Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

毎日がクリスマス

2019年12月26日 | 日記
もし、毎日がクリスマスだったら?一般にイベントやお祭りごとというのは、特別な機会、季節ごとに行われるものであり、日常の生活や業務とは違い、特別なことだからこそ、そこに労力が注がれるものです。そして、また日常に戻ります。では、毎日がパーティ、お祭り、催し物だったらどうなるでしょうか。達成感や、興奮、喜びと刺激的かもしれませんが、その高揚感、ハイテンションが毎日続くと、心身にお財布に支障をきたすかもしれません。日常生活の同じことを静かに続けることは大切だと、この師走の忙しい時期に考えさせられます。

ある教会に、高齢のご婦人(70才台)がいて、徒歩と電車で1時間半程かけて熱心に喜んで日曜の礼拝と水曜の祈祷会に教会へ通っていました。12月になり、クリスマスの教会での行事が多くなり、教会に足を運ぶ回数も増え、彼女は夕方教会から帰宅し、ふと「あー疲れた」ともらしたところをご主人に聞かれ、その後面倒なことになったそうです。そのご主人はクリスチャンではなく教会も行かない方ですので、理解をしてもらうのが難しかったからでしょう。クリスマスという一年で一番イベントが多い時期に、クリスチャンが救い主・キリストの誕生の喜びを分かち合い、楽しんでいる様子を、それも自然に人々に示せれば、大変であっても疲れても意味があります。なぜならそのイベントが教会外部から参加された方にとって、教会にクリスマスだけでなく、他の時も行ってみようかなというきっかけとなれば、つまり人々をキリストに招きたいからです。

 クリスマスの意味は「キリストを礼拝する」で、クリスト(キリスト) マス(礼拝)の合成語です。実は教会は、一年中クリスマスをしています。つまり、いつもキリストを礼拝しています。しかし、それは忙しいイベントごとではなく、日常のことです。クリスチャンは本来、毎日神様の前に静まり、キリストを礼拝することに喜びを得ているものです。なぜなら、神様が救い主としてイエス・キリストをこの世に送って下さった事、そして、十字架で私たちの罪にたいする罰を代わりに受け、それゆえ私達が神様に赦されて、神の子となり、天国に行ける道、永遠の命を与える約束をして下さった、その大きな愛と恵と憐みに感謝するから、祈り、賛美歌を歌い、聖書を読んで心にとめる、つまり礼拝をするのです。

 宗派によって、毎日礼拝(ミサ)が行われている教会もありますが、教会という建物に必ずしも出かけて行く必要はありません。家で、また声にださなければ通勤電車の中でも、お昼休みでも一人で礼拝できます。一方で、皆で集まって礼拝することは大切です。集まれば、お互い顔と顔を合わせて親しくコミュニケーションを取り、共に祈り、共に賛美を歌うことができるので、もっと神様の祝福と恵が溢れ、またお互いが励まされ、慰めが与えられます。神様は私が教会の奉仕活動を頑張らなくても、何もしなくても、それでも私に注いで下さる愛は変わりません。神様の愛は恵であり、報酬ではないからです。何かしたければ呟かずに喜んですれば良し、また何もしなくとも、大切な事にさえ心に留めていれば、それで良い方を選んだのだ、とイエス様は言って下さいます*。大切な事、良い方とは、毎日のイエス様から聞き(聖書を読み)、祈り、讃美の歌を頭のなかで巡らせてイエス様を礼拝すること、私はこれを日々続けて行きたいと願います。

「主は答えて言われた、『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである』」。
ルカによる福音書10章41-42節 (聖書引用、口語訳聖書)

*上記はイエスがマリアとマルタという女性(前者は静かにイエスの話を聞き、後者は台所仕事に忙しく、イエスになぜ、妹に手伝うように言ってくれないかと文句を言う)の家に訪問した際、マルタに言われた言葉。

初心に帰る

2019年12月23日 | 日記
 私が開いている聖書勉強会には、クリスチャンだけでなく、キリスト教を信じたいけどまだ信じられない人、求めている人も参加されています。彼らからの質問やコメントは毎回新鮮で、はっとさせられ、気がつかされることが多く、感謝です。聖書を何度も読み、説教で話しを聞いていたりすると、もう知っている、分かっていると勘違いしがちですが、実は私は聖書に関しても、神様の愛や恵に関しても、まだまだ知らなければならないことさえ分かっていない者です。また、目に見えない霊的な恵や祝福を見逃して、具体的活動にばかりに目を向けてしまいがちです。

 今回受けた質問では、「信仰が薄かったキリストの弟子たち、キリストが逮捕された時逃げてしまった弟子たちが、その後なぜ急に大胆に、迫害を恐れず宣教する様な信仰になったのか、信仰のレベルは何によるのか?」でした。それに対して、弟子たちが変えられたのは、キリストが復活した後、聖霊(神の霊)が彼らに与えられたからですと説明しました。すると、「つまり、信仰が薄い・深いというのは、弟子たちの性格(例えばリーダシップがあるとか、冷製沈着)ではなく、聖霊の働きなんですね。」とその方が納得されたのを見て、そうだった、信仰さえも、聖霊が働いて神様から与えられ、強められるのだと自分で説明しながら、再認識させられました。
 
 先日、大学生向けに伝道している友人夫婦からのニュースレターを読んでも、励まされました。彼らが参加した教会開拓者のための修養会にて示されたことを分かち合ってくれたのです。「どうしたら宣教が前進し、教会が成長するのか?」ということ以上に「神は、私たちが何かをしたからではなく、何かをする前から私たちを愛してくださっている」ということに中心が置かれていたことでした。私達夫婦も、2020年の4月から、信徒が現時点で不在(感謝なことに、ヘルプで他教会から礼拝に参加してくださる方々、祈って下さる多くの方々に現在は支えられています)、建物だけあるという教会で、開拓伝道をしていく予定です。宣教の計画、具体的な活動など夫婦で話合ったり、様々な書類を準備したりと、私の頭の中で、くるくるとしなければならないことリストが回っています。しかし、このような事務的な事よりも、何よりも大切なのは、神様は私達が何かをする、しないに関わらず、愛して下さっているのだから、その愛に応答してなすべきことをやる、そして必ずこの教会に信徒を、神様を求めている人々を神様が送って下さると信じていこうと思います。

 教会に人が来るというのは、ビジネスと異なり宣伝したからといって効果があるわけでもなく、またたとえ教会内で何か事業をして人を集められたとしても、それによって確実に人々が信仰につながるわけではありません。しかし、確信の持てることは「神様が」救いを求めている人を送ってくれて、信仰をその人に与えるのも神様の業だということです。この信仰に立って、聖霊の力を注いでいただき、神様の福音が広がることを祈りつつ、示されたことを地道にやっていこうと思います。私が神様に救われたのは、私が何かをしたからではなく、何の働きもなく*1、ふさわしい人間でなはなくとも、恵によって信仰が与えられること*2、全てが神様の恵であることに、いつも初心に帰ろうと気がつかされました。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」 ヨハネの第一の手紙4章10節


*1「 いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。 」ローマ人への手紙4章4-5節
*2「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 」 エペソ人へ手紙2章8節

☆義とする→ 神がその人を正しいとみなしてくれこと、 賜物→プレゼントのこと。

本当のクリスマス

2019年12月13日 | 日記
 12月、クリスマス会といえば、サンタクロースとプレゼント。クリスマスソングといえば、サンタの歌、山下達郎、ワム(古いですが)の歌謡曲など、これが一般の人々のクリスマスの認識でしょうか。先日、地域の子育て支援の会(幼稚園前の幼児とお母さんたちの会)でクリスマス会があり、友人に頼まれてクリスマスソングの演奏をする機会がありました。先方から依頼の曲目はサンタクロースの歌ばかりでしたが、「きよしこの夜」「もろびとこぞりて」の賛美歌も含まれていました。大きなサンタを見て泣いている子供もいましたが、ほとんどの子どもたちはニコニコして、お母さんと一緒にクリスマス会を楽しんでいた様子でした。キリスト教が文化的に浸透している西欧諸国でさえも、このように、クリスマスといえばサンタクロースからプレゼントをもらって、ケーキやご馳走を食べるというのが定番です。プレゼントというのはもらって嬉しいかもしれませんが、一時的な喜びでしょうし、またもらえない人もいると思います。クリスマスパーティは美味しいものを食べて、飲んで楽しい時かもしれませんが、その後は写真くらいしか残りません。そのようなパーティに参加する機会もない人がいるかもしれません。

毎年この時期、私たち夫婦は教会内のクワイアー(聖歌隊)として、高齢者の施設や教会のクリスマス礼拝などでクリスマスの賛美歌を歌う機会があります。先日も、毎年訪問する施設で歌ってきましたが、教会の聖歌隊が外部で歌う目的は、クリスマスの意味とその喜びを伝える為であります。クリスマスは、プレゼントやパーティのような一時的楽しみや、一部の人々だけが楽しむものではないということを、歌(ゴスペルソングや賛美歌)を通して、一人でも多くの人に知らせたいのです。本当のクリスマスはキリストの誕生を祝う日、キリストを礼拝する日(クリスマス;キリストを礼拝するという意味)です。キリストの誕生は一部の国民、人種に関係することではなく、「全ての人」に喜びの訪れを知らせるためであります。最初のクリスマスは2千年前、神であるイエス・キリストが、現イスラエルの国で人となって生まれた日。天使たちが人々に伝えたことは、このイエスが救い主として生まれたということです。救い主がこの世に来たことが、なぜ喜びなのでしょうか。当時、多くの人々は苦しんでいたからです。どんな苦しみかというと、圧政に苦しんでいたり、差別されて苦しんだり、様々な理由で虐げられている人々が心の叫びを挙げていました。神様はその人々の叫びを聞かれ、キリストをこの世に送ってくださったのです。

 それから2千年たった現代の日本でも、苦しみ、悩んでいる人々がいます。もしかしたらその問題が他人から、政治的、制度的に圧迫されているのではなく、自分自身の内面にあって、心を閉ざしてしまっているケースもあるかもしれません。いずれにしても、全ての問題の根っこは、人の心にある暗闇:罪であって、この問題を持たない人は人である限りいないはずです。救い主はその罪から救うために来た事、そしてそれから派生するすべての問題に対して、神様が共にいてくれて助け、導いて下さるという事を信じられると、私達は希望が持てます。クリスマスにて、一人一人が、静まって自分の内面と向きあい、本当のクリスマスを体験できることを祈ります。

「御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。」ルカによる福音書2章10-11節  (聖書引用、口語訳聖書)