先日、子ども達のためのクリスマス礼拝とクリスマスお楽しみ会が教会で開催されました。子供といっても年齢層は幅広く、幼児から中学生まで、総勢10人位と大人たちが参加し、楽しいクリスマス会であるはずが、途中でちょっとしたハプニングが起こりました。イエスが生まれた様子を牧師が子ども達に話し終えて、さあこれからごちそうを食べようというタイミングに、突然参加していたご高齢の婦人が「先生、ちょっといいですか!」と立ち上がりました。そして子供たちの前で大声で「キリストは馬小屋で生まれたなんて聖書には書いてないんですよ。『飼い葉桶にねかした』、『宿屋がなかった』と書いてあるけれども、馬小屋とは書いていないんですよ!」と人差し指を上に掲げて叫んだのでした。子供たちは、おそらく何のことを言っているのかよくわからず、ぽかんと聞いているようで、中学生の子は理解していたと思いますが、ただ、会の楽しい雰囲気がこのご婦人のおかげで一時中断されてしまいました。
彼女のいう事は勿論正論ですが、それをなぜ子供達が楽しく盛り上がっているところで、恐ろしいインパクトを与えるようなやり方で指摘する必要があるのかと。そもそも、クリスマスが12月25日とは聖書に根拠もなく、子ども達の絵本に描かれているクリスマスのストーリーも聖書通りではないところが多いのですから、馬小屋云々だけをとりたてても意味がありません。
たとえ聖書通りではない推測や創作が付随して語られたとしても、どの教会でも、クリスマスの大切なこと、重要な部分は必ず語られ、そしてクリスマスが何のために祝われるのかという説明もなされます。周辺的なことに目くじらをたてるのではなく、中心的なことに私たちは着目すべきではないでしょうか。なぜなら、クリスマスは喜びの報せを告げ知らせるための機会だからです。何の喜びでしょうか?プレゼントをもらえる、パーティがある、カップルでロマンティックな夜を過ごす、そういった一部の人たちだけの、一時的な喜びのためにクリスマスはあるのでしょうか。もしそうであれば、クリスマスはある人たちにとっては、とても孤独な辛い時期となってしまいます。
私たち人はすべては、いろんな意味で救い主が必要です。この世に生きている限り苦悩、問題、争いは必ずあり、人間だけで平和を実現できないまま、何千年と時が過ぎてきたことは、歴史から明白です。また未来についても、希望があるでしょうか。クリスマスの喜びとは、神から送られてキリストが世に来られたということを知り、それが自分を救ってくれる、そしてそのことを信じた時、平和と希望がその人の内側にもたらされ、喜びが与えられるのです。また、そこまで自分を愛して、大切に思っていてくれている神様に感謝と讃美を捧げ、状況が困難な中にあっても、生きる希望が与えられることが、良い知らせ、喜びの報せなのです。それがクリスマスです。幼い子ども達を含めた多くの人々に、クリスマスの良いイメージが心に残り、福音の種が心に蒔かれ、いつか芽を出すことを祈りつつ。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3章1節
彼女のいう事は勿論正論ですが、それをなぜ子供達が楽しく盛り上がっているところで、恐ろしいインパクトを与えるようなやり方で指摘する必要があるのかと。そもそも、クリスマスが12月25日とは聖書に根拠もなく、子ども達の絵本に描かれているクリスマスのストーリーも聖書通りではないところが多いのですから、馬小屋云々だけをとりたてても意味がありません。
たとえ聖書通りではない推測や創作が付随して語られたとしても、どの教会でも、クリスマスの大切なこと、重要な部分は必ず語られ、そしてクリスマスが何のために祝われるのかという説明もなされます。周辺的なことに目くじらをたてるのではなく、中心的なことに私たちは着目すべきではないでしょうか。なぜなら、クリスマスは喜びの報せを告げ知らせるための機会だからです。何の喜びでしょうか?プレゼントをもらえる、パーティがある、カップルでロマンティックな夜を過ごす、そういった一部の人たちだけの、一時的な喜びのためにクリスマスはあるのでしょうか。もしそうであれば、クリスマスはある人たちにとっては、とても孤独な辛い時期となってしまいます。
私たち人はすべては、いろんな意味で救い主が必要です。この世に生きている限り苦悩、問題、争いは必ずあり、人間だけで平和を実現できないまま、何千年と時が過ぎてきたことは、歴史から明白です。また未来についても、希望があるでしょうか。クリスマスの喜びとは、神から送られてキリストが世に来られたということを知り、それが自分を救ってくれる、そしてそのことを信じた時、平和と希望がその人の内側にもたらされ、喜びが与えられるのです。また、そこまで自分を愛して、大切に思っていてくれている神様に感謝と讃美を捧げ、状況が困難な中にあっても、生きる希望が与えられることが、良い知らせ、喜びの報せなのです。それがクリスマスです。幼い子ども達を含めた多くの人々に、クリスマスの良いイメージが心に残り、福音の種が心に蒔かれ、いつか芽を出すことを祈りつつ。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ福音書3章1節