Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

病の癒し

2020年05月10日 | 日記
 先日、競泳日本代表の選手で、白血病が一年前に発症した方のその後のドキュメンタリーをTVで観ました。彼女はたった一年で闘病生活から復帰し、ジムでトレーニングを開始し、そしてとうとうプールで軽く泳ぐことまで出来たという、その時の彼女の笑顔に感動しました。残念ながら、その直後、コロナウイルス感染拡大の為、屋外でトレーニングを続けられなくなりましたが、彼女は今も家の中で続けているそうです。自分のこれからの使命としては、病気の人に回復の希望を与える為に自身も頑張りたいと、また、新型コロナだけでなく、その他の病気と闘っている人もいることを覚えていてほしいとも言っていたのに感銘を受けました。誰でも病から回復したいという思い、それが難病であっても、諦めずに前向きに闘病される方々にとって、彼女の発信により、どれ程勇気づけられることでしょう。

 先月、アメリカの実話を基にした映画を観ました*。あらすじは、主人公の小学生の女の子が突然腸の難病を患い、物凄い痛みに日々苦しむも、その原因も分からず治療法もなく、家族は飛行機でテキサスからボストンまで権威ある小児科専門医に通いますが、治る兆しもなく、経済的にも追い詰められます。その家族はクリスチャンで、家族皆で教会に通っていて、家族は必死に神様に癒しを祈りますが、その母親は神に求めても無駄だと信仰を一度諦めます。ある日、その子が(おそらく白血病で)入院治療中の同室の女の子に「死ぬのが怖い?」と尋ねます。そして、「イエス様が共にいるから、怖くないわよ」とその子に説明するのです。その後、主人公の女の子は家にいる時に木から転落し、一度死にかけましたが、なんとその難病もその時に治ってしまったのです。彼女が言うには、意識を失っている時、一度天国に行ったのだけれど、地上に帰れと神様に言われたと言います。もちろん、それを信じる、信じないは個々人の自由です。むしろ私が感動したのは、その子が生き返ったこと以上に、その後同室だった子が死んでしまったのに、その父親が神を信じたという告白でした。普通だったら、子供が癒されれば信じそうなものですが、この同室の子の父親は当初、「宗教の話をうちの子にしないでほしい」と、主人公の母親に言った程でしたが、その後、自分の娘がイエス・キリストを信じて、死を恐れずに、安らかに亡くなっていった様子を見て、神はやはりいるのだと信じたということに、感動しました。

 人は病気になり、ある人は助かり、ある人は亡くなります。それがなぜなのかは私たちにはわかりません。誰でも懸命に努力して、復帰できれば素晴らしいことです。では、亡くなってしまう場合には希望はないのでしょうか。私は、この同室の天国に安らかに召されていった少女のこと、そしてその父親のことを知り、少女の死自体は父親にとって想像を絶する悲しみであり、慰めが必要ですが、この死は絶望に終わらず、父親の人生を全く変える力が現わされたと思います。そして、この映画を観た多くの人々に、特に病気の家族を持つ人々にとって、たとえ病が治らなかったとしても、希望を与えると思います。その希望とは、イエス・キリストを信じて、生きている間に起こりうる様々な困難なことに対して、全ての悲しみも、苦しみも、神様の不思議な仕方により、信仰により乗り越えられること、そして天国でも命が続くという希望です。神様は真実な方ですから、無意味に私たちに苦しみや悲しみを与える方ではありません。なぜなら、神様は私たち一人一人を大切に思っていて、愛しておられる方だからです。ただ、神様の考えていること、その計画は私たちには理解を超えます。わからなくとも、その真実であることは、このような多くの人々の証から、立証され、励ましが与えられることが本当に感謝です。

 新型コロナウイルスにより、多くの人々が命を失い、アメリカでは子供たちが新たな病気にかかっているそうです。家族を失われた方々に深い慰めと、いつか希望が与えられるように、今闘病中の方々が癒されるように、日々祈り続けます。
 
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 」 Ⅰコリント10章13節

 *”Miracles from Heaven” (「天国からの奇跡」), アメリカ, 2016, Columbia Pictures Ind.

夢に現われるプレッシャー

2020年05月09日 | 日記
 何があなたにとって、プレッシャーとなりますか?仕事、学業、人間関係。。。私の悪い傾向性は、不必要な、存在しないかもしれないプレッシャーに苛まれることが時々あることです。例えば、頭の中で、誰かに「これはどうなっているのか?」とまだ実際問われていないうちから、責められる思いにかられ、それに対して言い訳を考えたり、あせったりします。そしてそれは時々夢に現れます。夢では、若い時に卒業したはずの大学の時代に戻り、単位が足りなくて卒業できないと焦っていたり、中学生の時の場面に戻り、試験勉強に間に合わなかったり、退職した会社の場面になって、出勤しようとするとなぜか職場に行くことを妨げられ、無断欠勤となり焦るなど、そのような類の夢を時折みるので、私の目覚めている時の思い煩いが起因していると思います。その思考が頭に湧いてくるきっかけは、たとえばある人(たいがい、以前からその人と緊張関係にある、自分にとってはちょっと苦手な人です)から、連絡があったりした時です。すると、それに対してこう言おう、ああ言おうと頭の中でぐるぐる考え、メイルで返信を打った後にも考えてしまうのです。もちろん、相手は私がそう感じているとは思っていないでしょうから、意味のないことなのです。

 このような思いに捕らわれた時、神様に何度もここから、解放してください、相手に対する恐れや苦手と思ってしまう心を変えて下さいと祈ります。そして、神様はこんな情けない私をかわいそうに思って下さる、慈しみ深い方であり、解放してくださる方であることに感謝します。なぜなら神様は私を責める方ではないし、他者との関係で平安な気持ちをもってほしいと願って下さる方だからです。ただし、私が何か罪を犯していれば、私の心にいる聖霊が「それは良くない」と、静かに語り掛けてくるでしょう。その場合は、悔い改めて、その罪を私がストップするために、心が責められる必要があります。

 下記の聖書のことばは、キリストの使徒パウロが記していますが、キリストを信じて、主と呼び、キリストに仕えようという人生に変えられるので、一人一人が神様からこの地上でキリストの福音宣教に関わることを何かしら任されている、管理者だという文脈で書かれています。しかし、神様はその任していることを私が失敗したり、出来ないです!と完成できなくとも、私を怒ったり、責めたりしません。もしかしたらそのことを神様は残念に思うかもしれませんが、私がしなければそのタスクを他の人に任せ、その人が神様に用いられるでしょう。そして私の信仰の力量に合わせて、別のことを任せようとされます。これは実際、私の信仰の歩みを振り返ってみると、そういうことがありました。私はこの世的に言えば出来の悪い娘であり、もし神様の恵みの中におかれていなければ、神様との関係においてもいつもプレッシャーに追われ、平安でいられなかったでしょう。

 この世では、管理者というのはそれなりの力量、能力を持っていないと任されませんし、それなりの報酬を組織から与えられているので、失敗すればすぐに外されます。ですから、管理職というのはいつもこのようなプレッシャーを持ちながら仕事をしなければならない強さが必要でしょう。しかし、信仰の世界では成果主義ではないので、管理者に最低限も求められていることは、誠実であることだとパウロはあえて、言ってくれているのは私にとって少し慰めとなります。なぜなら、私は管理者にとうていふさわしくない者、神様が任していることをきちんとできていない者だからです。しかし神様に対しては、プレッシャーを感じたり、責められる思いに捕らわれ、言い訳を考える必要がなく、正直に、できません、助けてくださいと祈ればよいからです。すると、明後日の方向から助けが与えられてそのことが完成できるか、もしくは状況が変わり、それをしなくともよくなったりします。時には、神様に対して誠実になれない時もあります。その時こそ、聖霊が私の心に悔い改める思いに導き、ごめんなさいと神様のもとに立ち返る時です。

 私の弱さをそのまま受け止めて下さる方であることに安らぎつつ、神様が任されていることが何かを見極め、それを自分の力ではなく、神様の力によって成し遂げられるよう、少しづつ信仰において成長できるよう導いていただきたいと願います。 

「この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。 」 第一コリント人への手紙4章2節

確実性にもとづく安心と不確実性における信仰

2020年05月02日 | 日記
 今朝のニュースにおいて、学生たちへの9月入学制度導入の賛否とその理由についての、アンケート集計の結果が報じられていました。日本社会では、社会全体の年度始まりが桜の季節である4月であるものを、欧米の入学時期である9月に変えるということは、教育制度にとどまらず、日本の社会制度を大きく変えうる政策であります。学生のみならず大人も、そのような変化によって生じる不確実な未来に対して、懸念を示す人のほうが多いことでしょう。一般常識的に考えると、不確実なこと、先行き不透明なことは”良くないもの”として、私たちはとらえる傾向があります。一方、コロナ感染脅威により今迄のように事が進まない時期に、前向きになんとか対処しよう、乗り越えようとして、危機をチャンスとして捉えている方々もいるということは、励まされます。

 信仰の世界というのは、人間の思い中心ではなく、神という存在がベースでありますから、このような確実性に縛られることはありません。イエス・キリストは十字架に架かる前に、弟子たちに大切なことを話されました。彼らはよく理解できず、先生はどこへ行ってしまうのだろう、これからどうなるのだろうという不安な気持ちになり、そこでイエスは弟子たちに、こう言われました。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。」*1

 世の中の常識、目に見えることに基ずく確実性は、ある程度の安心感を与えますが、同時にこれがいつ変わるかわからない、何が起こるかわからないという不確実性がいつも伴うので、100%安心できません。これがイエスが言う、「世が与えるように与える」平和です。しかし、イエスが与える平和は、神を信じ、イエスを信じる信仰によって与えられます。ですから、不確実性のなかにおいても、感情的には一時的に心が揺らぐことはあっても、心の深いところで、神に信頼しようと、神のなさることの範囲内で今のことは起きているし、将来も起きるから、委ねようという気持ちになり、恐れや虚無感に支配されることはなくなります。この信仰の根本には、下記のみ言葉にあるように、イエス・キリストが再び戻って来られて、全てを新しくするという約束を待ち望んでいることにあります。それがいつ来るか、どう来るかは明らかにされていませんが、私たちが生きている間考えることは、御子(イエス・キリスト)のうちにいつもとどまることです。

 どうしたら、とどまれるか。イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」*2という命令を守るなら、わたしにつながっていられる、わたしのうちにとどまれるよと言われました。
 命令を守る。これはプレッシャーになったり、重荷になったり、強制感が伴いがちなフレーズです。しかし、その命令自体が、互いに愛し合うということであれば、互いの益になり、問題の解決の糸口となるでしょう。愛は全てのことを覆います。また、愛せないのであれば、愛せるように助けるよ、たとえ命令を守れなくとも、私はあなたを決して見捨てないよというのがイエスの約束です。自分の力ではなく、神が愛せるように、わたしたちの心や行動さえ変えられるので、また、命令を守れなければ罰則が伴うものではないので、恐れや重荷なりません。他者を愛することに弱い私たちでも信仰を続けられます。これからも、御子のうちにとどまり続けられるよう、助けを祈りたいと思います。

「さて、子たちよ、御子のうちにいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つ事ができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」
第一ヨハネの手紙2章28節

*1ヨハネによる福音書14章1、27節
*2ヨハネによる福音書15章12節