Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

HOPE 希望: Holding On with Patient Expectation

2020年11月29日 | 日記
 ある日、いつもの道を車で走っていると、両側の街路樹が次々に切り倒され根株だけ並んでいるのに気がつきました。これは2022年開通予定の、宇都宮駅から周辺の工業団地まで走る、新しい電車の工事のために取り除かれていたものでした。毎年この道を通る度に、その美し銀杏の木の紅葉を楽しんでいたので、非常に残念に思います。ところが、数週間後に同じ道を通ると、その切り株から枝葉が少しづつ出ているのに気がつきました。木の生命力は改めてすごいと思いました。しかし、人間は次々に自然を犠牲にして、己の利益のために工業団地を建てていくわけです。
 アメリカ人は、言葉の頭文字をつなげて言葉の意味の文章を作り出す、ことば遊びをするのが上手なようですが、先日なるほど!と思うものを見つけました。HOPE(希望)の頭文字をとって、Holding On with Patient Expectation. (直訳すると”忍耐の期待を持ち続けること”) 何かを期待する時は、ある程度忍耐が必要とされます。すぐに希望通りになる場合もありますが、大概、時間的に待たなければならなかったり、希望とおりにならないことが多々あります。つまり、希望には思い通りにならないことに対する忍耐が伴うという面があると思います。人が希望を持つ時というのは、状況が厳しい時、苦しい時であり、これからは良くなる、楽になることを期待することで、希望を持って励まされ、頑張ろうとするからです。逆に、何もかも物事がうまくいっている時は、希望を持たなくとも生きていけるのかもしれません。
 聖書で、ヨブという人のことが記されています。彼は、神をおそれ、神に褒められる程正しい人でしたが、ある時悪魔が「ヨブは、財産、健康、幸せがあり祝福されているからで、それを取り去れば神を呪うよ」と言い、そして神は悪魔にヨブを試すことを許されます。そして一度に妻以外の家族(10人の子供達)を失い、財産も使用人も失い、そして自分の健康も失われるという非常の過酷な状況に置かれました。しかしながら、ヨブは神を呪うどころか、「『われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか』。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。 」*1と言ったと記されています。そして、彼の友だちが彼に「お前が何か悪いことをしたから、罰が下ったんだ」と彼を責めるので、ヨブは自分は何もしてないと言い張り、次第にその論争がヒートアップしていく様子が、ヨブ記の中で詩の形式で表されています。下記の箇所はその中でヨブが言った言葉ですが、これを「こんな状況でも、希望を持てる」という励ましの意味にもとれますし、「木は切り倒されても復活できるが、人はここまでボロボロにされたら立ち直れない」、という嘆きを示した文脈にもとれます。ちなみに、最終的にヨブは、神様のご自身から語り掛けられ、その崇高な存在の前にひれ伏し、再び、子供が与えられ、財産も与えられるというストーリーです。
 聖書のなかで、「若枝」という言葉には意味があり、あることが象徴されている。若枝とはメシヤ、救い主を象徴していると解釈されます*2。ですから、イエス・キリストという救い主にあっては、人はどんな状況であっても希望を持てるのです。なぜなら、イエス・キリストは私たちを絶望から希望へ、暗闇から光へ、死から命へと導く、神の子、救い主だからです。現代のような暗い社会情勢にあっても、希望が与えられていると思えることに、日々感謝しています。それは、何か目に見える保証やお金があるからでもなく、自分や家族が健康だからではなく、政府が何かしてくれるという期待によるのではありません。キリストを信じる信仰が与えられると、どんな状況でも、神さまに感謝出来る心が与えられるからです。使徒パウロは「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。 」*3と言っています。私自分は使徒パウロが経験したような苦難や貧しさを経験したことはありませんが、信仰の成長の中で徐々に、今神さまが与えて下さっている状態・環境で満足し、充分であると思えるように変えられてきていることは感謝です。もちろん、生活の中で様々なことが起こり、忍耐しなければならないこともあります。しかし、その状況がすぐに変わらなくとも、忍耐しつつ神さまに任せようと思っています。なぜなら、神様が全てのことをコントロールしていて、なんとかしてくださる、というイエス・キリストにある希望が与えられているからです。
 クリスマスの時期が近づいてきました。このイエス・キリストにある希望を一人でも多くの人が知り、その恵みに預かれるように祈りつつ、イエス様の誕生を祝う準備をしながら、神様のなさるくすしい業に期待したいと思います。


「木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、その若枝は絶えることがない。」 ヨブ記14章7節 (口語訳)

*1 ヨブ記2章10節 (口語訳)
*2「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」  イザヤ書11章1-2節 (口語訳)
*3 ピリピ人への手紙4章11節(新改訳)

デリバリー

2020年11月15日 | 日記
 最近は、外食よりも家族や少人数で「お家ごはん」やテイクアウトが以前より用いられるようになりました。外食産業としては痛手ですが、感染対策にはとても有効です。結局、マスクを常時していてソーシャルディスタンスをとっていても、食べる時はどうしてもマスクを外し、そして多少でも話すことになるので、ウイルス感染の機会となるからです。そのことが分かっていても、たまにはレストランで食べたいという、外食にはそれなりの価値があります。座ってオーダーすると、美味しい料理が運ばれて来て、食べ終わるとお店の人が下げてくれますし、料理を作らず、後片付けもせず、家の中とは異なる空間で、食べて、話して、何もかまわずお支払いだけすればいいわけですから。一方、たとえおいしい料理であっても、店の人の対応が悪かったら、嫌な気分になり、せっかくの料理の味が台無しになることはないでしょうか。また、ピザのデリバリーの人が、乱暴な運転をしてピザの箱をひっくり返してしまい、中身が崩れたものを渡したらどうでしょうか。基本は味ですが、料理を運ぶ人の態度や方法も大切な要素です。

 イエス様がこの世に生きておられた時、5千人の人にパンと魚を奇跡で増やして給食したことが聖書に記されています。*1イエス様は5つのパンと2匹の魚を、5千人が満腹し、さらに12のかごに有り余るまでにパンを奇跡で増やされました。これは、イエス様の話を聞きにきた群衆がお腹がすいていて、かわいそうに思って必要を満たされたのですが、同時に霊的な意味も示しています。パンは神のことばを指し、神のみことばはどんなに人数が多くても、十分届けられ、皆が味わうこと(知ること)ができるのです。私達は生きるためには食べ物が必要なように、心の食べ物が必須で、それが神のことば、つまり聖書に書かれている神の言葉です。
 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つ一つのことばによる。」 *2
ここでは、イエス様がそのパンを運ぶのではなく、弟子達が運びました。このように、クリスチャンは牧師や教師に限らず、神様の伝えたいメッセージ:聖書に書かれているみことばを、自分の置かれた立場と様々な方法で知らない人々に「伝える、運ぶ」という役割があると思います。

 下記の箇所は、キリストの福音を「伝える」ことについて書かれています。デリバリーの人は運ぶ中身には手を出さないように、伝える人はメッセージの中身(キリストの福音)を変えることは出来ないし、付け加えたり、差し引いたりしてはならず、聖書に書かれていることをそのまま伝えるべきです。そして、運んだあと、つまりメッセージをした後や、個人的に神様がどのように自分の人生を変えて下さり、救ってくださったかを証した後は、その結果(聴き手が神さまを信じるか、信じないか)に対しては責任を負うことはないと思います。なぜなら、メッセージを受け取る側を信じさせることは神様のなさる領域であって、神様だけがその人の心に語られたみ言葉を響かせ、気づかせ、そしてもっと知りたいと神様を求めさせ、救いに導くからです。人の役割はデリバリーの人、ウエイター・ウエイトレスの役割。ただ宣べ伝える人としての責任は、そのメッセージを忠実に伝えること、また私たちの態度で台無しにしないよう、相手をつまづかせないように配慮することではないでしょうか。そのためには、神様の愛と知恵をいただかなければならないと思います。
 
 「神の計画は神からの霊感を受けた人間が、神のことばに従ってあげた成果によって実現するばかりではなく、人間の過ちによっても、罪によってさえも実現するのです」*3と記している人がいます。聖書を読んでいると、神様が選ばれた信仰の人達でさえも、失敗や罪を犯すことも記され、それでも神様はその人たちを用いられるケースがあるからでしょう。ましてや私のような普通のものが、今までを振り返ると、いつもメッセージの運ぶ時の態度等が適切であったかは自信がありませんし、失敗、失言が多いことを認めます。つまづいてしまった人もいたかもしれないので、ごめんなさいとその方々と、神さまの前に謝るのみです。いつか、神様がその人の心を和らいで下さることを祈ります。神さまの憐み、赦し、愛は深く、その御業は私たちの思いを超えたところで行われる、と安心して委ねられることは、なんと幸いでしょうか。相手に伝える際、みことばの内容に忠実に、そして自分の態度についてよく吟味しつつ、文章を書くときも、話すときも、人と日常生活で関わるときも、神様から助けを頂いて日々歩んでいきたいと願います。
 
 「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』」   ローマ人への手紙10章14-15節


*1 ヨハネによる福音書6章1-4節
*2マタイによる福音書 4章4節
*3  ポール・トゥルニエ 「人生の四季」より

顔と顔を合わせて

2020年11月07日 | 日記
 先日、久し振りに西那須野の地を訪れました。西那須野教会の皆さんとお会いするのは、益子へ引っ越して以来。皆さんお変わりない様子で安心しましたが、一つだけ、以前と異なることはマスク姿で顔を合わせていることでした。今回の訪問の目的の一つには、病気の方々を見舞うことでしたが、その方々は退院したばかりだったのに関わらず、お会いする機会が与えられました。ソーシャルディスタンスを取り、マスクをしながらでも、このように顔と顔を合わせて集まることが出来たのが本当に感謝でした。お互いの近況等、しばし共に語り合い、楽しいひと時が持てました。

 その週末、義理の両親が我が家へ訪問してくれました。お正月に会って以来(約10ヶ月振り)でしたので、益子教会の礼拝にも参加し、また両親の友人で益子在住の方も招いて、家で団欒の時を持つ事ができました。今迄電話では話していましたが、なかなか以前のように頻繁に行き来ができないので、高齢の両親の体調も守られて再会が実現できたことに、本当に神様に感謝しています。家族や友人たちと気軽に会えないという今の世の中において、顔と顔を合わせて会えることがどんなに貴重な時か、改めて思わされます。

 下記のみことばの「兄弟」というのは、実際の血のつながりがある兄弟に限定しているのではなく、神の家族という意味合いであります。神の家族とは、天の神様がお父さん、そしてキリストが長子で、キリストを信じる者が神様の子どもとされ、この「座っている」(ヤーシャブ)という動詞 は「住む」という意味もあり、ただ座っているというより、家族のように共同体的に集まっている状態を表しているのだと思います。この詩編の文脈的にも表題が「都に上る歌、ダビデの詩」とありますから、都つまりエルサレムの神殿への巡礼の旅において、ユダヤ人たちはこの賛美の歌を歌いながら都への道を歩いていたのでしょう。神様を礼拝するために都へ上るわけですから、その行く途中も神様を賛美しつつ歩む、つまり礼拝の一環とも言えるでしょう。それがどれ程喜びであり、恵と祝福であるかを、この詩の著者であるダビデは表現したかったのではないかと思います。キリストがこの世に全人類の救い主といて来て下さったおかげで、ユダヤ人だけでなく、血のつながりや人種・身分・年齢の違いを超え、神の家族が集まって礼拝できる時間と場所が今は与えられています。それは教会です。教会は、時代が違っても、礼拝のスタイルが異なっても、キリストを信じる者たちが共に集まり、神様に礼拝を捧げ、このダビデの感じていると同じ喜びと恵み、神様の祝福に預かれるということは、感謝につきないと思います。

 また、教会というのは場所的な意味、つまり建物ではなく、キリストを信じる神の家族の集合体です。譬えて言うならば、教会はキリストの体であり、ひとりひとりが体の器官として生かされ、調和して生きていると、使徒パウロは記しています。そのキリストの体においては、健康な人の体の中で調和があるように、各器官がうまくお互いを補いあい、機能しています。「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」*

 時には、集まってお互いの喜び、苦しみを共有できない事情もあります。たとえ物理的に遠く離れていても、神の家族は霊的に各々がキリストに繋がっているので、互いに祈り合いながら、共に座っている恵み、喜びを味わいたいと願っています。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 」詩編133編1節


* 第一コリントの手紙12章25-27節 (引用 新改訳聖書1965年版)