今朝のニュースにおいて、学生たちへの9月入学制度導入の賛否とその理由についての、アンケート集計の結果が報じられていました。日本社会では、社会全体の年度始まりが桜の季節である4月であるものを、欧米の入学時期である9月に変えるということは、教育制度にとどまらず、日本の社会制度を大きく変えうる政策であります。学生のみならず大人も、そのような変化によって生じる不確実な未来に対して、懸念を示す人のほうが多いことでしょう。一般常識的に考えると、不確実なこと、先行き不透明なことは”良くないもの”として、私たちはとらえる傾向があります。一方、コロナ感染脅威により今迄のように事が進まない時期に、前向きになんとか対処しよう、乗り越えようとして、危機をチャンスとして捉えている方々もいるということは、励まされます。
信仰の世界というのは、人間の思い中心ではなく、神という存在がベースでありますから、このような確実性に縛られることはありません。イエス・キリストは十字架に架かる前に、弟子たちに大切なことを話されました。彼らはよく理解できず、先生はどこへ行ってしまうのだろう、これからどうなるのだろうという不安な気持ちになり、そこでイエスは弟子たちに、こう言われました。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。」*1
世の中の常識、目に見えることに基ずく確実性は、ある程度の安心感を与えますが、同時にこれがいつ変わるかわからない、何が起こるかわからないという不確実性がいつも伴うので、100%安心できません。これがイエスが言う、「世が与えるように与える」平和です。しかし、イエスが与える平和は、神を信じ、イエスを信じる信仰によって与えられます。ですから、不確実性のなかにおいても、感情的には一時的に心が揺らぐことはあっても、心の深いところで、神に信頼しようと、神のなさることの範囲内で今のことは起きているし、将来も起きるから、委ねようという気持ちになり、恐れや虚無感に支配されることはなくなります。この信仰の根本には、下記のみ言葉にあるように、イエス・キリストが再び戻って来られて、全てを新しくするという約束を待ち望んでいることにあります。それがいつ来るか、どう来るかは明らかにされていませんが、私たちが生きている間考えることは、御子(イエス・キリスト)のうちにいつもとどまることです。
どうしたら、とどまれるか。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」*2という命令を守るなら、わたしにつながっていられる、わたしのうちにとどまれるよと言われました。
命令を守る。これはプレッシャーになったり、重荷になったり、強制感が伴いがちなフレーズです。しかし、その命令自体が、互いに愛し合うということであれば、互いの益になり、問題の解決の糸口となるでしょう。愛は全てのことを覆います。また、愛せないのであれば、愛せるように助けるよ、たとえ命令を守れなくとも、私はあなたを決して見捨てないよというのがイエスの約束です。自分の力ではなく、神が愛せるように、わたしたちの心や行動さえ変えられるので、また、命令を守れなければ罰則が伴うものではないので、恐れや重荷なりません。他者を愛することに弱い私たちでも信仰を続けられます。これからも、御子のうちにとどまり続けられるよう、助けを祈りたいと思います。
「さて、子たちよ、御子のうちにいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つ事ができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」
第一ヨハネの手紙2章28節
*1ヨハネによる福音書14章1、27節
*2ヨハネによる福音書15章12節
信仰の世界というのは、人間の思い中心ではなく、神という存在がベースでありますから、このような確実性に縛られることはありません。イエス・キリストは十字架に架かる前に、弟子たちに大切なことを話されました。彼らはよく理解できず、先生はどこへ行ってしまうのだろう、これからどうなるのだろうという不安な気持ちになり、そこでイエスは弟子たちに、こう言われました。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。」*1
世の中の常識、目に見えることに基ずく確実性は、ある程度の安心感を与えますが、同時にこれがいつ変わるかわからない、何が起こるかわからないという不確実性がいつも伴うので、100%安心できません。これがイエスが言う、「世が与えるように与える」平和です。しかし、イエスが与える平和は、神を信じ、イエスを信じる信仰によって与えられます。ですから、不確実性のなかにおいても、感情的には一時的に心が揺らぐことはあっても、心の深いところで、神に信頼しようと、神のなさることの範囲内で今のことは起きているし、将来も起きるから、委ねようという気持ちになり、恐れや虚無感に支配されることはなくなります。この信仰の根本には、下記のみ言葉にあるように、イエス・キリストが再び戻って来られて、全てを新しくするという約束を待ち望んでいることにあります。それがいつ来るか、どう来るかは明らかにされていませんが、私たちが生きている間考えることは、御子(イエス・キリスト)のうちにいつもとどまることです。
どうしたら、とどまれるか。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」*2という命令を守るなら、わたしにつながっていられる、わたしのうちにとどまれるよと言われました。
命令を守る。これはプレッシャーになったり、重荷になったり、強制感が伴いがちなフレーズです。しかし、その命令自体が、互いに愛し合うということであれば、互いの益になり、問題の解決の糸口となるでしょう。愛は全てのことを覆います。また、愛せないのであれば、愛せるように助けるよ、たとえ命令を守れなくとも、私はあなたを決して見捨てないよというのがイエスの約束です。自分の力ではなく、神が愛せるように、わたしたちの心や行動さえ変えられるので、また、命令を守れなければ罰則が伴うものではないので、恐れや重荷なりません。他者を愛することに弱い私たちでも信仰を続けられます。これからも、御子のうちにとどまり続けられるよう、助けを祈りたいと思います。
「さて、子たちよ、御子のうちにいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つ事ができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」
第一ヨハネの手紙2章28節
*1ヨハネによる福音書14章1、27節
*2ヨハネによる福音書15章12節