“…we are like pariahs.” (私たちはまるでのけ者だわ) *1 これはアメリカの新聞記事から引用ですが、アメリカで新型コロナにかかり、ようやく回復、陰性反応も出て、家に戻ることが出来た後、自身の存在が病から生還した証として人々の励ましになると期待し、血漿を寄付して治療に貢献できた者として意気揚々と戻ってきた人々に起きた悲劇が報じられていました。現実は、近隣の人や家族からあたかも伝染病患者と接触をさけるような態度を取られます。ショートメイルで連絡しても、返事はこない。近所を歩いていると、自分を見た途端、走って逃げ去る近隣の人々。治ってから数週間たち、別件で入院し(住んでいたマンションが火事になり、煙を吸って入院)、病院側から、本人が家族と会いたいと言っていると伝えるも、家族は会うことを拒絶。多くの新型コロナウイルス・サバイバーは病気には打ち勝っても、周りから隔離され、精神的に追い詰められているという記事を読み、心が痛みました。
アメリカの感染者数は、人口も異なるので日本のそれと比較にならない程未だに多いのですが、それでも減少しているとされ、徐々に経済活動を再開する政策が取り始められているとのことです。しかし、治った人々が職場や地域に今まで通りに復帰できるかどうかは、そう簡単ではなく、様々な問題がこれから出てくるのではないでしょうか。日本も同様です。日本では、感染していない医療従事者の子どもたちさえ、保育園の預りを拒否されることがあります。どの国でも、恐れが偏見を生み、そして酷い場合はそれが暴力的行為になり、新たな犯罪に繋がる可能性があります。もし、自分が、身内が感染したら、陰性反応がでるまで他者と接触はできないし、ある程度の期間孤独に耐えなくてはならないのは仕方がないことですが、その間リモート面会や電話で話すなどなんとか会話をしたいものですが、社会に戻って差別的待遇を受けることは辛いです。
イエス・キリストは2千年前の社会において、伝染病のゆえに隔離されていた人々に接し、その病を癒やされたり、罪人として社会からのけ者にされ、食事も付き合いもしてもらえない人々と共に食事をされたと聖書に記されています。なぜそのようなことをされたのでしょうか。まず、イエス様は神の子でありましたが、人の体をもって生まれてきたので、お腹もすくし、疲れる、つまり人と同じ条件の肉体を持っていました。その上で、人の痛み、孤独、蔑み、悲しみ、そして十字架刑での拷問と死、とおよそ人が経験するであろう全ての苦しみを経験されたので、人の気持ちに同情できるお方です*2、今迄一体だった天の神様とも、十字架で死なれ3日後に復活されるまで断絶され、独りで全人類の罪を負われました。下記の聖書の箇所は、預言者イザヤがそのイエス様の救い主としてなさることを預言した箇所です。だから、そのような差別された隔離された人々に寄り添えたのです。彼は人々の物理的・精神的苦しみから解放することが出来る救い主として、この世に来て下さったのです。それは、イエス様と天の神様が人を愛するがゆえです。そしてイエス様が十字架の死で終わらず、復活されて今も天で生きておられるという信仰によって、信じる者に希望が与えられます。
人は独りでは生きていけない、社会的な生き物です。しかし人の中に罪と恐れがある限り、差別や偏見はなくなりません。たとえ、家族からも見放され、全ての人から拒絶されたとしても、全ての人に同情出来るイエス・キリストだけは見捨てないという約束*3は、大きな励ましです。私は彼らのような差別や隔離された経験はありませんし、比較のしようがないですが、孤独の体験、全て悲観的にとってしまう時期はありました。大きな病気をした時、しばらく手術後体力もなく体の痛みもあり、仕事や教会へ行くことさえも出来ない、家で、家族とも離れて暮らしていた時、本当に孤独でした。後に仕事に戻ったとしても、一人暮らしなので、だれとも話すことがない日もあり、寂しいと感じていたことは何度もありました。それでもなんとかやってこられたのは、イエス様が共にいてくれるという信仰に支えられていたからでした。目には見えなくとも、イエス様が聖書の言葉を通して、祈りを通して、私が孤独に押しつぶされないように寄り添って下さったからです。その経験を通して、主イエス様は生きていて、私を愛し、辛い時には助けて下さる、強めて下さる優しい方だと信じられるのです。
今、孤独の中にいる方々が、神様に助けを求めて、祈り、そしてなんとかこの辛さを乗り越えてほしいと願います。社会から取り残されたように感じる時があったら、その時こそ、SNSで呟くより、神様に祈り求めるほうが良いと思います。他者は自分が期待した通りに自分を理解してくれないし、動いてくれません。その辛さを神様に叫んだ時、神様それを聞いておられるので、その後、心に平安が与えられ、独りでも、心が強められて、一日一日を乗り越えられたという経験をすると、次回に何か起きた時、それを思い起こして励まされるからです。そして、立ち直ったら、今度は自分が、孤独の中にいる人の少しでも励ましになればという心が与えられます。神様の愛は自分が受けたら、他の必要としている人へ流すという愛の連鎖、それが神様が望んでおられることでもあり、そのような機会が与えられればと願います。
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 」 イザヤ書53章4-5節
*1 “They Beat the Virus. Now They Feel Like Outcasts.” By Sarah Maslin Nir, May 20, 2020, New York Times.
*2 「この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」 へブル人への手紙4章15-16節 ()は追記
*3 「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。」へブル人への手紙13章5 節
アメリカの感染者数は、人口も異なるので日本のそれと比較にならない程未だに多いのですが、それでも減少しているとされ、徐々に経済活動を再開する政策が取り始められているとのことです。しかし、治った人々が職場や地域に今まで通りに復帰できるかどうかは、そう簡単ではなく、様々な問題がこれから出てくるのではないでしょうか。日本も同様です。日本では、感染していない医療従事者の子どもたちさえ、保育園の預りを拒否されることがあります。どの国でも、恐れが偏見を生み、そして酷い場合はそれが暴力的行為になり、新たな犯罪に繋がる可能性があります。もし、自分が、身内が感染したら、陰性反応がでるまで他者と接触はできないし、ある程度の期間孤独に耐えなくてはならないのは仕方がないことですが、その間リモート面会や電話で話すなどなんとか会話をしたいものですが、社会に戻って差別的待遇を受けることは辛いです。
イエス・キリストは2千年前の社会において、伝染病のゆえに隔離されていた人々に接し、その病を癒やされたり、罪人として社会からのけ者にされ、食事も付き合いもしてもらえない人々と共に食事をされたと聖書に記されています。なぜそのようなことをされたのでしょうか。まず、イエス様は神の子でありましたが、人の体をもって生まれてきたので、お腹もすくし、疲れる、つまり人と同じ条件の肉体を持っていました。その上で、人の痛み、孤独、蔑み、悲しみ、そして十字架刑での拷問と死、とおよそ人が経験するであろう全ての苦しみを経験されたので、人の気持ちに同情できるお方です*2、今迄一体だった天の神様とも、十字架で死なれ3日後に復活されるまで断絶され、独りで全人類の罪を負われました。下記の聖書の箇所は、預言者イザヤがそのイエス様の救い主としてなさることを預言した箇所です。だから、そのような差別された隔離された人々に寄り添えたのです。彼は人々の物理的・精神的苦しみから解放することが出来る救い主として、この世に来て下さったのです。それは、イエス様と天の神様が人を愛するがゆえです。そしてイエス様が十字架の死で終わらず、復活されて今も天で生きておられるという信仰によって、信じる者に希望が与えられます。
人は独りでは生きていけない、社会的な生き物です。しかし人の中に罪と恐れがある限り、差別や偏見はなくなりません。たとえ、家族からも見放され、全ての人から拒絶されたとしても、全ての人に同情出来るイエス・キリストだけは見捨てないという約束*3は、大きな励ましです。私は彼らのような差別や隔離された経験はありませんし、比較のしようがないですが、孤独の体験、全て悲観的にとってしまう時期はありました。大きな病気をした時、しばらく手術後体力もなく体の痛みもあり、仕事や教会へ行くことさえも出来ない、家で、家族とも離れて暮らしていた時、本当に孤独でした。後に仕事に戻ったとしても、一人暮らしなので、だれとも話すことがない日もあり、寂しいと感じていたことは何度もありました。それでもなんとかやってこられたのは、イエス様が共にいてくれるという信仰に支えられていたからでした。目には見えなくとも、イエス様が聖書の言葉を通して、祈りを通して、私が孤独に押しつぶされないように寄り添って下さったからです。その経験を通して、主イエス様は生きていて、私を愛し、辛い時には助けて下さる、強めて下さる優しい方だと信じられるのです。
今、孤独の中にいる方々が、神様に助けを求めて、祈り、そしてなんとかこの辛さを乗り越えてほしいと願います。社会から取り残されたように感じる時があったら、その時こそ、SNSで呟くより、神様に祈り求めるほうが良いと思います。他者は自分が期待した通りに自分を理解してくれないし、動いてくれません。その辛さを神様に叫んだ時、神様それを聞いておられるので、その後、心に平安が与えられ、独りでも、心が強められて、一日一日を乗り越えられたという経験をすると、次回に何か起きた時、それを思い起こして励まされるからです。そして、立ち直ったら、今度は自分が、孤独の中にいる人の少しでも励ましになればという心が与えられます。神様の愛は自分が受けたら、他の必要としている人へ流すという愛の連鎖、それが神様が望んでおられることでもあり、そのような機会が与えられればと願います。
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 」 イザヤ書53章4-5節
*1 “They Beat the Virus. Now They Feel Like Outcasts.” By Sarah Maslin Nir, May 20, 2020, New York Times.
*2 「この大祭司(イエス・キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」 へブル人への手紙4章15-16節 ()は追記
*3 「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。」へブル人への手紙13章5 節