Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

神さまからのサプライズ

2020年12月30日 | 日記
「サプライズ!」思いもかけないプレゼントが用意されていたり、何も知らされず、その当人が驚かされるような状況が与えられる時に使われる言葉ですが、当人は驚きと喜びでびっくりするものです。思えば神さまはいつも、サプライズで私たちを驚かせ、喜びに満たして下さる方です。最近のサプライズは12月25日に与えられました。この日は、益子教会に専任して初めてのクリスマス礼拝の日。今の社会情勢により、集まって礼拝を行うべきかどうか迷いもありましたが、いつもの礼拝堂のスペースと隣の部屋の間の仕切りを外して広く場所をとり、参加者全員にマスク着用、入口での消毒をお願いし、感染対策を取って準備しました。もともと、益子教会では10人以下の集まりですので、新しい方が来たとしても密になることはないと予測していましたが、リスクはありますので、神様に守っていただくよう祈り委ねることにしました。結果、私たち夫婦以外、9人の方々が参加され、クリスマスの賛美歌を歌い、夫のメッセージを聞き、とても和やかな時間を共に過ごし、無事にクリスマス礼拝を開催できたことは、本当に神さまの恵でした。

 9人の内の二人が新しい方でしたので、そのうちの一人に私が「初めまして」とお声をかけると、「一度、木曜日の聖書を学ぶ会に来たわよ」と言われ、ハッとして思いだして失礼を平謝り、慌てましたがすぐに驚きと喜びで一杯になりました。彼女は益子教会のチラシを見て来られた方のお友達で、半年ほど前に一度だけ木曜日の聖書の学ぶ会に来られ、それきりでした。暫くは、また来て下さるようにと祈っていたのですが、いつのまにか彼女の為に祈ることを忘れていました。ところが、折しもクリスマスの日に、彼女から木曜の学び会についてお問いあわせがあり、その彼女とは知らずに夫が電話で対応し、「今晩、クリスマス礼拝があるので、それにもぜひいらして下さい」とお誘いしたら、なんと来て下さったのです。クリスマスのチラシを近隣にも配ったので、誰か来られるかなあと期待して、一ヶ月以上前から祈ってきたのですが、あの時の方が来て下さるとは、本当にサプライズでした。

 教会に新しい人が来るというのは非常に貴重なことです。ですから、一期一会の出会いを大切にし、フォローアップしなければならないのに、私は連絡先がわからないとはいえ忘れてしまっていて、そんな自分が情けなくなり、神様にごめんなさいと謝りました。しかしながら、私は忘れていても神様は決してお忘れにならず、彼女のことを覚えていて、ちょうどクリスマスに日に彼女の心に「また行ってみようかしら」という思いを起こしてくださったのです。本当に神様のなさることは素晴らしいと、感謝の思いで一杯です。引き続き、木曜の学び会に来てほしいと願います。

 もう一人の新しい方は、いつも遠くから来て下さる方(大下の父が足利で牧師をしていた時の信徒さん)の娘さんで、クリスマス礼拝にお母さんと一緒に参加して下さり感謝でした。教会というのは、近隣の方に限らず、車や電車で遠くから来て下さる方もいますが、引き続き、お二人で来て下さることを祈っていきたいと思います。

 益子教会はある時から信徒がいなくなり、他教会の牧師さんが兼務で他教会の信徒数人とともに土曜礼拝を続けてきましたが、2020年4月から私たち夫婦が益子教会に移り住んで専任となり、日曜礼拝を再開したという経緯があります。ですから、新しい人が来られるたびに私たち夫婦には大きな喜びが与えられます。様々な理由で聖書に興味を持ったり、教会に来る機会があって、聖書の言葉に触れ、神様の愛と恵みを知るようになってほしいと、私たち夫婦にとってその事が一番の願いであります。生活の中で、様々な問題で苦悩している人々、失意の中にいる人々が神様から与えられる安心と希望・救いを見出し、そのことを皆で共に喜ぶ時、それは下記のみ言葉のようにさまよっていた羊が羊飼いに見つけられた時のような大きな喜びです。私たちにとって、この喜びこそが何よりも大きなサプライズであります。そして、益子教会を献金とお祈りで支えて下さっている多くの方々に、この喜びを分かち合うことで感謝を表し、神様に栄光を返していきたいと思います。益子教会が今迄無事に礼拝を続けられていることを神様に心から感謝しつつ、神様が来る年も、一人二人と益子教会へ送って下さるみ業を期待して祈り続けていこうと思います。

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」 ルカによる福音書15章4-7節 (口語訳聖書)

人と争わないこつは:一番「したくないこと」をする

2020年12月19日 | 日記
 「切れる」ということばはいつから、日本語においてイライラした瞬間を表す用語として使われだしたのでしょうか。少なくとも、この2-30年位前ではないかと思います。ぶちっと堪忍袋の緒が切れたという表現からくるのかはどうかは不明ですが、「切れる」人が多い世の中で、切れて暴力的な行動・言動に出てしまうと、警察沙汰になってしまい、多くの人が被害を受けます。一方、切れた当人は自分の行為の正当性を主張します:相手が悪い、だから自分はこういう行動をしたんだと。しかし、どんなに相手が悪くとも、暴力で返してはならないのです。そこまでいかないとしても、だれでも、自分の想った通りに事が進まないとイライラし、相手にたいする口調がきつくなってしまうことがあり、それに対抗して相手もきつくなりと、人間関係の悪化のきっかけとなりえます。私も以前、短期な性格により、よくイライラしていましたが、今はその傾向性を自覚し、なるべく穏やかに、口調に気をつけ、たとえ不当な扱いをされても切れないで、忍耐しようと務めています。逆に、自分の言動や失敗で、相手をイラッとさせてしまい、冷たい態度を取られてしまうことがあります。素直に謝るべきことは謝り、自分からは穏やかに接し、相手との関係がよくなるように日々祈ります。
 人間関係における全ての争いのもとは互いに権利を主張することからくる、と言えるのではないでしょうか。自分がこうあるべき、こう扱ってもらうべきだと思った通りに事が進まないと、相手に訴えます。それにより、身体的もしく物質的に損害を被むれば、裁判という手段を用います。裁判はお金や時間もかかり、なかなか、判決も自分が勝訴したとしても、失ったものは元通りにはならないし、この世のやり方での争いの解決は、結局心の傷や後遺症が残り、さらに次の争いに発展するというケースがあることは、悲しい現実です。どこかで、自分が損した分を取り戻そうという主張を手放し、相手をとりあえず赦すということが、少なくとも自分の中で争いを終焉させる方法ではないかと思います。
 ここで下記の聖書のことば「互に従いなさい」に触れてみたいと思います。「従う」ということは、一番人間がしたくないことであり、仕事や学校、家庭で、仕方がなく従うことはあっても、自分のプライドがあるので、本当は他者が自分に従ってもらいたいと思う傾向性が誰にでもあるのではないでしょうか。しかし、キリストを信じる信徒に対して、キリストの使徒パウロは「互に」従いなさいと勧めています。片方だけでなく、互いに。これはなぜできるのかというと、人間関係において、私と相手という2者の間に、第3者の存在があり、お互いがその第3者を通して、互いにプライドが低くされ、仕えあおう、従おうという思いが与えられるからです。その第3者とは、イエス・キリストです。互いにキリストの愛を受けている者であれば、キリストが自分を赦し、良くして下さったことを感謝して、他者に対してもそうしようという思いが与えられます。「与えられる」としたのは、素の自分では出てこない思いだからです。キリストを信じた時に与えられる聖霊の働きにより、感情ではたとえ相手に従うのは納得できなくとも、キリストがそう言っていたから、そうしようと思い直すことができるからです。したくないけど思い直す、これが私の正直な反応です。もちろん、もっと信仰が練られている人は、思いなおさずとも、最初から自然にそう思えるのではないかと思います。そこまで自身の品性が変えられていくように願います。
 現代は、失うものが多く、大変辛い時勢です。多くの人が職を失い、経営状態が悪化しと、お互いの権利を主張し合います。そうしないと生きていけないからです。しかし、私たちの思いを超えた、見えない存在の全知全能の神様の存在を認め、神様がなんとかしてくださる、そして私たちに災いではなく、将来と希望を与える計画を用意して下さっているという約束*を信じられれば、どんな状況となっても、生きていけます。そして、「互に」こだわっていることを手放し、互いを尊敬できれば、争うかわりに、互いに助け合うことにつながるでしょう。それには、人間同士の美しい関係だけでは限界があります。やはり、イエス・キリストをまず信じること。これが全ての争いの解決の基盤となると思います。
 今日は、夫が那須のホテルでウエディングの司式の仕事をしているため、雪の積もった景色を見ながら、日々与えられるみことばを通して思わされたことをつづっています。今日、夫婦となるお二人に、夫の司式での短いメッセージを通して、お互いに敬い、愛し合えるご夫婦になられることを祈りつつ。。。

「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。 」 エペソ人への手紙5章21節

*「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」エレミヤ書 29章11 節 (口語訳聖書)

シュトーレン(ドイツのクリスマスケーキ)

2020年12月06日 | 日記
 クリスマスにクリスマスケーキを食べることは、クリスマスの意味を知らない日本人にとっても、日本の文化の一部となっています。先日、私たちも知り合いの息子さん夫婦が開いている洋菓子店で、クリスマスケーキを予約しました。最近日本では、パン屋さん、洋菓子店でシュトーレンというケーキを見かけるようになりました。シュトーレンとは、ドイツで伝統的にクリスマスの時期に食べられる、ドライフルーツとナッツが入ったフルーツケーキです。このケーキは粉砂糖で真っ白に覆われた楕円形で、イエス・キリストが赤ちゃんとして生まれた時にくるんだ、おくるみをイメージしているそうです。このケーキは、クリスマスの当日に食べるものではなく、待降節といって、クリスマスにむけて4週間前から教会はクリスマスの準備期間を持ちますが、その時期にクリスマスが来ることを楽しみにして、少しづつスライスして食べます。

 この待降節(アドベント:「到来」という意味)は、イエス・キリストが人となって2千年前に生まれたその誕生日を喜び祝うための準備期間をいいますが、もう一つのことを準備する期間でもあります。それは、第二の到来、主イエス・キリストが再びこの世に来られること(再臨)を覚えて、それに備えていく時でもあります。

 キリストがもう一度来られることについて、イエス様が弟子達に幾つかたとえ話で話されていたことが聖書に記されています。10人の乙女のたとえ、遠くへ旅に出かけた主人と家を任された僕たちのたとえ等、どれも共通している点は予告なく「突然来る」ということです。つまり、いつ来るかという予測は誰もできないし、知らないので、いつキリストが来られても良いように、日ごろから心を準備しておきなさいという警告でもあります。これは、あれから2千年もたち、結局、キリストの再臨はない、裁きもないとたかをくくって、神様を恐れず好き放題なことをしている人たちへの警告です。しかし、神様にとって、1日は千年、千年間は1日という長さで*1、時間の感覚は人と異なります。

 イエス様の弟子ペテロは、この再臨の際に起こると記される天変地異、つまりすべてのものが崩れてなくなる、この世の終わりの現象に触れ、「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほどきよい生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」*2と言っています。大切なことは、いつ来るかと予測することや、この世の終わりだと恐れることではなく、神さまを信じ、清い生き方をして、キリストの再び来られることをを待ち望むことだと言っています。今日の下記の箇所は、別の弟子ヨハネもこの再臨に望みを持つ者は「キリストがきよくあられるように、自分をきよくします。」 と記しています。
 
 キリストの再臨における望みとは、最後の審判において、キリストを信じて生きそして死んだ者たちは、復活と永遠の命を与えられ、先に復活して天で生きておられるキリストと共にいつまでも生きる者とされることです。神様は、イエス・キリストを通して、私たち人間がこの最後の裁きを恐れなくてもよいように、救いの道を用意してくださいました。神の子でイエス様は私たちの罪のために十字架に架かられて、その罰を負ってくれてたので、この最後の裁きの時に、キリストを信じる信仰により、責められることがないのです。たとえ、完璧なクリスチャンとして歩めなくとも、失敗があり、何度か神様を悲しませることをしたとしても、信仰さえ持ち続け、悔い改めて、神様にすがっていけば、キリストによって私たちは正しいとみなして頂けることは、なんと幸いなことでしょうか。ですから、世の終わりのキリストの再臨と、そこで起る最後の審判は恐ろしいものではなく、救いの完成の時だとなり、待ち望むことができます。

 日常生活の中で、心を清く保つのは努力がいります。なぜなら、まだ心ではキリストを信じて内側が聖霊が住み、新しくされていても、いまだこの肉体を持っている状態で生きているので、外側から入る情報、環境、過去の記憶等にかなり影響されます。影響されにくくするには、なるべく心に悪い影響を与える情報や環境を避けることです。また、仮にそうしたとしても、ふいに、過去の映画等で見た怖い映像やある人に対する苦い思いがフラッシュバックしたり、マスコミに操作されて必要以上に恐怖心を煽られたりすることが起こります。私は牧師たちに教えられたことは、道を歩いていて、自然に入ってきてしまう誘惑の映像や、相手を悪い言葉でけなしたり、下ネタでゲラゲラ笑っているTV番組が待合室のTVで放映されていたら、「2度見」をせず、その場を立ち去ればよいと。つまり、何かに反応してぱっとわいて出た悪い思いを、そのまま心の思いのなかで進めないことでストップできます。そのままにしておくと、思いはどんどん広がっていきますから、私は思いがわいた時に神様に瞬間的に祈ります、「この思いを消してください」と。すると、感謝なことに消えていくので、それに捕らわれることなく、心が汚されることを防げます。

 信仰を持って、長年教会へ行っていても、いまだに私はこんなやりとりを神様と心の中でしなくてはならない、なかなか清くなれない者です。しかし、アドベントの時期だけに限らず、普段の生活の中でも、キリストが来られることを待ち望み、心を聖霊によって徐々に清めていただき、準備していきたいと願います。

「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストがきよくあられるように、自分をきよくします。 」 第一ヨハネの手紙1章2-3節

*1「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 」第一ペテロの手紙3章8節
*2 第一ペテロの手紙3章12節(新改訳)