Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

生まれつき目が見えない人の癒し

2022年10月29日 | 日記
 毎週土曜日に、益子教会では礼拝に参加される高齢の方を車で迎えに行きます。いつもの時間、いつもの場所(その方の家の前)で待っていましたが、その方が出てこないので、家に電話してみても応答なし。今日はお休みなのかと戻ると、一時間後にその方から「今日はどうして迎えに来られないのか、何かあったのですか」と電話が来ました。その方には申し訳なかったのですが、何故かお互いが「見えなかった」のです。私たちの生活の中で、視力は見えているのに見えないことがあります。例えば目の前にあっても、「ない、ない」と探し物をしたりすることはないでしょうか。また「思い込み」という精神的な要素も加わると、探し物が見つからず、お互い会えない時があります。いずれにしても次回からは、出る前に電話して確認したほうがよいでしょう。

 イエス様はある時、生まれつき目の見えない人の目を見えるように癒されました。この人は他の人のケースと異なり、自分から「目を見えるようにしてください」とイエス様に頼んだのではなく、イエス様の弟子たちが「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」という質問に対して、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」*1と言って癒されました。弟子たちの質問はこの当時のユダヤの人々の考え方であり、おそらくどの国もどの時代も、生まれつきもしくは途中で病気や不自由な体になると、「バチがあたったのだ」「行いが悪いからだ」と、思う人はいるかもしれません。酷い場合には「あなたの先祖の罪があるからこうなったのだ、だからそれを償うためにこの壺を買いなさい」といって、高額なお金を支払わせるカルト宗教の霊感商法につながります。

 聖書では、その人の罪はその人自身のことであるとして*2、また何か身体に障がいがあることイコール因果応報に結びつけません。そんな負い目に縛られる必要はないのです。ではイエス様が言われた「神の業がこの人に現れるためである。」とはどういう意味でしょうか。この人の場合は神様の奇跡の業がなされる、生まれつき目が見えない人の視力を回復されるということです。つまりこの人の目が見えていたら、この人はイエス様に出会うことはなく、驚くべき奇跡も経験することもなかったかもしれませんし、神様の超自然的な力による業が人々の前に現されることはなかったでしょう。

 一方、この時代も、現代の医学を持ってしても治らない病気もあり、すべての人がイエス様にお願いしたら癒されるわけではありません。しかし、神様の業は私たちにとって「良い」と思うことだけに現わされるのではなく、むしろ私たちが「良くない事、不自由なこと、弱さを覚えること、不幸だと思える状況」においても現わされます。つまり、病気が治らなくとも、その病を通してその人の信仰が強められたり、たとえその人が皆の必死の祈りにも関わらず亡くなったとしても、周りの人々に予期せぬ良い影響を及ぼすことがあります。それらすべて神様の業が現わされると言えるでしょう。

 重要なことは、身体的な目より、その人の心の目が見えるようになること、つまりイエス・キリストを信じる信仰を持てることだと思います。この体はどんなに健康であってもいつかは衰え、寿命がきます。また人それぞれに、何かに対する負い目やしがらみに縛られて心が不自由な状態にいるかもしれません。しかし、イエス様の十字架の贖いで、私たちのすべての罪は赦されて負い目を感じる必要はなく、縛られている心は解放されます。これは、自分の罪を自覚し、神様の前に悔い改めるところから始まります。人の魂・霊は永遠に続き、つまり心と心の目も続くとなりますと、このキリストに示される神様の愛を信じる信仰が与えられることは幸いです。将来のこと、死んだ後の事を心配する必要はなく、今生きている間のことも、たとえ辛い状況であっても、自分の弱さの中にあっても、神様の業が働かれるだろうと期待することができる、このような希望を持って日々生活できるからです。それぞれが置かれた状況において、神様の業がどのように現れるだろうか、キリストの力が私の弱さの中にどのようにあらわされるだろうかと期待して、恵みによって与えられている自由を感謝していきたいと思います。

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 コリント信徒への手紙2 12章9節

*1 ヨハネによる福音書9章2-4節参照
*2 エゼキエル書18章14-20節参照


大きな信仰 Oct. 9, 2022 益子教会 メッセージ

2022年10月09日 | 日記
 本日の箇所は「カナンの女の信仰」と新共同訳聖書で見出しがついています。彼女はイエス様より「あなたの信仰は立派だ」と褒められた、数少ない人間の一人です。なぜ彼女の信仰はそのように評価されたのか、私たちは彼女の信仰と態度から、私たちに注がれる神様の恵みについて学びたいと思います。

 イエス様がガリラヤ地方から移動して、ティルスの地方に行かれた。ここはカナン人が多く住む場所で、この女性も「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」とマルコの並行記事(マルコ7章24-31)には記されています。彼女の子供は悪霊に取りつかれて、長い間苦しんでいたので、イエス様が悪霊を追い出す力と権威があると噂で聞いていたのでしょうか、イエス様がこの地方に来たと聞いて、駆けつけてきたわけです。

 まず「あなたの信仰は立派だ」と日本語に訳されている原文を見ると、「あなたの信仰は大きい(メガレー)」と直訳できます。一方、福音書のなかでイエス様の弟子たちは2回も「信仰が薄い」とイエス様に言われています。彼らがガリラヤ湖で嵐に会って恐れ大騒ぎしたストーリがあり、1度目はイエス様が船に不在の時、2度目はイエス様が艫のほうで寝ていた時です。この弟子たちに対してイエス様は「信仰の薄いものたちよ」(マタイ8:26)、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(ルカ8:25)と言われています。このカナンの女性も弟子たちも同様に「主よ、助けてください」と必死にイエス様にお願いしていますが、この違いは何でしょうか?

 彼女の歎願「主よ、ダビデの子よ、私を憐れんでください」ですが、ダビデの子はメシアを意味するので、この外国人の女性はイエス様がメシアであることを信じ、ひれ伏して礼拝してお願いしているという姿勢が見受けられます。また、ここでの「助けてください」と訳されている原語は「悲鳴を聞いて駆けつける」という意味の言葉だそうです。つまり緊急事態であるので、ユダヤ人だろうと何人だろうと、今そこに迫っている危機だから駆けつけてほしいという意味が込められているのでしょう。

 そして彼女の信仰で特筆できる点は、自分の娘を連れてこなくとも、イエス様にお願いに行けば、遠隔で悪霊を追い出せると信じていたことです。つまり、イエス様のお言葉一つで、目の前にいなくとも悪霊が従うと信じていることです。これは福音書のなかでローマの百人隊長の信仰に似ています。彼もローマ人、外国人ですがイエス様に信仰を褒められた人です。彼の部下が中風(神経の病)でひどく苦しんでいて、癒してくださいと懇願しにイエス様のもとに来ました。イエス様が行って治してあげようと言われたのに対し、
「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」マタイによる福音書8:8-9

とイエス様のことばに力と権威があることを信じて、お言葉だけ下さいとお願いしたのです。 「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(8:10」と褒められています。
 
二つ目は、彼女は神様の恵みを的確にとらえていて、謙遜な態度でイエス様に願っていること、これもまたこの百人隊長と同じです。彼女はカナン人であり、ユダヤ人ではないのでお願いする資格がないし、イスラエルの民に約束されている祝福と恵を受けるにふさわしくないとわかっていました。百人隊長も「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」と言っています。つまり、カナン人の女性も百人隊長も自分はイエス様にお願いする資格がないが、それでもお願いすれば、憐れんで助けて下さる愛の方であることを信じて、諦めなかった、その信仰が立派だとイエス様は言われたのだと思います。

私たちは恵によって信仰によって主イエス・キリストのおかげで救われています(エフェソ信徒2:8)。この「恵み」ということば、キリスト教において恵みというのは特別な定義があります。恵みはイエス・キリストご自身を意味し、イエス様は神様の私たちに対する恵(プレゼント)そのものであります。ヨハネ1:17「恵は・・・イエス・キリストによって実現したからです」とありますように、神様の愛のご性質がイエス様に現わされています。神様のご性質は憐れみ深く、恵み深いのですが、この憐れみと恵みは同じではありません。憐れみというのは、私たちが受けるべき罰を与えられないこと、恵は私たちが受ける価値もないのに、神様より与えられる祝福のことです。よって、このカナン人の女性は、イエス様を神と信じ、その与えられる恵みについて理解し、ふさわしくなくとも懇願し続けたといえます。

一般的な恵み、例えば自然の恵みはだれにでも注がれ、悪い行いをしている人にも太陽は上り、雨は降ります。悪霊を追い出す、医者が直せない病を癒す、という私たちには特別なことと思うことも、神様にあってはすべて同じ恵みです。これらのことを祈り、助けてください!と積極的に神様に祈る時に、自分がそれをお願いする立場にない、ふさわしくないものである、しかし、それでもお願いすれば、祈りを、願いを聞いてくださる方だと信じる信仰を、神様が喜ばれ、「大きな信仰だ」とほめて下さるのです。

イエス様はこの女性との会話のなかで、取りようによってはとても冷たい対応にみえます。最初は彼女が「ダビデの子よ助けてください」と叫んでいるのに、彼女に答えません。これには弟子たちも、「なんとかして下さい、なんとか言って下さい」とイエス様に話すと、ご自分がイスラエルのために(イスラエルの失われた羊のために)来られたことを話されています。そのことを傍で聞いても、彼女は食い下がりません。「主よ、助けてください」と。すると「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えます。 子供たちとはイスラエルの民を、子犬とは異邦人を、パンを祝福にたとえています。イスラエルの民をさしおいて祝福を異邦人に与えるのはよくない、とイエスは言われています。これはイスラエルの民はアブラハムに示されたように、神様が祝福するという約束に基づいています。カナン人の女性は、イエス様から最初は無視され、次には犬呼ばわりされ、イスラエル人に約束されている祝福を外国人のあなたにはあげませんと言われ、普通、ここまで言われたら怒って帰るか、悲しんで諦めてしまうのではないでしょうか。なぜイエス様はこのような対応を彼女にしたのでしょうか。イエス様は彼女の信仰を試されたのだと思います。そして彼女は一連のテストを見事パスしました。27節女は言った。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

私たちも、あることを神様にお願いします。その願いはすぐに聞かれないことがありますが、すぐに聞かれないと「ああ、神様は聞いてくださらない」と諦めてしまうことはないでしょうか。もしくは、「わたしの願った通りに神様は聞いてくださらない」といじけて不信仰になることもできます。祈っても、すぐにかなえられない時、状況が変わらない時、私たちの信仰が試されるという面があります。

私たち夫婦は、益子教会に新しい人が来ますように、神様送ってくださいと毎日祈り続けています。しかし、神様の祈りの答え方は私たちが予想するような形ではなく、インスタントに一度にたくさんの人は来ません。しかし確実に神様はその時期その時期に、神様の方法で人を益子教会に送って下さり、祝福してくださっています。そして、私たちはいつも驚き、「神様は祈りを聞いてくださっている、素晴らしい!」と感謝しています。

もし、私たちが自分の行いの成果、「これだけ神様のために伝道活動しているのだから神様は祈りに答えてくれるべきである」という、少しでも自分のおかげという高ぶった思いがあると、どうでしょうか。もしそれで、神様がその成果に対して評価して願いことをかなえてくれるのであれば、世の中の会社での成果主義と変わらないことになり、もはや恵みではなくなります。

神様の恵みの世界は、世の中とは異なります。かえって、私たちが何もしていなくとも、またそんなに神様に良くしていただく程神様に従順でなくとも、神様は私たちの行いや状態にかかわらず恵みを注いて下さる方です。私たちに必要なのは、神様は憐み深い方、恵み深い方であると信じて、必ず助けて下さる方だと求め続ける信仰だと思います。もし、今このような信仰が自分にないなら、もしくは弟子たちのように怖がって、おびえて、ただ叫ぶだけのような信仰が薄い状態ならば、「信仰を増し加えてください」とお願いすることができます。信仰も求めれば与えられ、強められます。

私たちは祈ってすぐに、自分の状況が良くならなくとも、自分の病気が癒されなくとも、神様のタイミングと方法で必ず祈りの答えがなされると信じていきたいと思います。そしていつも謙虚な姿勢:自分は恵を受けるにふさわしくない者、不完全なものであるにもかかわらず、神様の憐みにより、救われていることを忘れてはならないと思います。私たちは、このカナン人の女性が知らないこと、つまり神様が私たちの代わりに完全な御子イエス様を十字架で犠牲にすることで、私たちの罪の負債を取り消してくださり、そのことを信じる信仰で救われるということを聖書によって知ることができます。このことを知って、信じて、その大きな恵みを日々体験することができるのはなんと幸いでしょうか。(テトス3:5;2コリント5:21)このおかげで、どんなことでもなんでもキリストの御名で神様に祈ることができるという特権が与えられていることを踏まえて祈ることが大切だと、このカナン人の女性からまなばされます。

私たちが受けるのに値しないものを受けるのが「恵み」の定義ですが、このカナン人の女は外国人であっても、イエス・キリストのあわれみと恵みを理解して、それにもとづいて、彼女は大胆に恵みの御座に近づいたのです。  最後に  へブル信徒への手紙4:14-16をお読みします。

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」へブライ信徒への手紙4:14-16

私たちも、どんなことでも、祈り続け、大胆に神様の恵みの座に近づきましょう。祈りはすでに聞かれていると信じてどんなことでも祈り、そしてイエス様に示される神様の愛を日々感謝し、希望をもって歩んでいきましょう。