Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

求めよそうすれば与えられる 何を?

2021年12月19日 | 日記
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。 」は聖書の文脈から転じて、慣用的表現として一般的に使われています。故事ことわざ辞典によると「求めよさらば与えられんとは、与えられるのを待つのではなく、自ら積極的に努力すれば、必ずよい結果が得られるということ。」とあります。もちろん、このような神様の存在ぬきの、成果主義的な意味ではありません。
 イエス様はこの箇所の前後に二つのたとえ話を話されています。一つ目は、夜中に旅人が訪ねてきて、その人をもてなすパンがなかったので貸してくれと頼み続ける非常識な友人の話です。当時の家は、皆が一つの部屋で寝ているという環境ですので、主人だけが起きてごそごそ動けば、ようやく寝かしつけた子が起きてしまうし、家族皆にとって迷惑であります。その人は「面倒をかけないでくれ」と戸口で断っていますが、しつようにその友人が願うので起きて必要なものは何でも与えるだろうという話です。ここで注目したいのは、この友人が自分のためでなく、自分のところに訪ねた友のためにしつこく願っているということです。自分のための願いではないのです。この箇所を読んで、私は自分が他者ためにどれほどしつこく、熱心に祈っているかと問われました。すると、自分のことばかりで、ほかの方のためにはある程度祈ったら、祈らなくなってしまうことがあると正直に認めざるをえません。
 二つ目は、どんな悪い人間でも最低限、自分の子には願えば良い物を与えるという話です。現代では児童虐待が多く、この話がすべての親にあてはまるとはかぎらないという、悲しい現実があります。このたとえは、祈りに答えて下さる天の父である神様を強調するために、一番与えてくれそうもない悪人のケースと豊かに与えて下さる神様を対比する表現法で、「まして天の父は」(新共同訳)、「とすれば、なおのこと天の父が」(新改訳)と続きます。なおさら、天の父なる神様は願えばよい物をくださるということを、イエス様は伝えています。
 イエス様のこの「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」という命令は、どれも祈って神様に願いなさいということを言っておられると思います。つまり3つの祈りが段階的に積極的になっているともとれます。最初はシンプルに願い求める。さらにこの願いは神様の御心なのかと探し求める。神様のみこころだとしても、行くべき道の前の戸が閉められこれ以上進めないように見える状態だったら、戸が開けられるまでたたき続ける。つまり、すぐに答えられなくとも忍耐し、熱心に祈り続けることをイエスは教えられていると思います。祈りとはそれほどに、真剣に祈るべきことなのです。このたとえのあとに「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」*1とイエス様は言われます。イエス様を主キリストとして信じていない人には聖霊が与えられていませんが、だれでも信じれば聖霊は与えられます*2。一番重要で、神様に熱心に与えて下さるように祈り求めるべきものは、聖霊であり、それが最も良い物ではないでしょうか。
 願うことはいろいろあるとは思いますが、皆がイエス様の十字架に表される神様の愛を知り、救われるようにと祈ることが最も神様の御心にかなうことであると思います。すぐには聞かれなくとも、忍耐をもって自分の周りの人のために祈り続ける、しつこく祈りたいものです。キリストの愛を知らない方々がみことばを聞き、そして信じて聖霊が与えられ、信仰に導かれるようにもっと熱心に祈っていきたいと思います。

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」ルカによる福音書11章9-10節

*1ルカによる福音書11章13節
*2「すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。 」使徒言行録2章38節

一枚のチラシの効果

2021年12月12日 | 日記
クリスマスの時期が近づきました。今年も益子教会では12月25日の夜にクリスマス礼拝を開催する予定です。そのチラシを益子の道の駅の町の情報コーナーに置かせて頂き、益子教会の近辺にポスティングをしました。私たち夫婦といつも教会の礼拝にきている女性が、「私がこのチラシを配ることに意味あると思って!」と、一緒に配ってくれました。一人でもチラシを見て教会に足を運ぶ人がいることを願いながら。またこのチラシを作成して下さった方、献金を捧げて下さった方、祈って下さる方等、多くの方々によって益子教会の伝道活動は支えられていることを、主にあって心から感謝しています。

 確率的にチラシの効果というのは低いものです。人口2万人程の小さな町で数百枚ちらしを配っても、目に留められないかもしれません。しかし、神様を求めている人の目には必ず留まり、神様がその人の心に触れれば「行ってみよう」という気持ちが起こされ、教会に来てくれるきっかけとなると期待しています。「チラシを見てきた」という人がたった一人だとしても、私たちは大喜びで迎えたいと思います。そして、その方が聖書の言葉を聞き、神様の愛を知るきっかけが与えられ、いつか信仰に導かれたらと願うばかりです。

 下記のみ言葉にあるように、イエス様はなくした銀貨のたとえを語られました。ある女性がなくした銀貨を一生懸命見つけるまで探し、ようやく見つけると、友達や近所の人を呼び集めて、「見つけたのよ!一緒に喜んでください!」と大喜びします。なくした銀貨を懸命に探すこの女性の姿は、神様から離れた人を探す、神様ご自身をたとえていて、 一人の人が神様の愛を知り、今までの人生を悔い改めてイエス・キリストを信じれば、天国で天使たちの間に喜びがあると、イエス様がたとえの解説をされています。「一人の罪人(つみびと)」とありますが、聖書において根源的な罪は神様を信じていないことです。ですから、「私は罪人ではない。人さまに迷惑をかけたことないし、警察のお世話になったこともない」と思われるかもしれませんが、人は生まれたときから神を知らず、誰かかが教えない限り真の神を知らないので、神の存在を無視し自己中心的に生きています。ですから、私自身も含めて皆罪人であるといえます。しかし、その罪から救ってくださるのが、イエス・キリストで、神様はこのキリストを信じる人を忍耐をもって、ずっと探しておられ、見つかると(つまり、救われると)、天国の皆で大喜びしてくださるのでしょう。

 クリスマスという言葉は、「キリストを礼拝する」という意味です。なぜ、キリストを礼拝するかというと、イエス・キリストは礼拝されるにふさわしい、本当の神様であるからです。神から離れた、罪人であるすべての人を救うために、神の御子イエス・キリストはこの世に人としてきてくださり、十字架で私たちの罪が赦されるため代わりに罰をうけて死なれ、3日後に復活され、今も天で生きておられる。このことを信じていると、そのキリストのしてくださった大きな犠牲とそのことを計画した神様の深い愛に感謝して、礼拝をせずにはいられません。つまりクリスチャンにとって、毎週日曜日の礼拝がクリスマスともいえます。

 神様が救いに応答する人を探しておられるにあたり、人間の私たちはどんなに小さいことでも手伝えることがあると思います。まずは神様を求めている人に出会えるようにと願いつつ、あきらめずに祈り続けたいと思います。神様の喜びに少しでも私たちが預かれるのはなんと幸いなことでしょう。多くの教会で、クリスマスの準備がなされていると思います。各々の教会の上に、神様の祝福と恵みがあふれ、新しく来られた方を喜んで迎えられるように祈りつつ。

「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」 ルカによる福音書15章8-10節