Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

信頼される喜び

2022年12月20日 | 日記
 私の仕事は病院のソーシャルワーカーといって、患者さん、その家族から医療、介護の相談を受け、彼らの必要に沿って病院、施設、制度の説明をし、支援をする仕事です。ほとんどが困難な相談で、うまくいかないことが多い中、時々嬉しと思うことがあります。それは、患者さんが自分を信頼して、任せてくれる時です。先月も、身寄りがなく一人暮らしの癌術後の高齢の方のため、退院後の在宅生活で必要とされる医療・介護・様々の行政的手続きの準備をしていました。そのために本人の了解を得る際、「俺は今まで、お金のことで騙されたことあるから人を信用できないんだけど、あんたを信用して任せるから」と言い、さらに「あんたをかあちゃんだと思って任せるよ!」とまで言われました。「えっ、私はあなたより20歳も年下なのに、お母さん?!」と一瞬心の中で思い、横で医師が笑いながら「大下さん顔がひきつっているよ」と言っていました。私はひきつるどころか、それを誉め言葉として受け取らせて頂きました。その方が退院してから、外来に車いすに乗せられて受付に来られた時も、私を見つけて「おはようございます!」と元気に声をかけてくれました。長期間入院した後、自宅で少しでも過ごせて、その方の顔が明るくなっていました。

 私が仕事で出来ることはとても小さなことですが、人は信頼されるとうれしいものです。世の中は、SNSが発達しますます、巧妙なお金をだまし取る詐欺がまかり通り、人や企業、団体が本当に信頼してよいのかを判断するのが難しいです。私たちの住む社会は、信頼関係を前提として成り立っているといっても良いでしょう。しかし、それが機能しない場合が多く、結果的に多くの人がトラブルに巻き込まれ、辛く、悲しい思いを持つというのが現状でしょう。

 天の父なる神様は人間を大切な存在として創られ、ご自分と信頼関係を持ってほしい、神様が人間にその神様の愛に気づいてほしいと願い、神の子イエス・キリストをこの世に人として送って下られました。それがクリスマスの意味であり、良い知らせ(福音)であります。しかも、この世に来られたのは、十字架にかかって死なれるためです。なぜそんなことが必要なのかというと、超自然的、目に見えない神様の存在を信じるためには、神ご自身が私たちの視線、立場まで降りてこられて寄り添い、信頼してよい神だということ、人々を大切に思っていることを現わすためだからでしょう。キリストの十字架の死は、私たちが今まで神様の存在を否定し、自分本位の人生を歩んできたという罪が神様によって赦されるためです。しかも、死んで終わりではなく、キリストが3日後に復活され、天に戻り、また、新しい天地、世界が作られる前に再びいつか来られること、これもキリストを信じる者の信仰です。

 クリスマスとは、2千年前にイエス様が人として来られたことを喜び、感謝してお祝いすると同時に、いつか再びいイエス様が来られることを待ち望む、希望の時であります。この世ので不正が行われ、戦争が続き、悪がはびこり、いったい何時平和は実現されるのだろうかという、だれもが持つ問いに答える、希望を叶えるのがイエス様の再び来られる時です。下記の箇所にあるように新しい世界には、悲しみ、涙もなく、平和で互いに人々が愛し合い、天の父なる神様とイエス様を全ての民族で礼拝できる世界だということが、聖書の黙示録に書かれています。聖書に書かれていることは一部ですのでその詳細まではわかりませんが、すべてわからなくとも、神様に信頼し、任せることができるのは幸いです。なぜなら、将来に対する思い煩い、不安、恐れが神様の愛によって取り除かれるからです*。そして人が信頼されて嬉しいように、ましてや天の父なる神様はもっと喜んで下さるのではないかと思い、ますます、神様に委ねつつ、すべての人が受け取れる神様の祝福と恵が一人ひとりの心に届くよう祈り続けようと思います。

「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」黙示録21章3-4節

*「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」ヨハネの手紙1 4:18

独りで悩むとき

2022年12月10日 | 日記
 最近、心が折れることが続きました。仕事上であまりにも忙しくて、頭をどんなに回転させてもついていけないほど、一度に多くの業務をこなさなければならない状況です。毎日、終わるのだろうかと途方にくれ、「神様、助けてください!」と昼休みに祈り、夕方まで(時には夜まで)にはなんとか終わり、今日も神様が共にいてくれて助けてくださったと実感し、感謝して家路につくことができるのは幸いです。一方で、この状態がいつまで続くのだろうかと心が重くなることもあります。

 また、突然一方的な便りをある方から頂き、愕然とすることもありました。もともと、長年の付き合いのあるこの方とは、様々な理由で今は距離を置く必要があるとずっと願ってきましたが、なかなか理解してもらえず平行線。相手の要望に応えられない自分が申し訳ないという思いもありますが、自身の立場上そうできないという状況があり、それを相手に理解してもらえない。このような関係が一生続くのかと暗い思いになります。

 だれもこの状態から助けてくれる人はいません。自分の心の問題であり、相手の心を私がどうにかできないからです。もし、私が神様を信じていなかったら、ストレスで心の病気になっていると思います。ですが、神様の憐みによって心が守られていることを実感し、感謝しております。

 神様は思い悩み、自分ではどうしようもない、そんな状態の私の心をご存じで、その悩んでいる状態のなかでこそ、神様は私に出会ってくださります。この憂いている状況のなかで、神様は私と向き合って下さり、導き、必ず、光を与え、心を引き上げてくださる方だと信じます。私はこの苦しみのなかで神様が共にいてくださること、弱い自分をも顧み、変わらない愛を注いでくださることを経験し、そうして神様への感謝と喜びを持てるようになると期待しようと思います。そう思える根拠はいつも聖書のみことばにあるからです。

「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 」テサロニケの信徒への手紙1 5章16-18節

 これは、いつも幸せで、苦労もなく、すべてが順調に進んでいる状態においてならできることではないと思います。むしろ 苦しみ、悩みの状況が生活のなかであるからこそ、神様に助けを求めていくと、問題にばかり目を向けている視野から、実は「神様から恵を日々与えられているではないか!」という気づきが与えられる、つまり視点が変えられる。そうして、状況が変わらなくとも、神様の平安を少しずつ与えられ、喜び、祈り、感謝できるように心が変えられていくのではないでしょうか。そして、イエス・キリストは「インマヌエル」という方:訳すと「神が我々と共におられる」であることより、私がたった一人で向き合わなければならない問題においても、共にいてくださるということを信じ、それを実際体験させて頂きたいと願います。神様が必ず、私の心を変えて下さると信じ、思い煩いをいっさい委ねていこうとみことばで励まされ、感謝の思いで、少し心のおもりが軽くされます。