私の家では、いつもゴスペル・ソングが流れています。車で移動する時もCDをかけて、自然に口ずさみ、歌っています。我が家でこのような習慣となったのは、ちょうど一年程前、牧師である夫が、「来年4月から、教会でゴスペル賛美礼拝を始めようと思う」と言い出したことに始まります。今迄も、賛美歌やプレイズソングは聴いたり、礼拝で歌っていましたが、2020年4月から、今迄の土曜礼拝に加え、日曜日に新たなスタイルの礼拝を始めることを考え、二人で色々相談してきました。このゴスペル賛美礼拝では、ゴスペルソングを皆で歌う時間を長くとり、聖書のメッセージは子供でも、初心者でもわかりやすい簡潔な内容にし、地域の人が気軽に来られるスタイルの礼拝を始めることにしました。
そのための準備として、昨年から那須塩原市のゴスペルクワイアー(ミンゴス)の練習に参加をし始めました。そしてなるべくたくさんのゴスペル賛美の曲を聞き、自分たちが歌えるようになり、遂には礼拝に参加する人々の賛美をリードできるようにまでなれればと願い、既にそのような礼拝をしている他教会の人々からアドバイスを頂いたり、話を聞いたりしてきました。正直、あまり音楽的才能のない私たち夫婦には、途方もなく難しいプロジェクトに思えました。まず、二人共ゴスペルをリードできる楽器を弾けないですし(私はせいぜい従来の礼拝で楽譜をみて賛美歌を奏楽する程度)、ゴスペルをキーボード等で自由自在に伴奏する才能はどう頑張ってもないのです。そのうち、演奏が出来る人、教会でゴスペル・クラスをひらけるような人材を神様が送ってくださること祈り求めながら、とりあえず今は生演奏がなくとも、ゴスペルは歌うことはできます。以来、私たちの頭の中にはいつもゴスペルが流れ、時折どちらともなく、森を歩いていても、車を運転していても口ずさむようになっています。
賛美は力です。一般的に音楽は人の心に影響力がありますから、なおさら賛美は歌詞の内容が聖書のことばであったり、神様への祈りであったりするので、歌っていると励まされ、くじけそうになっても力が与えられます。賛美で重要なのは、誰に向かって、何のために歌うのかという点であり、コンサートのように自分たちを喜ばせたり、観客を楽しませるためでは本来ありません。つまり賛美は神様に向かって、神様を崇める為、感謝を捧げるために歌うのであり、心がこもっていれば奏楽や音楽のジャンルに関わりなく、神様に受け入れられるのです。もちろん、それに加えて、レベルの高い演奏、コーラスがあれば素晴らしいことですし、神様を信じていない人は是非ゴスペルを聞いたり歌ったりするのを楽しんで頂きたいですし、それはそれで素晴らしいことです。ただ、信徒にとっては賛美は礼拝、神様への感謝の捧げものだからです*1。
一般的には、才能や技術、知識、経験がある人々を集め、それに基づいてプロジェクトを準備し、広告宣伝をして人を集め、開始していくというのが事業です。しかし、キリスト教の教会の伝道に関しては、必ずしもそうではなく(もちろん、これらがすでに与えられていれば恵ですが)、一番大事なのは、神様からその牧師やリーダーに与えられるビジョンです。「 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」*2 と聖書に記されているように、自分たちのやりたいことを行うのではなく、神様がなさりたいことを私たち信じる者がビジョンとして捉えて、祈りながら、計画を進めていきます。そして、必ずしも計画通りにいかないことが多々あります。しかし、神様はもっと大きな視野と時間の流れの中で、そのビジョンがなされるように導かれることがあります。それは人間には見通しがはっきりしないものなので、そこで問われるのが信仰です。神様への信頼と、聖書で約束されている多くのことばに裏付けされた確信が信仰として私たちに与えられ、それだけが頼りです。必要なことはその時期に与えられる、チャンスも与えられるという希望によって、前向きに日々生活をしていけることは本当に神様の恵です。
私たちの教会は資金もない、人もいない、まして、この春から新型コロナ感染拡大で3密自粛という社会となり、教会の宣教にとって全ての状況が不利に転じたかのような幕開けとなりました。地域のゴスペル・グループをゲストに迎えてのイースター礼拝は延期、教会の集会を積極的に広告宣伝できない状況下。それでも、私たちは神様が一年前に夫にその志を与えたのだから、それが神様のみ心にそう計画であれば、下記のみ言葉のように、必ず福音のよい業を始められた神様(主)が完成させてくださると信じつつ、この4月から二人だけでも集会を続けてきました。土曜・日曜の朝の従来のスタイルの礼拝、そして、日曜午後にゴスペル賛美礼拝、そして夕礼拝、木曜夜の聖書の学びの会と開き続けてくると、以前から土曜礼拝に来て下さっていたが方々を中心に、数人の方々が参加されることもあり、少人数なので自ずと3密にならず、マスク・消毒をして細々と毎週礼拝を神様に捧げられていることは、この上ない恵であり、感謝の想いで一杯です。
このように、私たちの弱いところにこそ神様の御業が力強く働かれるというみことばに励まされて*3、実際たくさんの恵を神様から受け礼拝を続けて約2ヶ月が経とうとしています。このことは、多くのキリストにある兄弟姉妹たちのお祈りと献金によるもので、彼らを通して、主から与えらている恵です。その方々に、主にあって心から感謝するとともに、引き続き教会で感染が起こらないように対策は取りつつ、徐々に社会情勢に合わせて、延期している宣教活動がなされていくことを願い、自分たちだけでなく、日本の、世界の教会のために、日々祈っています。こんな時だからこそ、神様を求める人々が一人二人と教会を訪ねてくると信じ、主に期待して、今出来る事をこつこつとしていこうと思います。
「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 」ピリピ人への手紙1章6節
*1「だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。 」へブル人への手紙13章15-16節
*2 ピリピ人への手紙2章13節
*3「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」第2コリント人への手紙12章 9-10節
そのための準備として、昨年から那須塩原市のゴスペルクワイアー(ミンゴス)の練習に参加をし始めました。そしてなるべくたくさんのゴスペル賛美の曲を聞き、自分たちが歌えるようになり、遂には礼拝に参加する人々の賛美をリードできるようにまでなれればと願い、既にそのような礼拝をしている他教会の人々からアドバイスを頂いたり、話を聞いたりしてきました。正直、あまり音楽的才能のない私たち夫婦には、途方もなく難しいプロジェクトに思えました。まず、二人共ゴスペルをリードできる楽器を弾けないですし(私はせいぜい従来の礼拝で楽譜をみて賛美歌を奏楽する程度)、ゴスペルをキーボード等で自由自在に伴奏する才能はどう頑張ってもないのです。そのうち、演奏が出来る人、教会でゴスペル・クラスをひらけるような人材を神様が送ってくださること祈り求めながら、とりあえず今は生演奏がなくとも、ゴスペルは歌うことはできます。以来、私たちの頭の中にはいつもゴスペルが流れ、時折どちらともなく、森を歩いていても、車を運転していても口ずさむようになっています。
賛美は力です。一般的に音楽は人の心に影響力がありますから、なおさら賛美は歌詞の内容が聖書のことばであったり、神様への祈りであったりするので、歌っていると励まされ、くじけそうになっても力が与えられます。賛美で重要なのは、誰に向かって、何のために歌うのかという点であり、コンサートのように自分たちを喜ばせたり、観客を楽しませるためでは本来ありません。つまり賛美は神様に向かって、神様を崇める為、感謝を捧げるために歌うのであり、心がこもっていれば奏楽や音楽のジャンルに関わりなく、神様に受け入れられるのです。もちろん、それに加えて、レベルの高い演奏、コーラスがあれば素晴らしいことですし、神様を信じていない人は是非ゴスペルを聞いたり歌ったりするのを楽しんで頂きたいですし、それはそれで素晴らしいことです。ただ、信徒にとっては賛美は礼拝、神様への感謝の捧げものだからです*1。
一般的には、才能や技術、知識、経験がある人々を集め、それに基づいてプロジェクトを準備し、広告宣伝をして人を集め、開始していくというのが事業です。しかし、キリスト教の教会の伝道に関しては、必ずしもそうではなく(もちろん、これらがすでに与えられていれば恵ですが)、一番大事なのは、神様からその牧師やリーダーに与えられるビジョンです。「 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」*2 と聖書に記されているように、自分たちのやりたいことを行うのではなく、神様がなさりたいことを私たち信じる者がビジョンとして捉えて、祈りながら、計画を進めていきます。そして、必ずしも計画通りにいかないことが多々あります。しかし、神様はもっと大きな視野と時間の流れの中で、そのビジョンがなされるように導かれることがあります。それは人間には見通しがはっきりしないものなので、そこで問われるのが信仰です。神様への信頼と、聖書で約束されている多くのことばに裏付けされた確信が信仰として私たちに与えられ、それだけが頼りです。必要なことはその時期に与えられる、チャンスも与えられるという希望によって、前向きに日々生活をしていけることは本当に神様の恵です。
私たちの教会は資金もない、人もいない、まして、この春から新型コロナ感染拡大で3密自粛という社会となり、教会の宣教にとって全ての状況が不利に転じたかのような幕開けとなりました。地域のゴスペル・グループをゲストに迎えてのイースター礼拝は延期、教会の集会を積極的に広告宣伝できない状況下。それでも、私たちは神様が一年前に夫にその志を与えたのだから、それが神様のみ心にそう計画であれば、下記のみ言葉のように、必ず福音のよい業を始められた神様(主)が完成させてくださると信じつつ、この4月から二人だけでも集会を続けてきました。土曜・日曜の朝の従来のスタイルの礼拝、そして、日曜午後にゴスペル賛美礼拝、そして夕礼拝、木曜夜の聖書の学びの会と開き続けてくると、以前から土曜礼拝に来て下さっていたが方々を中心に、数人の方々が参加されることもあり、少人数なので自ずと3密にならず、マスク・消毒をして細々と毎週礼拝を神様に捧げられていることは、この上ない恵であり、感謝の想いで一杯です。
このように、私たちの弱いところにこそ神様の御業が力強く働かれるというみことばに励まされて*3、実際たくさんの恵を神様から受け礼拝を続けて約2ヶ月が経とうとしています。このことは、多くのキリストにある兄弟姉妹たちのお祈りと献金によるもので、彼らを通して、主から与えらている恵です。その方々に、主にあって心から感謝するとともに、引き続き教会で感染が起こらないように対策は取りつつ、徐々に社会情勢に合わせて、延期している宣教活動がなされていくことを願い、自分たちだけでなく、日本の、世界の教会のために、日々祈っています。こんな時だからこそ、神様を求める人々が一人二人と教会を訪ねてくると信じ、主に期待して、今出来る事をこつこつとしていこうと思います。
「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。 」ピリピ人への手紙1章6節
*1「だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。 」へブル人への手紙13章15-16節
*2 ピリピ人への手紙2章13節
*3「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」第2コリント人への手紙12章 9-10節