Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

悲しみの果てに寝る

2023年03月26日 | 日記
 睡眠は言うまでもなく、生きていくうえで重要な活動であり、心の状態を調整する機能があり、それがうまく作動しないと心身に悪影響を与えます。幼児が泣きつかれて、そのまま寝てしまうことがあるように、大人になっても悲
しい思いに打ちひしがれて、そのままベッドに入り、寝るということも必要なことかもしれません。ちなみに私の問題点は、睡眠不足・疲労の有無に関わらず、じっと座っていると、起きていようと努力しても眠くなることです。轟音がするMR検査の最中でも気が付くと寝ている程です。

 イエス様の弟子たちも、ここぞという時に眠ってしまったことが聖書にしるされています。イエス様は十字架にかかる直前、これからご自身に起ころうとする受難を知っておられ、父なる神様に血の汗が出る程もがき苦しんで祈られていました。「この杯をわたしから取り除けてください」と。杯を飲むとは苦しみを受けることの表現です。イエス様の受難は、すべての人の罪を負って、十字架上で死んで陰府に下られたことです。すると、初めから父なる神様と子なるイエス様は一つで、一緒であったのに、イエス様が陰府に下った時は神様とも断絶されてしまうことになります。十字架の肉体的、精神的苦しみ以上に、この父との断絶のほうが、イエス様にとって、私たち人間には計り知れない大きな苦しみと恐れだったかもしれません。

 このイエス様の苦しみの祈りの際中、「誘惑に陥らぬよう、祈っていなさい」とイエス様は2-3回弟子たちに言われましたが、彼らは「寝ていた」と記されています。ルカによる福音書には眠ってしまっていた理由が、「悲しみの果てに」と記されています。おそらく、弟子たちは、イエス様がこれから恐ろしいことになる、つまり死ぬかもしれない、自分たちとはもう一緒にいられないということを思うと悲しくて、祈りながらそのまま、眠ってしまったのでしょう。

 私たちも弟子たちのように、起きて祈っていることが出来ない状態があるかもしれません。目の前の状況や人間関係が重圧となって、心が押しつぶされそうになる。もしくは、悪への誘惑が目の前に迫ってくる。しかし、そんな弱い私たちにも「起きて祈っていなさい」とイエス様は何度も祈ることを思い出させてくださる方です。主イエス様は「自分の力で起き上がれ」とは言っていません。私たちを起き上がらせてくださるのは、死に勝利し、復活されたイエス様です。自分の力で立てない、立ち直れない、どうしようもないとあきらめた時、立てるように引き上げてくださるイエス様、死に打ち勝った、復活されたイエス様を思い出し、助けを求めて祈れるのはなんと心強いことでしょうか。また、どのように祈ったらよいかわからなくて、心が悶々としていたとしても、私たちの内側に住む聖霊がかわりに神様に祈りの内容を「とりなしてくださる」*と聖書には記されています。これは、さらなる安心です。自分の心を私以上にわかって下さる方がおられるということ、またその方に信頼して任せてよいことは感謝につきません。

「イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」ルカによる福音書22章45-46節

*「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」ローマ信徒への手紙8:26

引用:新共同訳聖書


誰のために

2023年03月12日 | 日記
 気が付くと、冬を感じている間もなく、春の訪れを味わっています。それほど、この時期はあることに集中していてそれをやり終えるまで、いわゆる自分を忙しくしていたのでしょう。今朝与えられた聖書のことばを読み、はっと気が付かされました。日々の忙しさに流されてしまうと、自分は何のために生きているのかと、もう一度問われるからです。

キリストを信じる前、私は、「自分のために生きるのが疲れた」と思うことがありました。人は実は意識していなくとも、皆オギャーと生まれたときから、誰も教えてくれなくとも自分のために生きるでしょう。もちろん、他の人のために何かしよう、役に立ちたいという思いは、後からその人の育った環境、親の影響により出てきます。しかし基本は自分のためにあくせく動いているのです。自分の思いによって行動し、自分のために働く、楽しむ、それが悪いことではないし「普通」の生き方かもしれません。しかし、私はその「普通」に空虚を覚え、疲れたのです。

一方、ある人は自分の家族のため、特に親が自分の子供のために一生懸命最善の環境を作る、犠牲を払う、愛を注ぎます。それは素晴らしいことです。しかし、子供にも人格があり、親が「こうなってほしい」と望んでも当人はそうならない、いつか一人の独立した大人として巣立つ時がきます。親子関係に限らず、人はみな、人のために良かれと思い善意を持って何かをしても、相手にとってはそれが困る場合があります。結局相手が自分の思い通りにならないと、不満足、ストレスとなり、人間関係に問題を起こします。

キリストを信じる者は、今日の箇所に示されているようにもはや自分のため、人のために生きません。キリストのために、神様のために生きると決断します。結果的に神様のためにすることが、他者の益になります。なぜなら目に見えない神に仕えるのは、目に見える人に仕えることになるからです。ただし、その違いは神のためであるので、人の反応がどうであれ、つまり相手が自分の思うように動かなくとも、自分の望む反応をしなくとも、落胆しないのです。神様に対してしたことだからと、その人に拘らないですむからです。
 
では、なぜキリストのために生きるのでしょうか。下記の聖書の箇所にあるように、キリストを信じる者は、キリストが自分のために十字架で死んで、復活してくださったと信じ、その信仰により、信じる前の「古い自分は死んだ」ことになるからです。古い自分とは、自己中心の思いとそれによって引き起こされる罪から縛られていた不自由な自分で、新しい自分はそこから解放され、神様の恵みを日々感謝して受け取るようになり、この地上にいる間、神様のために何かをしようと、強制ではなく自発的に志そうとする者へと変えられる、新生した自分となります。そこには自由があります。「キリストの愛」が動機で何かすることに駆り立てられるので、それはもはや誰かのために、自分のためにという動機でなくなります。それが動機だと、自分のこだわりや相手の反応に揺さぶられないですみます。もちろん、感情的に、一時揺さぶられ、反応することはあります。しかし、何度も信仰の立ち位置に戻れるのは幸いです。

私はキリストを信じる信仰が与えられ、生き方に関して以前のように「むなしい」と思うことがなくなり、神様に感謝しています。今は喜んで、主イエス・キリストに従って、日々歩めるように導いてくださいと祈りつつ、多くの方々がこの主イエスの福音の恵みを知って、信仰に導かれ、平安を得られるよう祈っていきたいと思います。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」 コリントの信徒への手紙2 5章14-15節

引用 新共同訳聖書

「御心のままに」  メッセージ@益子教会

2023年03月12日 | 日記
本日は、ルカによる福音書より「御心のままに」と題して、メッセージさせていただきます。

イエス様は、これからご自身に起ころうとする受難を知っておられ、父なる神様に血の汗が出るほどもがきくるしんで祈られます。父なる神様に祈られます。そして「この杯をわたしから取り除けてください」と祈られた。杯を飲むとは苦しみを受けることの表現です。神の子であるイエス様が十字架の苦難と死を恐れたからでしょうか。イエス様の受難は、すべての人の罪を負って、十字架上で死んで陰府に下られたことです。
すると、最初から父なる神と子なるイエス・キリストと聖霊は一つであり、ずっと一緒であったのに、イエス様が陰府に下った時は神様とも断絶されてしまう。そうだとしたら、十字架の肉体的、精神的苦しみより、この父との断絶のほうが、イエス様にとって、私たち人間には計り知れない大きな苦しみと恐れだったかもしれません。

42節「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 主イエスが父なる神に 「御心のままに」と祈られました。これはイエス様の恐れに打ち勝った 勝利のいのりです。

私たちは御心がなるようにと主の祈りで祈っています。一方、自分の願い、計画、思いを持っています。持つこと自体は悪いことではなく、志も神様が与えて下さります。そのうえで、その計画を神様に委ねられるかが問われます。主のいのりを礼拝で祈り、もしくは日々自分で祈るとき、「御心が天にて行われるように 地にも行われますように」を自分の具体的状況に当てはめて 祈っているでしょうか。定型文の祈りは つらつらと言葉を並べるような慣習的になりがちです。ひとつひとつ 思いをこめて 主の祈りを祈ることは大事です。

 一方弟子たちは、このイエス様の苦しみの祈りの際中、寝ていました。弟子たちは悲しみの果てに眠ってしまった。とルカは記していますが、マタイとマルコの福音書(14章32節から)はゲッセマネというところでイエス様は弟子たちを連れて祈っていたと記しています。そこで3度、「目を覚ましていなさい」と弟子たちに言われたのにも関わらず、彼らは寝ていたと記されています。ひどく眠かったと。ルカのほうが、なぜ眠ってしまっていたのかの理由が、「悲しみの果てに」と記されています。おそらく、弟子たちは、イエス様がこれから恐ろしいことになる、つまり殺されるかもしれない、自分たちとはもう一緒にいられないということを思うと悲しくて不安で、祈ることもできず、眠ってしまったのでしょう。
 
私たちも、悲しみのあまりに祈れないことはないでしょうか。ふて寝という日本語がありますが、辛い、悲しい思いがあると、寝てしまいます。また起き上がることもできないほどに、苦しむ方もいるでしょう。しかし、主イエス様は「自分の力で起き上がれ」とは言っていません。私たちを起き上がらせてくださるのは、死に勝利し、復活されたイエス様です。自分の力で立てない、立ち直れない、どうしようもないとあきらめた時、立てるように引き上げてくださるイエス様、死に打ち勝った、復活されたイエス様を思い出し、立たせてくださると祈れるのはなんと心強いことです。
「起きて」は「立って」とも訳されます。当時のユダヤ人は立って祈る人もいたそうです。座ったり、ひざまずいて祈るスタイルもあり、状況に応じて様々です。イエス様はこの時、ここでは地面にひれ伏して祈ったとマルコ14:35には記されています。
 
わたしたちは弟子たちと同様 誘惑に陥らないようおきていなさいと言われても寝てしまう、弱い者です。その弱さにあって、神様に助けを求めることができます。これが弱いなかにあって強いという逆説的な私たちの状況です。パウロは

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 コリント信徒への手紙2 12章9-10節

もし、自分は強い、自分の力を信じるんだと、この世の人々は自身を鼓舞し、また他者にも励ましているが、限界があります。それなのに、弱い時に頼れる神様の存在を知らない人々は、自分で頑張ろうとする。それは非常につらいことです。しかし神様の力は、私たちの弱さの中にでこそ、十分に発揮される。自分の弱さに気付けることは幸いです。

讃美歌1 291番に
主に任せよ、なが身を 主は喜び 助けまさん
忍びて 春を待て 雪は解けて 花さかん 
嵐にも 闇にも ただ任せよ なが身を

 主は任せてもらうことを喜んで助けてくださる方だと、そして 任せるときに、私たちのすることは忍耐して 春になるのを待つ と讃美歌でも歌われている。

一方で、祈りというのは「困った時だけ祈る」ものではありません。祈りとは日々の生活の中での、神様とのコミュニケーションであり、自分のために、他者をとりなすために祈り、そしてその祈りが答えられるという過程によって築きあげられる神様への信頼関係が前提にあります。緊急時だけに、危機の時にだけ助けを求めて、普段は自分でなんとかできるからと、祈らずにいるというのは自分を頼っていることになります。自分の力に頼り、八方しつくしてから、「もう、祈るしかない」という最終手段のような用い方を本来するべきではないでしょう。キリスト者の祈りは、危機的状況においての保険的な気休めではないのです。

そして、祈ったことは任せる、そして任せてすぐに答えが、反応がなくとも、忍耐して待つことが問われます。待つところに、私たちの訓練があるでしょう。それが「御心がなるように」と祈る、祈りの基本ではないでしょうか。試練・誘惑に遭わないことは この世で生きている限り不可能です。ただ、イエス様が弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」といわれたように、陥らないように祈り、そして神様が祈りを聞いてくださる、守られるという安心感が与えられています。そして状況が変わるまで待つ、自分の心が変えられるまで待つ、これが私たちの成霊的成長でもあります。パウロはローマの信徒への手紙で

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 ローマの信徒への手紙5:1-5

私たちには聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから、危機的状況においても、長年続く辛い状況にあっても、神様からの希望が与えられています。なぜなら、キリストのおかげで、わたしたちは今恵により、信仰が与えられているからです。そしてその信仰をもとに、神様にすべてをゆだねて祈り、そしていつかは神様と主イエスとともに、天での祝福に預かれるという希望が与えられているからです。

問題にばかり自分の思いを向けると、この神様の約束を忘れてしまいます。だからこそ思い出すために、何度もみことばに触れる必要があります。自分の狭い思いのなかでは希望はないかもしれません、しかし、自分の力で希望を生み出せと神様は言われておられません。私たちには、信仰に基づく希望があることを何度も思い出すのです。

それをすべてはるかに超えて祈りをかなえてくださる、大きな愛の視点を持たれる神様に委ねられるようとパウロは彼の祈りをこう記しています。

また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。  エペソ信徒への手紙 3:18-21

私たちはイエス様が受けた程の苦難を受けることはないと思いますが、神様の御心が私たちの地上での生活の中でなると、必ずしも楽な道、安易な道ではないかもしれません。しかし、死に打ち勝ち、復活された主イエス様が、私たちの弱さをご存じで、立ち上がれない時、助けて下さることを信じ、祈ったことを全て神様に委ねたいと思います。また、忍耐する心が私たちの内に与えられるよう願いつつ、希望を持ってこの世の生活に踏み出していきましょう。

(聖書箇所引用:新共同訳聖書)

台湾のために祈る

2023年03月05日 | 日記
 私たちの教会には台湾の方がおられます。折しも今年は、年に一度の世界祈祷日といって、毎年一つの国のために祈るというプログラムがありますが、今年は台湾のためでしたので、彼女に少し台湾について話を聞く機会が持てました。私は台湾に多くの民族、言語があること、そしてそれに関わる政治的問題を彼女の生活の中からの話として聞く機会が与えられました。彼女は、自分の国のために世界中の教会で祈ってくれていることを、とても感謝していました。

 知らないということは、相手を理解する情報がないため、差別や偏見につながる恐れがあります。現代日本において、言葉が通じなくとも、通訳アプリ等を利用しコミュニケーションをはかり、個性や能力が人それぞれ違うことを受け入れることを、子供のうちから教育されることがこの多様性の社会で共存していくために大事ではないかと思わされます。

 多様性を受容できず、「自分たち」という利害を主張すると民族の分断、政治的分断、戦争が生じ、これらを平和に導くことは困難です。しかし、違いがあっても私たちは同じ神様が創られた大切な存在であること、そして互いに愛し合うような人間関係を持つよう神様によってデザインされていることが信じられれば、もう少し世界は歩み寄れるのではないかと思います。ここで、神イコール宗教とすると「恐ろしい」という偏見を持つ人がいます。宗教は洗脳する、戦争をするではないかと。しかし宗教が戦争をするのではなく、神が戦争をするのではなく、結局「人間」が宗教を大義名分にして戦争をし、洗脳しているということを識別すべきでしょう。そもそも、相手に危害を加えることを正当化する神々は本当に神なのでしょうか。それこそ人間が作り出した、自分たちに都合のよい、偽の神々ではないでしょうか。

 私が信じている神は、「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」というメッセージを啓示する神であります。では、神が愛であるということはどのようにわかるのでしょうか。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」 と聖書に書かれています。独り子とはイエス様のことです。この分断・争いの中から抜けられず、罪の縄目から私たちを救い出すために、イエス様はこの世に人となって約2千年前に来て下さいました。そして十字架にかかり、私たちのすべての罪を負って、代わりに死なれましたが、3日目に神様が甦えらせ、死に打ち勝ちました。今は天におられ、私たちの祈りを日々神様にとりなしてくださっています。そして、お互い違いがあっても、一つになれる方法を可能にしてくださいました。その方法とは、

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こ「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」うしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」 エフェソ信徒への手紙2章14-16節

とあるように、皆が「新しいひとに作り上げられること」です。新しい人とは、外面的には同じですが、内面的に聖霊が与えられ、もはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生き、聖書が示すように「神は愛である」「互いに愛し合いなさい」ということを自発的にやっていこうとする人です。一方、新しい人になったからといって、自分自身の人格・個性が消えるわけではなく、感情的には「愛せない」と思うこともあります。「もう、これ以上無理だよ」という状況になることもあります。しかし、「それでも愛そう」「神様がこの状況をなんとかしてくれる」と思いなおせるのは幸いです。神様に祈って助けを求め、導きを求め、神様の与える希望をもって生きていこうとするのが新しい人でしょう。この世に生きている間は、古い人が顔をだすことがありますが、徐々に新しい人の領域が心の中で広がっていく、つまり新しい人へ変えられていくという希望があるからこそ、この世でのキリストにある平和の実現、まずは自分の小さな世界から期待していきたいと思います。


「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 」ヨハネの手紙1 4章7-9節

「主の思い、主の道」 イザヤ書55:6-13 益子教会メッセージ

2023年03月04日 | 日記
本日は、イザヤ書より主の思い、主の道と題して、メッセージさせていただきます。

今日のイザヤ書が書かれた背景は 古代イスラエルが南北に国が分かれ、南のユダヤ王国の末期。イザヤはウジヤ王の治世の終わりの時期から活躍した預言者とされます。この66章からなる預言書が一人の人によって書かれたと捉える人、時代的に数百年にわたる時代のことがかかれているので、他の弟子が書いたのではという説もあります。その話はおいてき、歴史的に587年ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、ユダヤの民はバビロンに捕囚として連れていかれます。エルサレムの城壁も神殿は破壊され、人々は異国生活で絶望的になっていたが、すでにエレミヤという預言者によりこの捕囚は 70年で終わるという預言も与えられていました。

エレミヤの預言は現実になり、バビロニア帝国がペルシャ帝国クロス王により滅ぼされ このクロス王は被征服民族に対する宗教寛容政策をとっていて、538年に ユダヤ人たちはエルサレムに帰還してよいという勅令が出され、破壊されたエルサレムの神殿を再建してよいという許可がでます。この56章のイザヤ書はバビロン捕囚から解放の時が近いことを知らせ、祖国へ戻ることを強く促してる 慰めや励ましに満ちた救いの言葉 や「主の僕の詩」というのが記されている。 
前章で 神のかわらぬ愛が記されています。
イザヤ書54:7-8 
「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが  深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。
ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる。」

また54章では 新しい祝福が預言されている。贖われた新しい民の救い、祝福に預かれるという預言。
そして続く55章では飢え渇いているすべての人に対して、救いにあずかるようにとの招きが記されている。
イザヤ書55:2-3
わたしに聞きしたがえば 良い者を食べることが出来る。あなたがたの魂はその豊かさを楽しむ
耳を傾けて聞き わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。

ここでは、物質的な飢え渇きのことをいっているのではなく、神の霊的にめぐみをうけること「あなたがたの魂はその豊かさを楽しむ」(2節)、自分の努力や人間的な業で得られるもののことではなく、神様からの無償のプレゼントとして(ただで)受けよといっています。わたしたちがなすべきことは  みことばに耳を傾けて 従うこと、主のもとに行くこと そうすれば「魂に命を得る」(3節)。

  本日の箇所  6節 「主を尋ね求めよ 見出せるうちに 呼び求めよ 近くにいるうちに」
  主を求める時はいつまでの続かないかもしれません、チャンスを逃さず 先延ばしにしないことです。
      
7節 は 悔い改めの勧めです。「主に立ち返るならば ・・・豊かに赦してくださる。」 
悪いことをしようというたくらみだけを言っているのではなく、私たちは自分の欲すること、自分の思うやりかたを貫き通そうとし、それをもとに「神様 私はこうしたいので、そうなるようにお願いします」と祈る。その思いは自分のなかでは、悪いこと、たくらみではないかもしれないが、他者にとってはどうか? 神様の目からみたら、正しいことなのか? それがわからないから、自分の思いを一度、横において、神様の思いを尋ねる。そして別の計画を示され、導かれたら 「たとえ 自分の思う通りでなくとも」神様に従うことのすすめ なぜなら
      
「8節 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると 主は言われる。
9節天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」

今日のタイトルである 主の道 と 思い は私たちの思い・道と異なると記されています。どれ程ことなるかというと「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。」天はどれだけ高いでしょか?測定不能でしょう。つまりそれほど神様の道と思いは 異なる。このことを真に悟った時、へりくだった心がおこされるでしょう。そして、イザヤ書53章にて預言されている、イエス様の十字架の贖いの計画は私たち人間の思いを高く超え、そして必ず成し遂げられます。なぜなら神の言葉には力があるからです。つまり、自分の近視眼的 狭いものの見方と 全知全能の主の思いを比較したときに、へりくだった心がおこされるでしょう。神様は目に見えることだけでなく、霊的な必要、霊的な祝福を用意しておられる。愛である神様はすべての人を赦してくださる。 私たちは 赦せない人がいる 愛がないです。わたしたちは自分の利益、自分の思いしか考えられないのに対し、神様はすべてのひとの心をご存じ。神様は悪い人も救いたいのです。キリストはすべての人が救われるように十字架で死なれた。それを信じるだけで救われということは一般的、常識的には受け入れがたいこと。

このように神様の思いはわたしたちの思いとは異なる。私たちの思いより高く超えている。 このことをしっかり理解し、自分の思いや常識に固執することをやめることが必要ではないか。自分はこう思うけど、神様の思いはどうだろうと、いつも問いかけ、答えが示されるまで 先走らず まつという習慣をつける。 みことばを通して、状況を通して、答えは必ず示されるから。
  
イザヤ書40:8 草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。
   
神の言葉は永遠に立つ。変わらない。
 10節は 自然のデザインされたしくみ 雨が降り、大地を潤し、芽がでて新しい命を生み出す 神がすべて自然の営みで養ってくださるようなっている。同様に 11節 「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」

 主のことばはかならず そのとおりになる。主が計画され、のぞまれたことが必ず果たされる。主のみことばからしめされる、主の望むこと、使命とは何でしょうか。 それは私たち人間の救いの計画です。そのことが イザヤによって預言されている箇所が直前の 53章です。

私たちが、神様に立ち返り、悔い改めると 主は私たちを赦してくださる。そのように簡単にわたしたちが赦されてしまうために神様が計画されたことは、非常に困難で厳しい、誰でもできることでない、神の子であるイエス様だけが可能な十字架の贖いです。

贖う(あがなう)は「罪を償う(つぐなう)」という意味の言葉で、人は自分の犯した罪は自分で償うのが原則。
しかし、イエス様はご自分は罪を全く犯されなかったのに、私たちの罪を代わりに償うたために、十字架にかかり、死なれたのです。

イザヤ53:5-6「彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。」

私たちは道を誤り勝手な方向へむかって犯してきた罪のすべてを 主なる神様がイエス様に追わせられたのです。これが、神様の望むことで、成し遂げられることとして、約600年前にイザヤによって預言されていました。
神の子が人になられ、人という体の限界を身にまとわれて、私たちの罪を負って、十字架で苦しみ、死んでくださることが、わたしたちの罪が神様の前に赦される方法だったのです。

聖書のことばは 主の思いと道を掲示し、目的を定め、約束をなし、表現されたことを達成する 力 がある。
    神様が言われたこと、この救いの計画はキリストを通して成し遂げられた。 
人間が歴史上、どんなに失敗しても、神様の計画以外のことをしようとしても、(たとえばアブラハムとサラ イシュマエルによって子孫をもとうとした) サタンが邪魔をしようとしても (幼児イエスを殺害しようとしたり、イエスが十字架にかからないようにしようとしたり サタンが誘惑したり) 異端の教えを生じさせ、人々を信仰から離そうとしようとしても、主の救いの計画はぶれない。神の言葉がとこしえに立つから。
 
    みことばの力に応答すると どうなるかが 12節に記されています。 「喜び祝いながら出で立ち」と。み言葉に書かれていることを信じ、主の思い、計画に委ねようとすれば、 世界は以前自分の視点で見ていたもとは異なり、変容する。それは、個人的に新しい感情;喜び 新しい関係:平安 新しい守り: 神に導かれるという安心感が与えられるでしょう。将来的にはすべての被造物が解放されることを現わすために 植物を用いて 祝福への変容を現わしています。死から命へ、古い状態から新しい状態へ、一時的から永遠へ、必要から 満たしへと変えられます。

   神様は 値を求めずに私たちに来なさいと招き、シンプルに神様に立ち返るよう悔いあらためを呼び掛け、あわれみと赦しを保障される、そしてそのことを確証させるみことばの力を示してくださり、それに応答したものの新しい状態、喜びと希望、平安  この章にキリストの福音が凝縮されています。

私たちは みことばのなかに示された 福音をシンプルに信じ、イエス様の十字架の贖いを深く感謝したいと思います。キリストの福音は神のことばによって示され、そこには力がある。神様の約束は必ずそのとおりになる。
12節「あなたたちは喜び祝いながら出で立ち 平和のうちに導かれて行く。山と丘はあなたたちを迎え 歓声をあげて喜び歌い 野の木々も、手をたたく。」

私たちもその神様の言葉を信じ、神様に従おうと決めて人生を歩んでいきたい。その方向で日々自分の思いをあらたにしていけば、喜びが与えられ、祝いながら出でたち、平和のうちに導かれるというのが神様の約束。この約束はそのとおりになるという、神様の力があります。それを日々の生活のなかで、思いめぐらしていきたいと願います。
 (引用:新共同訳聖書)