Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

カスタマーサービスの方へ、ごめんなさい

2018年11月22日 | 日記

 先日、カスタマーサービスの人に当たってしまいました。原因は、4年使っていたPCがうまく作動しないため、新しいPCを購入ししたのですが、それも初期セットアップが上手くいかず、購入したお店や、カスタマーサービスに電話で問い合わせました。しかし、それから何度も、部署が違うからかけなおすようにと言われ、4度目の方に「何度もたらいまわしにされているんです。その部署に転送してもらえないんですか?」と当たってしまいました。もちろん、相手はそれができないので「申し訳ございません。とにかくこの番号にかけなおしてください」の一辺倒。しかし、私の心は、そのイライラを4度目の人に言葉に出した時点で罪悪感がこみ上げ、5度目の人に電話をかけた時は心をおちつかせ、結局、問題はスムーズに解決しました。最初からこの5度目に担当した方に対応してもらっていたら。。と思ったりもしますが、そうはいかないのが現実です。

 私は忍耐がなく、穏やかに対処できず、きつい言葉を相手に言ってしまうことがある性質を自覚しています。ましてや以前、2ヶ月間だけ携帯電話会社の電話によるカスタマーサービスの仕事をした時に、何度も理不尽な当たられ方をしたり、怒鳴られたり、2度とこの仕事はしないと思った一方、この手の仕事に従事している人に、色々事情があったとしても決してきつい言葉を言ってはいけないと思っていたのです。4度目のカスタマーサービスの人は、私が何度も電話をかけ、たらいまわしにされていることは知らないし、その人の責任でもないのに本当に申し訳なかったと思います。次回から気をつけなければと。

 聖書の教え「愛は寛容であり、…怒らず、いらだたず、人のした悪を思わず…全てを耐え忍ぶ…」*ということを頭に叩き込もうとしてきましたが、やはりまだまだ自分の感情を治めることが出来ません。自分の思う通りにスムーズに事が進まないと、つい文句や、きつい言葉を発し、穏やかに話すことができなくなってしまいます。もしくは、その場は何も言わず、黙っていたとしても、後から「こう、言えばよかった。。。」と頭の中で議論をしている自分がいるのです。私の心の中には、ある状況に陥ると、戦う欲望にスイッチが入ることを認めざるをえません。本当に、なんと惨めなのか、これでも信仰を持ったクリスチャンなのか?と。しかし、こんなダメな自分のために、キリストが代わりに十字架にかかり、罰を負ってくれたのだと。何度も赦してもらって、申し訳ないのですが、赦してもらえる恵みと憐みにすがるしかない私です。そして、赦してもらうだけでなく、心を変えて下さいと祈ります。


「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなた方のからだの中で戦う欲望が原因ではありませか。」 聖書:ヤコブの手紙4章1節

*聖書:第一コリント人への手紙13章4-7節

『教誨師』 大杉漣の最後の主演映画

2018年11月18日 | 日記
『教誨師』 大杉漣の最後の主演映画


  俳優の大杉漣さんが今年初めに逝去されましたが、その後、彼の最初のプロデュースにして最後の主演映画がこの10月に公開されました。この映画は教誨師を務めるキリスト教の牧師である主人公が、6人の死刑囚と対話する内容です。教誨師とは、刑務所、少年院などの矯正施設において受刑者の道徳心の育成や心の救済に務め、彼らが改心できるよう導く人で、日本では大多数が僧侶の方々で、キリスト教の牧師・神父もいます。

 私の夫も教誨師をしています。ただ、彼の場合は死刑囚向けではなく、刑の比較的軽く、将来的に出所する予定の受刑者の方々に、刑務所内で聖書を通して教えを話しています。教誨を受けるのはあくまでも自由参加で、参加したい受刑者だけが月に1-2回集まり、講話の後に受刑者との質疑応答の時間があるそうです。更に個人教誨といって、個別に教誨を受けたい方の要望にも応じます。おそらく、この受刑者の方々は刑務所に入るまで、聖書のことばも、教会とも無縁である方々が多いのではないかと想像しますが、彼らは聖書の話を聞いて、様々な質問をされるそうです。

 日本人の多くはこの受刑者に限らず、人生の中で教会に関わったり、聖書を読む機会があまりないでしょう。世界ではキリスト教は人口の約3割、しかし日本では人口の1%以下という数字からも明白です。しかし、彼らにとって教誨の話は、罪を犯し刑務所に入らなければある意味、聞く機会がなかったのかもしれないし、耳を傾ける機会もない希少な経験でしょう。日本人にとって罪とは、一般に犯罪、つまり法律に反することだけが罪という認識ではないでしょうか。

 しかし、聖書でいう罪とは、根本的に人間を創造された神の存在を信じないことです。そして神を信じるといっても、神ならどの宗教でも同じというのではなく、キリスト教というように、イエス・キリストを通しての神を真の神として信じることです。つまり、法律違反や倫理的にしてはいけないことはその大元の罪:神を信じないことから派生しているといえます。神を畏れる人は、法律違反も倫理的なことも、神に対して犯す罪と考え、ブレーキがかかります。なぜなら、神は人間を愛するために創造されたので、人の命を大切にされるからであり、人間同士で互いに愛し合いなさいというのが教えだからです。

 もちろん、私たちクリスチャンは、神が持つ愛で人に接することが出来ないのが正直なところです。何度も失敗を犯すし、人を傷つけるつもりがなくても結果的に傷つけてしまうこともある、不完全なものです。そんな不完全である自分を認め、神様にごめんなさいと悔い改めると、たとえ人は赦してくれなくても神様は赦し、もう責められる事もないのです。なぜなら、そのために代わりに、イエス・キリストが十字架にかかってすべての罰を負ってくれたからです。つまり、人生やり直しはいつでもできる。死刑囚でさえも。この世で生きているだけの人生ではなく、死んだ後の天国での命が、キリストを信じることで保障されるという信仰、希望が与えられるからです。この映画の作成に関わった方々にクリスチャンの人がいるかどうかは不明ですが、観る方に生きるとは、死ぬとは、希望とは何かを考えさせるきっかけになる映画として、お勧めしたいと思います。

 イエス・キリストのことば 「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。」  ヨハネによる福音書12章46-47節


スタバで茶 をするNYの警官たち

2018年11月16日 | 日記
ニューヨークに住んでいた時のことです。今日も雪がしんしんと降っていて、私は近所のスタバに入ってWifiをつなごう と、PCのコンセントの場所を探していると、隣の席で警官二人が(この方達は今休憩時間かと察する)座っていて、その場所を親切に教 えてくれました。彼らが立ち去る時、女性の警官の方が先に席を立ち、手袋を忘れていったの で、私が相棒の彼氏に渡そうとすると「ちょっと隠してておいてと♪」言われました。私は 「は?」と、つまり後で彼女にとりにこさせて「ないよ~」とふざけようとして いたのです。このスタバは特にこの近辺の警官達の休憩場所のようでよく見かけ ます。こちらでは彼らのお休み時間に、バーガーキングで食べながら店内にあるTV で野球観戦を楽しんでいたり、制服を着ていても一般人と同じ場所でお休みを 取っているようです。では日本の警察官はどこで休んでいるのかなとふと思いま した。どんな職業/人種であれ、人々が仲良く集まっているのをみるのは傍から みてもほほえましいものです。
 先週の週末に、私はクラシックを聞く柄ではないのですが、友人が出ていると いうのでモーツアルトのレクイエムのコンサートを聴きに出かけていきました。 開催された場所はUpper Westにある古い教会でしたが、その教会堂中の正面に大きな幕に書かれていた聖書のことばが印象的でした。「How good it is when brothers and sisters dwell together in harmony」(「みよ、兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんと いう楽しさであろう。」日本語訳)日本語訳には訳されていませんが、原語には”ハーモニー”という言葉が記されています。つまり調和して一緒に住むことはなんと幸せなんだろうと。
 この聖書の箇所は、ユダヤ人たちがエルサレムに巡礼に上る時に歌われる歌 (都のぼりの歌)の一つです。普段遠い場所に離れ離れに住んでいる彼らは、こういう時に同じ民族で、同じ目的(彼らの祭りの時に定期的に世界中から、神を 礼拝するために集まる)で集まれる機会はとっても麗しい、楽しいことだったと 察します。そしていつか一つのところに皆で住みたいと願ってこの歌を歌ってい たのでしょうか。
 彼らの願いは現段階では宗教的政治的には難しく、世界の火薬庫のようにいつ 紛争が勃発するかわからないパレスチナの争点であるエルサレム(”平和の町” という意味)は、その名前とは逆の状態であります。しかし、聖書にはいつか、 新しいエルサレムが立てられる時、ユダヤ人だけでなく、全ての国民がともに一 つになって住む、そして神を礼拝できると預言されています。それが可能となる 為にキリストは2千年前にこられて、苦しまれ、十字架にかかって復活し、天国 にいて今も生きておられ、”その時”を待っておられます。このことで、現状に 関わらず、希望と慰めが与えられるのが感謝なことです。

今日の聖書のことば 「みよ、兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんと いう楽しさであろう。」 詩編133編1節


HP: http://praisethelord.web.fc2.com/index.html

休日は何のために

2018年11月15日 | 日記
 先日、ある方と話していて、その方のお子さんが勉強が忙しくなってきた為、日曜に教会にいく時間がない、その日くらい休みたいと子ども自身が思うようになってきて、またその他の事情もありここ数週間教会に行っていないと聞きました。もともと、その中学生のお子さんは、昨年のクリスマス会に参加し、聖書のメッセージを聞いて、自分自身で教会に行こうと思い立って行きだしたという経緯があります。そこで私はそのお母さんに、日常生活で勉強、部活、家族との時間など忙しいからこそ、あえて時間を作って週一回でも教会に行くことをお子さんに励ますことをお勧めしました。なぜなら、教会に行っている間が唯一、非日常の時間であり、日常の忙しさから離れることができる時間で、それが心にとって必要な休息となるからです。そのような時間はあえて作らないと、しなければならないことに追われて、あっという間に過ぎていきます。人には肉体的にも、精神的にも休息が必要です。勉強を効率的にするには休息、気分転換が必要です。


しかし、もし人が親や誰かに言われて強制的に教会に行っているのであれば、いずれは行かなくなるものです。私は両親がクリスチャンでしたので、幼いころから日曜は教会へいくのが習慣でした。しかしそれは自発的に、信仰を持って行っていたものではなかった為、大きくなると礼拝に行くことがおっくうになりました。それでも慣習で行っていましたが、最終的に自分で信仰を持ち、行きたいと思って教会に行くようになったのは30代の時でした。ですから、親がしてあげられることは子供のために環境を整え、勧めることだと思います。以前は私は恵まれた環境に気がつきませんでしたが、今はそうしてくれた両親に感謝しています。子供自身が行きたいと思って、忙しくても工夫して行ければベストです。何事も、「~しなければならない」と義務になると重荷になりがちで、本来の意図が失われて形骸化してしまいます。


 約2千年前、当時のユダヤ人の指導者たちはイエス・キリストが安息日(ユダヤ教の法律で定められた仕事をしてはならない日、土曜日)に病人を癒すことが法律違反だと非難して、イエスを訴えようと機会を見計らっていました。しかし、守る事ばかりに重点をおき、病人やケガ人、死にそうな人を安息日だからとほおっておくことが正しいことでしょうか。手当や治療も「働く」と解釈する彼らに、法律順守と人とどちらが大切なのかを気付かせるため、神様の与えたこの法律の本来の意図は何かを教える為、神の子であるイエスは安息日にも人を癒され、人々を助けるために奇跡をおこなわれました。クリスチャンも、このようなユダヤ人指導者たちの様になる可能性があります。教会が作った伝統、規約の通りにしない人を違反だと責めたり、杓子定規な愛のない判断をしてしまうことがあるからです。


 私たちの教会では、日曜の朝だけでなく、夜7時半からの夕礼拝を開催しています。それは、日曜日に休むことのできない仕事、例えば医療関係、警察など24時間のシフトで働く方々が礼拝に来られるためでもあります。また平日にも集まれる用に昼と夜に集会を開いています。日曜の朝でなくともよいのです。曜日や、形式に捕らわれるのではなく、強いられてではなく、この忙しい世の中で平和に、希望を持って生きていく為には、神様から安息を与えられる時間を取ることだと思います。安息日は神様を礼拝する日でありますが、同時にそのことが人の為でもあります。神さまを覚えて心に平安を持てる礼拝の時間を取ること、それこそが安息日を守ることではないかと。そして、神様に感謝し恵みを受けて、その受けた恵みを周りの人に流していけるように聖霊の力により変えられていきたいと思わされました。


今日の聖書のことば 「安息日は人のために造られたのであって、人が安息日を守るために作られたのではない。」マルコによる福音書2章27節