Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

ゼラニウムの香り

2019年07月27日 | 日記
 今年は、長い梅雨も明け、台風の到来と共に夏本番となってきました。私は夏の暑さは好きですが、夏で困るのは虫です。蚊、ダニに刺されると、私の皮膚は人一倍腫れあがり、かゆみが続き、なかなか治りません。虫よけを体にたえずつけるのは体に悪いですし、実はあまり効きません。同じ効果がないのであれば自然のものをと色々調べ、ゼラニウムというハーブが虫よけになると知り、その液を薄めて体にスプレーしたり、お湯に垂らして部屋に香りを漂わせたりしています。効果は? よくわかりませんがとにかく刺される時はさされますが、ハーブの良い香りという点で満足しています。
 香りとにおいの違いはなんでしょうか。少なくとも食べ物に対しては香りを使うより、匂いがよく用いられますし、不快を感じるもの対しては臭うを使います。花の香、お香の香り、また香ばしい香りと食べ物にさえも、どちらかというと、心地よい、さわやかな、良いにおいのする事に関して、香りを使うのではないでしょうか。

 香りが良い品性とか影響力として比喩的に聖書で用いられています。クリスチャンというのは、本来信じている神様、キリストがどういう方なのかを知識として聖書を通しても知っているはずで、そして知識にとどまらず、それに倣うものであるはずです。もし、知っているとおりに、キリストに倣っていれば、その良い品性を接する人みなに、醸し出しているはずです。しかし、現実に私を含めて、なかなかそうはいかないのではないでしょうか。私はいつもこれで失敗するのですが、攻撃的な出方をする人や、相手のことを全く考慮しない自分本位の要求を突き付けてくる人に対して、言葉には出さずにいても、嫌悪感が顔にでてしまうことがあり、相手に対して嫌悪臭を放ってしまいます。目の前に、自分にしか見えない鏡があって、自分がどういう顔をしている見えたらいいのにと思うことがあります。(笑)以前は言葉にも出してしまっていた時があり、信仰を持ってから、言葉に出さないようにと自制がはたらき、少しは変えられたようです。言葉は一度出てしまったら、取り返しがつきません。

 一方、心で相手に対して苦い思いもちながら、表情でニコニコしているのは偽善です。偽善を神様は嫌われます。心の内側から、苦い思いを持たないよう変えられなければなりませんが、いずれにしても、一晩では品性は変わらないものです。時間がかかりますが、諦めずに、そういう相手が攻撃をしかけてきても反応しない、つまり心の中でも静かに反応し、どう相手に対応すべきかをその場で神様に祈って、神様に助けて頂きたいと願います。

 古代イスラエルの国に、ネヘミヤという人がいました。彼は当時世界を征服していたペルシャ帝国により、国を奪われていましたが、才能があったため王の件酌官(毒見役のようなもの)という職について、王の横にいつも仕えていました。彼は、突然の王の質問に対して、それに答えるまでの数秒間に、心の中で神様にどのように答えたらよいかを祈り、そして知恵が与えられ、結果、彼の征服された国の首都で、破壊されたままのエルサレムの城壁を修復してよいという、寛大な許可を得ることができたのです。

 私もこの信仰の人、祈りの人であるネヘミヤのように、その瞬間に心の中で祈って、適切な対応を出来るように変えられていきたいと思わされます。ハーブの香りとまではいかなくても、せめてバッファーゾーン(緩衝地帯)のような、争いとか衝突を和らげるような雰囲気、例えば、争うのがどうでもよくなるような、天然ボケ的匂いを醸し出せるように心が変えられたらと思います。

「しかるに、神は感謝すべきかな。神はいつもわたしたちをキリストの凱旋に伴い行き、わたしたちをとおしてキリストを知る知識のかおりを、至る所に放って下さるのである。」 コリント信徒への手紙2 2章14節

いいね! がつかなくとも:評価を気にせず

2019年07月19日 | 日記
 先日、読んではっとさせられる絵本「たいせつなきみ」マックス・ルケード著に出逢いました。内容は、木で造られた小人の世界の話です。その小人の村では毎日、互いに体にシールを貼りあっています。それは星シールとダメシール。星シールは、「あなたは素晴らしい!」、「いいね!」と他の小人が評価したとき体にはられ、ダメシールは失敗をしたり、見た目が悪かったり、他の小人と同じでないと「あなたはだめな小人だ!と」だめシールを貼られます。主人公はいつもダメシールを貼られ、自己嫌悪になり、自分は価値がないと卑屈になります。ある日、彼は一人だけ体に何のシールも貼られていない小人に出逢います。理由を聞くと「エリに会いに行っているからよ」と。

 エリとは、村の丘の上に住む、村のすべての木の小人を創った彫刻家。そして、主人公はエリに会いに行き、エリと話しをします。エリは主人公に、互いにシールを貼り合うことがどんなに意味がないことかを説明します。なぜなら、造ってくれたエリが、一つ一つの小人を異なって作ったので、他の小人がおまえをどう思うか、気にすることはないと。気にするからシールがくっつくと。「大事なのは、このわたしがどう思うかなのだ。わたしはおまえのことを、かけがえのない宝だとおもっているのだよ。」「時間がかかるけど、私のところに毎日会いに来れば、私がどんなにおまえのことを大切におもっているか、気づいていけるようになるよ」と言われます。そのことばに励まされた小人。すると、体にたくさん貼れているダメシールが、一枚だけぽろっとはがれていきます。

 この話は、全部で6話構成となっていて、これは最初の一話ですが、私はいまだに、星シールとダメシールを貼り合っている習慣に対して、正直に向き合わず、ほおっておき、よって心がかえられてない、未だに縛られていて自由でないと改めて気付かされたからです。頭では、キリストを信じる信仰を与えられ、聖書を読んで、人と比較することの無意味さ、神様に目を向けて、神様に仕えて行こうと思っていたのですが、実際、特に教会の人間関係のなかで、人の評価を気にして奉仕している時があります。しかし、そこには喜びがなく「ああ、また失敗してしまった。」「こう思われるのではないか。」「こう言われるのではないか」と、頭なのなかでくるぐる考えてしまい、本当に疲れます。初心に戻ろうと励まされました。

 一人一人が神様に創られた大切な存在。神様の与える恵みというのは、その人が何か才能があって仕事ができる人、性格がよい人、人徳がある人、神を信じている人だけに与えられるものではないのです。それは”全ての人”に対して与えられる救いの恵だからです。その証拠は、このような愚かな行動をしている、この小人のような、欠けがあり、それでいてプライドが高くてすぐ傷つき、いじけてしまう自分を救うために、神の子、イエス・キリストが命を犠牲にしてまで十字架で死んで下さったことだと聖書に記されています。そして自分の存在価値は、人が決めるものでもなく、自分で決めるのではない、神様がどう、自分を思うかで、それはイエス様の十字架で示された愛によってわかります。どれほどわたしたち人間を価値あるものとして愛し、正しい道に導こうと、命が心に与えられるようにして下さったのです。このことを信じられるのは、幸いです。私も、毎日エリ(ちなみに、エリとはヘブル語で”神”の意味)に会い、この愛をおもいださなければと思います。徐々に、人からの評価や、SNSでいいね!がつかなくとも気にせず、人と比較せず、神様の愛に応答して、何をするにしても神様の為に喜んでしようと心が変えられていきたいと願います。 
 

「しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」 ローマ人への手紙11章6節 (聖書のことばより)

*「たいせつなきみ」マックス・ルケード著、“You are special”Max Lucado、
翻訳:ホーバード豊子 出版社:いのちのことば社フォレストブックス, 2007

思い煩わず、賢く判断する

2019年07月10日 | 日記
 皆さんは、ご自分の予定をどの程度先まで建てますか?私は仕事をしていた時は、一ヶ月の予定表に訪問先や会議の予定などをざっとうめ、急なアポが入ってもよいように余裕を持ってスケジュールを建てようと努める方です。そして、締め切りがあることは先延ばしにせず、なるべく早めに終わらせておくほうです。それでもその通りにいかず、ギリギリになることもありました。結局、その日に今日中になすべきことは何かと、優先順位をつけ、自分が建てた予定を柔軟に変えていかなければならないでしょう。
 お金のこともしかり。家計簿をつけ、計画的に使うことは必要ですし、貯金をする余裕があればそれに越したことはありません。しかしその余裕がなく、予想外の出費があっても、それにみあう仕事がその時までに与えられ、なんとかやりくりできたということが多々あり、全て神様のおかげだと本当に感謝しています。身近な母の人生を見ていてもそうだったし、私の短い人生を振り返ってもそうでした。「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。…あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。」* とキリストが言われたことばのとおりで、思い煩う必要はないと安心できます。ただ、神様は「今」必要な分しか下さらないし、前もって余分に与えられませんでした。それは、余分にあると余計なことを考え行動するからでしょう。お金が余分にないことは感謝だと思います。なぜなら、お金はあればあるだけ人間関係で争いの基となり、もっと増やそうとすることに心を奪われるからです。今日も、友人が訪ねてきてくれて色々話をしていた中で、「でも、お金は足りないと思っているくらいが幸せかもね」、「神様がぎりぎりで、なんとかしてくださるしね」という話になりました。
  しかしながら、今の世の中、神様がなんとかしてくれるから何もしないで、何も気に留めずぼーっとしていてはよろしくないというのが、今日与えられた聖書の言葉より気がつかされます。聖書というのは、ここに少し、あちらに少しと、一つのことに対してバランスを取って書かれている事柄があります。神様に委ね、思い煩う必要はないが、一方で賢く歩みなさい、今の時を生かして用いなさい、なぜなら今は悪い時代だからとあります。キリストの時代から約2千年経った今、産業が発展し、IT技術が進んで便利になりましたが、貧富の差は拡大し、孤独な人が増え、犯罪が巧妙になり、もっと悪い時代になっているかもしれません。貯蓄があればオレオレ詐欺に狙われ、ネット上ではSNSを利用した様々な悪の道、危険な罠が巧妙に張り巡らされている為、それに惑わされないためにも、賢く常に判断しなければならない世の中であります。
 また、今の時を生かすということは、今日神様から与えられた時に、自分のしたいことをするより、神様のみ旨にそったことは何かを判断して選び取っていくことではないでしょうか。例えば今の私は、家事をする時間、運動する時間、人と会う時間、教会の奉仕をする時間、寝る時間、テレビ等で世の中で何がおきているか最低限の情報を入手る時間。。。、これらも日々必要なことです。しかし私にとって一番優先順位が高く、時間を費やしたいことは、聖書の言葉と向き合い、祈ることです。聖書のことばから、魂の心の栄養を受けて、それを自分の為だけでなく、他者にも分かち合う、そして人と接して、相手の必要を聞いて共に祈る、これは神様の御心にそったことだと思います。なかなかこのように時間をやりくりできないのが現実ですが、優先していきたいと願います。
 
「そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。」エペソ人への手紙5章15-17節

*マタイによる福音書6章31-32節

悲しい知らせと慰めと希望

2019年07月04日 | 日記
先日、東京の実家に帰っていた時に、大学時代の友人から、また一人、共通の仲良くしていた友の訃報を聞きました。思わず声を挙げ、しばし泣きました。「また」というのは、40-50代のこの数年間で3人の学友と1人の元職場の同僚が病気等で他界し、皆後になってから知らせを受けたため、4人とも突然のことで最後に会うチャンスもなく、葬儀にも行くこともできませんでした。私が落ち込んでいると、そこに居合わせた妹が「人はいつかは亡くなる。お姉ちゃんだって、以前死にかけたじゃない」と言われ、ああ、そうだったと。自分も40代前半で癌を患い大手術をして生かされ、これからは一日一日を大切に生きようと決意したものでした。あれから時が過ぎ、そのことを忘れかけている自分に気がつかされます。その夜、知らせてくれた友人と久しぶりに会うことが出来て、二人で故人を偲ぶ時が持てたことは慰めとなり、感謝しています。

若い時は死を考える暇がなく、高齢になる迄、同世代が亡くなるということはそれほど現実味がないものです。人は他者の死に際し、その時は人生や死を考えますが、日々の忙しさの中で次第に埋没されていくのではないでしょうか。逆に、死んだらどうなるかが分からないまま、死のこと、将来の先行きばかり考えてしまうと、心の病になってしまうかもしれません。それでも、現実に私たちの体は日々老化し、永久にはこの体で生きることはできません。何のために生きているのか、なぜ自分が存在しているのか、そんな難しいことを考えることはせず、とりあえず目の前のやるべきことを一生懸命こなすしかない。また、うまく心のバランスを取るために、一時的な気晴らしや癒しを求めて、何かに打ち込むこともできます。しかしながら、私の友人たちのように、死は突然やって来ます。

もし、瞬く間に過ぎ去っていく人生であっても、「死んだ後にこうなる」という、いわば希望があればどうでしょうか。私は神の存在を信じ、自分が目的を持って神に創られた存在で、私が生きている間も私を助け導き、死んだ後も天国でケアしてくれると聖書に書かれているので、その約束を信じています。すると、死に対する恐怖、自分の存在がいつか消えてしまうのかという不安に怯えることはありません。もちろん、感情的には家族や友人の死は悲しいし、思い出して泣くこともありますが、その都度神様から慰めが与えられます。寿命については、どんなに頑張っても私がコントロールできないことも承知していますが、夫とは、共に力を合わせて人々に仕えられるように神様が夫婦としてくれたのですから、なるべく長く共に生かさせてくださいと願い求めています。しかし、たとえそうでなくとも、全てのことは神様が何とかしてくださるという信頼が持てることは、本当に幸いです。

ちょうど、タイムリーに与えられた聖書の箇所が下記の「生涯の日を正しく数える」というところでした。「生涯の日を正しく数える」とはどういう意味なのでしょうか。これは、何歳まで生きられるかしら?と算定することではなく、いつかはこの世での生活が終わるという現実を受け止めた上で、「きょう」という日に何をなすべきかを見極めることかと思います。それは、ある人を赦すと決めることかもしれない。何もできなくても、ベッドで静かに祈ることかもしれない。私の思いは愚かで、状況に左右されやすく、頼りにならないので、神様からそのような判断力、知恵を頂く必要があります。私を創った全知全能の神様は、今のこの時の私に何が必要か、また何を私がするのがベストなのかをご存知だからです。同時に、私がロボットのように神様のプログラムに従えというわけではなく、神様は私の願い、私の志も考慮した上で、また私が自分の判断で失敗したとしても、優しく軌道修正に導いて下さる、愛のある方であるのが感謝です。

今日が最後かもしれないと覚えつつも、その日を喜んで通常通りに生活し、そして死ねば天に召されるという平安な気持ちでいたいと願います。残された日々を大切に生きようと、以前した決意を忘れずに。。

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」  詩編90篇12節