Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

肉食 V.S ベジタリアン

2019年11月27日 | 日記
 近年は食物摂取の際に起こるアレルギー反応が問題となっています。特に子供たちは、大豆、乳製品など健康に良いとされる食物でも体が反応してしまうので、食品に何が含まれているかを生産者側で表記しなければ、最悪命の危険を伴う結果となります。一方、宗教的理由や主義で肉を食べない人々もいます。ユダヤ教・イスラム教はたくさんの食べてはならない食物規定がありますし、動物殺生を一切したくない主義の方々は動物の毛皮、皮製品にも反対します。

 その人の体に害がない限り、またそのことで他者に害を加えないのであれば、基本的に何を食べても飲んでも自由だと私は思います。動植物も不自然に操作してたりせず、育てたられたものを感謝して頂のが理想です。また、自分の宗教、主義を守りつつ、そうではない人々の文化、習慣を理解する広い心も必要ではないでしょうか。しかしそれによって害が生じる場合には、公共政策的に法律で制限することも必要でしょうし、法律で制限される程でないとしても周りに与える影響を考える、という配慮を持つということは大切だと思います。

 一世紀にキリスト教がユダヤ人の間から始まり、世界に広がって行った時、ユダヤ人とそれ以外の民族の信徒の間でこの食事の問題が生じました。ユダヤ人としては、キリスト教はユダヤ人から始まったのであり、他の民族も自分たちが守ってきた食物規定やその他の法律を守ってほしいと思ったのです。しかし、当時の伝道者であったパウロはもっと広い心を持っていました。そしてそれは彼が考え出したことでなく、彼の信じているイエス・キリストご自身が言われたこと「全ての食物は聖いのです」*1とその愛の教えに従って、このことでもめている信徒たちに勧めを手紙に書いています。

 その勧めとは、何を食べる、食べないという問題、またどの日が重要かどうかで、互いに裁きあわないことです*2。なぜなら、全ての人のためにキリストは死なれたのであって、それ程全ての人は神様に愛されているのだから、食べ物のことで人を裁くなということなのです。また、キリストを信じている者は神様の恵み受けて、感謝し、何をしても自由であると。ただその自由によって、相手をつまづかせないようにするという配慮は必要であり、全てして良いからといって、全てのことが益になるわけではないと言っています*3。こうしてユダヤ人であるパウロは、自身は肉を食べることに何の問題を感じないけれども、問題視する人々を配慮して、自分も肉を食べることを控えていました*4。

 お互いに違いに目を留めるのではなく、それぞれが大切にしていることを尊重しつつ、自分自身は人に縛られず、神様に感謝して、平和的な関係を持つことを目指していきたい、実際失敗も多いですが、そう祈り求めていきたいと思います。

「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。食物のことで、神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ、それを食べて人をつまずかせる者には、悪となる。 」ローマ人への手紙14章17-20節



*1 マルコによる福音書7章18-19節  「『あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである』。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。」
*2 ローマ人への手紙14:1-6 ユダヤ人は土曜日を安息日として大切にしている。
*3「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」 第一コリント人への手紙10章23-24節
*4 ここでは、肉全般のことではなく、異教の神にその神殿で捧げられた肉が、その後市場に売り下げられ、その近くのレストランの食事に使われているという想定で、その肉が汚れているから、食べるべきでないという論争があった。第一コリント人へ手の手紙8章、10章18-33節
(聖書引用、口語訳聖書)

笛ふけど踊らず

2019年11月25日 | 日記
 子供の頃、「ごっこ遊び」をしたことがあると思います。お店やさんごっこ等、子ども達は大人たちが実際していることを真似、それを遊びの中に取り入れます。ただ私が覚えている限り、「お葬式ごっこ」はしたことがありません。おそらく近代日本ではお葬式が家で行われず、葬儀場で行われるようになり、人の死というものを積極的に子供に見せないようになされているからかもしれません。一方、2千年前のイスラエルでは冠婚葬祭に幼い子供も一緒に参加していて、生活の様々な場面で必ず歌を歌っていたため、子ども達はお葬式ごっこを歌と共に遊びに取り入れていたようです。

 「のりがわるい」と言われるように、「笛吹けど踊らず」とはあることを手を尽くして準備し、誘っても人々の反響・反応が悪い様子を現わすことわざです。これは聖書の中でイエス・キリストが言われたことば「笛吹けど踊らず、弔いの歌を歌えど泣かず」*が由来となっています。子供たちが広場に座って互いにごっご遊びをしているなかで、お祝いの笛を吹いたのに一緒に喜んで踊らないし、葬儀の歌を歌っても誰も悲しみ涙を流さないという、無反応・無関心の様子をたとえで話しています。

 無反応、無関心。イエスはこのたとえを、当時の人々の心の状態を現わすために話されました。その当時、洗礼者ヨハネという預言者が人々に罪の悔い改めを説き、荒野で仙人のような生活をしていると、ある人々は彼を批判し、彼の呼びかけに無反応でした。その後イエスが宣教を開始し、神の国の福音を説き、様々な奇跡を起こして病気の人々を癒し、社会的弱者やのけ者にされている人々に寄り添っていると、形骸化した宗教システムに縛られている指導者達がイエスをねたみ、拒否しました。当時の多くの人々が、自分たちの現状維持にしか興味がなく、新しいイエスの教えと神からの権威の多くの業に無反応、無関心、批判的だったことをたとえられたのです。

 これは2千年前の中東の国の出来事だけではなく、現代の日本でも同じ状態ではないかと思わされます。表面的に多くの情報をネット等で得られますが、人として大切なことや、心温まるような出来事があまり注目されず、逆に批判されることもあります。真剣に取り組まなければならない事:生きること、その目的、死ぬこと、その後に無関心で、ある意味考えることがタブー視されています。これは知恵がない状態によると思います。人間の間で何が正しいか悪いかが相対的なため、知恵といっても様々な知恵がありますが、ここでは「神の知恵」についてです。神の知恵は普遍的で時代や国によって変わらないものであるということが、それを信じて従う人によって証明されるだろうと、イエスはこのたとえの続きで話されています。

 もし、人が神によって創造され、神に愛されて大切にされている存在だと受け入れ、信じられれば、神は人間の小さな考えや視野を超えたレベルで、全ての人にとって正しく、善いこと、平和的なことを持っておられるはずだと、自ずと理解できるようになるでしょう。「キリストが来て以来も、社会は良くならないし、戦争もなくならず、何も変わらないではないか」と表面的には見えたとしても、見えないところでは変革が起こっています。だからこそ、約2千年にわたりキリストの福音が伝えられ、個々人の心の中に変革があり、神に従おうとする人々の国が広がり続けているのは事実です。どんな弾圧,懐柔政策によってもこの信仰はなくなることはありませんでした。私はキリストを信じて従った人々のしてきたこと、言ってきたこと、たとえそれらが完全ではなくても、これらのことを神の摂理や恵という視点で捉え、ああ、やはりこのキリストが本当の神であり、今も生きておられると感謝をもって信じ続け、それを他の人に伝えていきたいと日々願い、祈り続けたいと思います。

「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」 ルカによる福音書7章35節

*ルカによる福音書7章32節  (聖書引用、新共同訳聖書)

切り株の若芽

2019年11月18日 | 日記
 私の住む街には運動公園があり、その敷地内は沢山の木々があって、その遊歩道を歩くたびに四季折々の風景を楽しむことができました。ところが、この一年で、道路沿いの大きな木が次々と切り倒されてしまい、切り株だけが残っています。おそらく、駐車場か何かの用地を広げる為なのでしょう。それらの切り株を見る度に、人間の都合による自然破壊を悲しく思います。一方、切り株というのは、その根が生きていれば根からまた新しい芽が生えて来るものもあります。それらは再び大きな木には成長しないかもしれませんが、木の命は小さい枝ながらも脈々と引き継がれています。自然の生命力の力強さに感動します。

 聖書に、切り株をたとえた話が出てきます。預言者イザヤは、切り倒された木の切り株から若枝がでると語り、その若枝はメシヤ(救い主)を指し示すと言われます。つまり一度は切り倒された木のように、全てが失われてしまったような状態、この預言者の時代ではユダヤの国が他国に滅ぼされてしまうという絶望状態でも、切り株は残されていると*1。そしてそこから、将来、平和の王(メシア)が出現するという、神様から与えられた預言です。その平和の王は、この地上での政治的な王ではなく、主(神)の霊がその上にとどまり「目に見えるところによって裁きを行わず 耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。」*2とあり、そのように世界を治める王だと記されています。この預言はまさに、約700年後に地上に来られたイエス・キリストによって成就されますが、キリスト(メシヤ:救い主)は実際は2回地上に来られるとされ、最初は人として生まれ、十字架にかかり3日後に復活され、信じる者に救いをもたらすために、2回目(再臨)は王として世界を裁き、完全な平和をもたらすために来られると預言されています。つまり、一度目はすでに2千年前に成就していて、再臨はこれから先、未来に起こることです。

 人々は平和を求めますが、人の心に罪があり、キリストの救いを受け取らない限り、平和を達成することはできません。なぜなら、個人差はあっても人はお互いの利害が対立し、ねたみや差別、いじめなどを誰も教えなくてもしてしまう者だからです。また、自分を犠牲にして相手を愛したり、赦すということに弱い者です。その弱さを認め、神様の前にごめんなさいと悔い改め、イエス・キリストがその罪を全て赦すために十字架上で代わりに罰せられたことを信じた時、キリストに在る平和を求める心に新しく変えられていきます。新しく生まれるには、古い自分は死なななければならないと聖書に書かれています*3。 これは肉体の死の話ではなく、霊的な話であり、外側は信じても何も変わらないように見えますが、キリストを信じると内側の、心の中が新しくされています。この内側の新生を信仰で受け止めると、神様に感謝し、喜んで神様に仕えたいという思いが沸き起こり、キリストにあって将来の希望が与えられ、キリストの再臨を待ち望めるのです。

 毎日のニュースを見ていると希望を見出すのが難しい世の中です。国のリーダー達は自らの利権の為に動き、裏で不正やわいろがはびこり、民主主義は表面的にすぎないと知ると、人々は何も信じられなくなり、絶望、虚無感ついには無関心となってしまいます。しかし、聖書の預言を信じれば、いつかキリストが再び王として来られ、悪を裁かれ、平和がもたらされるという希望が与えられます。暗い世の中にあっても、キリストにあって光の中
に歩めます。また暗い心を照らす光としての預言の言葉*4、慰め、励ましを記す聖書の言葉に励まされて、日々歩んでいきたいと思わされました。

 「エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。」  イザヤ書11章1-2節

*1 イザヤ書章6節11-13節
*2 イザヤ書章11節3-4節
*3「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」ローマ人への手紙6章3-4節
*4 「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。」 第2ペテロ手紙1章19節
(聖書引用、口語訳聖書)

傾聴

2019年11月07日 | 日記
 傾聴。これは、もともとはカウンセリングやソーシャルワーク用語で、その漢字「聴」にある通り、相手のメッセージに「耳」を傾け、声の調子や表情などに「目」で注意を払い、言葉の背後にある感情に「心」を配って話に共感するコミュニケーションの技法です。私は社会福祉士として働いていた時、クライアント(福祉サービスの利用者、その家族等)と面談するとき、このことを心がけて仕事をしていましたし、以来、仕事上だけでなく個人的に誰かと話しをする際、自分がなるべく話さずに、相手の話を聞くことに意識をしています。それでも、自分が話しすぎてしまう時がありますし、失敗も多いですから、まだまだ修行中です。口をコントロールできる人は、人間関係において争いを避けられ、相手と良好な関係を築けるでしょう。コミュニケーションは慎重にしてもし過ぎることはないと思います。

 下記の箇所は、聖書の中でマラキという預言者が記した言葉ですが、なんと、神様は人の話していることを傾聴してくださることが書かれています。特に、主(神様)を恐れるものが互いに語り合っている内容を注意深く聞いておられ、神様の名を心に留めている者のことを覚えておくために、書類に記録しておくというのです。「主を恐れる」とは畏敬、つまり神様を敬い畏れることで、実はこのことが知恵の初めとも書かれています。*1 神を恐れない人は、基本的に神などいないし、自分に対して何の力もないと思い、自分の好き勝手に、自分の基準で行動し、発言します。神を信じている人々に対して、「神なんて、弱い人間が作り出す気休め。 結局、自分なのさ、」と侮ることでしょう。
 一方、日本人はたくさんの神々を祭って、自分の願望にそって祈願し、お参りをしますが、宗教には深入りしないという人が多いのではないでしょうか。なぜなら、特定の神を信じて熱心になることで、今迄の自分自身でなくなってしまうかもしれないという恐れからくる、拒否感があるからでしょう。確かに、カルト宗教のような人を洗脳し、普通の生活ができないような状態にしてしまう宗教は拒否すべきです。しかし、全ての宗教がカルト的ではないし、本当の神を信じる宗教であれば人に平安、愛、善意など良いことを与え、また信徒はそれに基づいて社会の中で行動しているはずです。明治時代に創設された学校、福祉施設、病院は、ほとんど海外からのキリスト教の宣教師たちがキリストの愛に基づいて建てています。このように、キリストが人々をどんなに大切に思い、愛を与えようとし、それを人間同士でもするようにという良い教え、そしてそれを基に人々の福祉のために活動しているというキリスト教と、例えばオウム真理教のような破壊的な宗教を「宗教:怖いもの」となぜ一緒にとらえてしまうのでしょうか。それは無知からきています。知ろうとしない、無関心。

 私達が無関心であっても、神様は私達のことを傾聴し、私たちの願いを聞いて下さり、良くして下さる方です。私達が自発的に神を求め、信じることを忍耐をもって待っておられる方です。恐れにより強制もすることなく、本人の意志を尊重してくださいます。信じるとは神様に対する信頼関係が与えられることでもあり、今自分の起きていること、よいことも、悪いことも、全て神様に委ねようと思えるます。また、私達一人一人の全てを一度に見ることができ、また未来のことも見据えることができる全能な方です。これは、後ろめたいことをしている人にとってはそんな神の存在は恐ろしいかもしれませんが、自分は不完全な者、罪ある者と神さまの前に認め、キリストの十字架を通して全て赦してもらえるという救いを信じる人にとっては、平安と感謝が与えれられます。なぜなら、例え私たちが神様の命令を守れなくても、キリストを信じていれば責められないし、悔い改めるチャンスがあり赦されて、やり直すチャンスを何度も下さり、次第に良い心、行いへと自身が変えられていくという希望を持てるからです。

 また、たとえ何か他者の為に尽くしたことが誰からも評価されなくても、見えない神に向かってしているという心で行えば、くじけることはありません。なぜなら、神様がその善行を記録しておいてくださり、天国で「よくやったね」と、天での報酬が期待できるからです。「わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 」*2とあるとおりです。神様に対してするように、目の前の人に、どんなに小さいことでも、良いことを相手にしようと日々心がけたいと願います。まずは、日々出会う人たちに、優しい言葉をかけたり、ドアをおさえて「お先にどうぞ」と譲ることなどからまずは、始められるのではないでしょうか。


 「そのとき、主を恐れる者は互に語った。主は耳を傾けてこれを聞かれた。そして主を恐れる者、およびその名を心に留めている者のために、主の前に一つの覚え書がしるされた。 」マラキ書3章16節

*1箴言1章7節
*2ガラテヤ人への手紙6章9節
(聖書引用、口語訳聖書)