もし、毎日がクリスマスだったら?一般にイベントやお祭りごとというのは、特別な機会、季節ごとに行われるものであり、日常の生活や業務とは違い、特別なことだからこそ、そこに労力が注がれるものです。そして、また日常に戻ります。では、毎日がパーティ、お祭り、催し物だったらどうなるでしょうか。達成感や、興奮、喜びと刺激的かもしれませんが、その高揚感、ハイテンションが毎日続くと、心身にお財布に支障をきたすかもしれません。日常生活の同じことを静かに続けることは大切だと、この師走の忙しい時期に考えさせられます。
ある教会に、高齢のご婦人(70才台)がいて、徒歩と電車で1時間半程かけて熱心に喜んで日曜の礼拝と水曜の祈祷会に教会へ通っていました。12月になり、クリスマスの教会での行事が多くなり、教会に足を運ぶ回数も増え、彼女は夕方教会から帰宅し、ふと「あー疲れた」ともらしたところをご主人に聞かれ、その後面倒なことになったそうです。そのご主人はクリスチャンではなく教会も行かない方ですので、理解をしてもらうのが難しかったからでしょう。クリスマスという一年で一番イベントが多い時期に、クリスチャンが救い主・キリストの誕生の喜びを分かち合い、楽しんでいる様子を、それも自然に人々に示せれば、大変であっても疲れても意味があります。なぜならそのイベントが教会外部から参加された方にとって、教会にクリスマスだけでなく、他の時も行ってみようかなというきっかけとなれば、つまり人々をキリストに招きたいからです。
クリスマスの意味は「キリストを礼拝する」で、クリスト(キリスト) マス(礼拝)の合成語です。実は教会は、一年中クリスマスをしています。つまり、いつもキリストを礼拝しています。しかし、それは忙しいイベントごとではなく、日常のことです。クリスチャンは本来、毎日神様の前に静まり、キリストを礼拝することに喜びを得ているものです。なぜなら、神様が救い主としてイエス・キリストをこの世に送って下さった事、そして、十字架で私たちの罪にたいする罰を代わりに受け、それゆえ私達が神様に赦されて、神の子となり、天国に行ける道、永遠の命を与える約束をして下さった、その大きな愛と恵と憐みに感謝するから、祈り、賛美歌を歌い、聖書を読んで心にとめる、つまり礼拝をするのです。
宗派によって、毎日礼拝(ミサ)が行われている教会もありますが、教会という建物に必ずしも出かけて行く必要はありません。家で、また声にださなければ通勤電車の中でも、お昼休みでも一人で礼拝できます。一方で、皆で集まって礼拝することは大切です。集まれば、お互い顔と顔を合わせて親しくコミュニケーションを取り、共に祈り、共に賛美を歌うことができるので、もっと神様の祝福と恵が溢れ、またお互いが励まされ、慰めが与えられます。神様は私が教会の奉仕活動を頑張らなくても、何もしなくても、それでも私に注いで下さる愛は変わりません。神様の愛は恵であり、報酬ではないからです。何かしたければ呟かずに喜んですれば良し、また何もしなくとも、大切な事にさえ心に留めていれば、それで良い方を選んだのだ、とイエス様は言って下さいます*。大切な事、良い方とは、毎日のイエス様から聞き(聖書を読み)、祈り、讃美の歌を頭のなかで巡らせてイエス様を礼拝すること、私はこれを日々続けて行きたいと願います。
「主は答えて言われた、『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである』」。
ルカによる福音書10章41-42節 (聖書引用、口語訳聖書)
*上記はイエスがマリアとマルタという女性(前者は静かにイエスの話を聞き、後者は台所仕事に忙しく、イエスになぜ、妹に手伝うように言ってくれないかと文句を言う)の家に訪問した際、マルタに言われた言葉。
ある教会に、高齢のご婦人(70才台)がいて、徒歩と電車で1時間半程かけて熱心に喜んで日曜の礼拝と水曜の祈祷会に教会へ通っていました。12月になり、クリスマスの教会での行事が多くなり、教会に足を運ぶ回数も増え、彼女は夕方教会から帰宅し、ふと「あー疲れた」ともらしたところをご主人に聞かれ、その後面倒なことになったそうです。そのご主人はクリスチャンではなく教会も行かない方ですので、理解をしてもらうのが難しかったからでしょう。クリスマスという一年で一番イベントが多い時期に、クリスチャンが救い主・キリストの誕生の喜びを分かち合い、楽しんでいる様子を、それも自然に人々に示せれば、大変であっても疲れても意味があります。なぜならそのイベントが教会外部から参加された方にとって、教会にクリスマスだけでなく、他の時も行ってみようかなというきっかけとなれば、つまり人々をキリストに招きたいからです。
クリスマスの意味は「キリストを礼拝する」で、クリスト(キリスト) マス(礼拝)の合成語です。実は教会は、一年中クリスマスをしています。つまり、いつもキリストを礼拝しています。しかし、それは忙しいイベントごとではなく、日常のことです。クリスチャンは本来、毎日神様の前に静まり、キリストを礼拝することに喜びを得ているものです。なぜなら、神様が救い主としてイエス・キリストをこの世に送って下さった事、そして、十字架で私たちの罪にたいする罰を代わりに受け、それゆえ私達が神様に赦されて、神の子となり、天国に行ける道、永遠の命を与える約束をして下さった、その大きな愛と恵と憐みに感謝するから、祈り、賛美歌を歌い、聖書を読んで心にとめる、つまり礼拝をするのです。
宗派によって、毎日礼拝(ミサ)が行われている教会もありますが、教会という建物に必ずしも出かけて行く必要はありません。家で、また声にださなければ通勤電車の中でも、お昼休みでも一人で礼拝できます。一方で、皆で集まって礼拝することは大切です。集まれば、お互い顔と顔を合わせて親しくコミュニケーションを取り、共に祈り、共に賛美を歌うことができるので、もっと神様の祝福と恵が溢れ、またお互いが励まされ、慰めが与えられます。神様は私が教会の奉仕活動を頑張らなくても、何もしなくても、それでも私に注いで下さる愛は変わりません。神様の愛は恵であり、報酬ではないからです。何かしたければ呟かずに喜んですれば良し、また何もしなくとも、大切な事にさえ心に留めていれば、それで良い方を選んだのだ、とイエス様は言って下さいます*。大切な事、良い方とは、毎日のイエス様から聞き(聖書を読み)、祈り、讃美の歌を頭のなかで巡らせてイエス様を礼拝すること、私はこれを日々続けて行きたいと願います。
「主は答えて言われた、『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである』」。
ルカによる福音書10章41-42節 (聖書引用、口語訳聖書)
*上記はイエスがマリアとマルタという女性(前者は静かにイエスの話を聞き、後者は台所仕事に忙しく、イエスになぜ、妹に手伝うように言ってくれないかと文句を言う)の家に訪問した際、マルタに言われた言葉。