不思議に神様が心の目を開いて下さるのでしょう。

 下記の聖書の箇所は、この箇所だけ読むと、「あっ、これ無理。そうすべきと頭ではわかっているし、キリストの教えだからそう出来ればと願うけど、実際は難しいですよ」と、先の方と同様、クリスチャンでさえも、赦せないと諦めてしまいう相手がいるでしょう。今日、ある牧師から教えられたことは、ここでの「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい」の「祝福する」ということばの原語(eulogeō)の意味は「弔辞」eulogy:英語 と語源が同じで、相手のことを良く言うという意味だそうです。「神の祝福がありますよう」(May God Bless You)のように、神が主語で人を祝福する場合は、神が人に恵を授けると言った意味合いになりますが、人が主語の場合では、相手のことを良く言うと言い換えることができます。相手を赦せなくても、嫌いでも、自分に対して敵対してくる人であっても、キリストの教えは、その相手のことを良く言いなさい、そして呪いのことば、つまり悪口をいってはならないということです。もしくは、自分が積極的に相手を良く言える余裕がないのであれば、渋々であっても、「神様の祝福があるように」と相手の為に祈ることから始めることができるのではないでしょうか。

 キリストを信じると心に与えられる聖霊は、わからなかったことに理解を与えたり、忘れていたことを思い起こし*、不思議に心が変えられているとい現象のように、例えば、赦そうという心に導く働きをされます。聖霊は目に見えませんが神の霊であり、人がキリストを信じる前はその人の傍らから、つまり外側から、聖書の言葉だけでなく、人の言動をも通してその人の心に働きかけます。そして信じる心に導き、その人が信じると聖霊は心の中に入って、その人の内側から静かに語り掛け、導きを与えます。常識的に、理論的に、性格的に、「これは無理」と諦めていたことも、そのことが人との平和に繋がること、神様の愛に繋がることであれば、神様は必ず相手を赦せるように心を変えて下さる方です。赦すとは、その人が赦すに相応しいから赦すのではなく、単に弔辞では良いことしか言わないものだという礼儀以上に、キリストが自分をそもそも赦してくれたのだから、自分も人を赦そうと決めること、そして時間がかかっても赦す心に変えられるまで神様に祈り求めることが必要だと思います。そうすると、いつか、ある時、「不思議なことがおこったんだよ」という経験をし、相手に対する苦い思いが心を支配することがなくなり、心が解放されることでしょう。

 心の内で、何か赦してもらうべきことがありますか?自分を傷つけたことを赦せないという憎しみ、ある人を嫌い続ける苦い思い、傲慢な思い、人に言えない過去にしたことと、それによる罪責感、強迫観念、そして神なんかいないという思い。。。どんなことであっても、神様はキリストを通して、赦して下さる方です。ただそれを神様に持っていけば良いのです。自分自身が神様に赦された経験をした人は、人間同士の関係において、たとえ相手がどんな人であっても赦そうという思いに導かれるからです。
  

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」ローマ人へ手紙12章14節

*「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 」ヨハネによる福音書14章26節

自然との調和

2020年05月13日 | 日記
 ハーブといえば、ミント、カモミール、ローズヒップなど、ハーブティー、またお料理や、アロマセラピーのオイルにも利用され、その独特の良い香りが心身のリフレッシュに効果があるといわれる植物です。その歴史をたどると、古代からハーブは薬として用いられていたようで、中世ドイツの修道院の院長のヒルデガルト*1という女性はハーブを研究した人物として有名だそうです。ハーブ薬は自然のものですから、科学的に造られた薬の様に即効性がないかもしれませんが、人の免疫力を強める、つまり自分の病気に対する抵抗力を強めるという作用があるのでしょう。ちなみに、修道院というと、修道士・女が隠遁生活をして宗教活動だけしているイメージがあるかもしれませんが、その所属しているカトリック教会の会によって様々で、ワインやクッキーを作って市場に出荷するところもあれば、大学の教授も兼ねる、つまり教育、福祉、慈善団体の職員もしたりと、社会の中で活躍している人が多いことがわかります。ちなみに、栃木県の那須にある修道院ではクッキー(ガレット)を作っていて、地域で広く「トラピストクッキー」という商標で販売され、とてもおいしいです。

 ハーブとまで特定しなくとも、植物自体に何か自然由来のもので、人の心身を健やかにする成分を放っているように思えます。森林浴と言われるように、様々な種類の草木、樹木からなる森の中はマイナスイオンがたくさんあり、それが体をリフレッシュさせると言われます。私が住む地域は自然が豊かで、近くにちょっとした森があり、時々朝早に1時間程そこを歩くことができます。そこではほとんど人と会うことなく、鳥のさえずりだけが聞こえます。日に日に新緑が濃くなっていく森の中を歩いていると、日々報じられる危機的状況を一時でも忘れることができ、むしろ自然という生態系の中で人間がいかに小さな存在であることを思わされます。自然は厳しい面もありますが、すべての生物が共存できるよう、神様は当初この世界を創られた時、「それは、はなはだ良かった」*2とコメントしているように、全てが最初は調和していたのでしょう。

 神様は人に自然を「治める」ように命じていたことが聖書に記されています*3。この「治める」という表現には、国王が国を治める(reign, rule, have dominion)と言った意味をもつ原語が使われているように、秩序を保ち、平和的に統治することであり、よって、人が自然を自分の利益のために過剰に使ったり、遺伝子組み換えをして人工的な穀物を造ったりすることではありません。神がこの天地を創造したことを信じない人であっても、現実的に人間がどれ程自然環境を破壊し、その結果、多くのひずみを引き起こし、異常気象、自然災害となっていることは気がついているはずです。そして人は、それを科学的方法で取り繕おうとして、また生態系バランスを崩し、新たな問題を起こしていく、負の連鎖を続けているように思えます。

 20世紀以降、サービス業の増加に伴い、便利で効率的な世の中になっているかもしれせんが、それだけエネルギーを必要とします。それには原子力発電や原油の消費が伴います。掘削による地下資源の枯渇、原子力発電所の事故による被害と、いくら一人一人の市民が環境のために資源を節約、エコ活動していても、一方で大規模に24時間営業のサービス業等がこうこうと電気を使っている現実を見逃してはなりません。病院・施設や警察など24時間交代制が最低限必要である職種を除き、夜中まで営業する必要があるのか、夜中まで習い事や塾で勉強する必要があるのか、高級品の消費がこれ程必要なのかを、今の自粛という新たな生活スタイルが長期的になる可能性に伴い、見直す必要があると私は思います。もっと良い生活をしたいからお金を稼ぐという必要性と、企業がもっと収益を上げるための雇用増加という需要と供給が見合い、生活が忙しくなり、複雑になり、ストレスも増大していく世の中。これがもっとよい生活、人にとって幸せなのでしょうか。

 自然との調和。シンプルな生活。そもそも神様が創造された世界では、神と人との関係、人と人との関係、人と自然との関係の中に調和と秩序、そして相手や自然を大切に思う心がベースになると思います。それには、まず下記の聖書のことばのように私たちが神様との和解が必要で、そのためにすでに神様はイエス・キリストをこの世に送ってくれているのが、Good News(福音)です。和解をさせて下さったキリストに感謝し、日々自分の自己中心的な思い・行動を悔い改めて、自身の心が自然に対しても人に対しても平和的になれるよう、聖霊の力で変えられていきたいと思わされます。 
 
「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」 コロサイ人への手紙1章21〜22節

  
*1 ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen, 1098~1179年) ドイツ・ビンゲンの地に自ら作ったのベネディクト会系女子修道院の院長で、医学・薬草学の研究をし、「ドイツ薬草学の祖」と呼ばれる。
*2「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。 」創世記1章31節
*3「神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。」創世記1章31節