Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

誇るべきこと

2021年09月25日 | 日記
 プライドを持つ事は一般的に良いこととして推奨されています。プライドを持てない人は、自尊心が低いとされます。では、自己卑下する人は本当にプライドを持っていないのでしょうか。どんな人であっても、プライドを持っていない人はいないはずです。他者と自分を比較して、自分を卑下しながら、同時に別の他者を見下げることが可能だからです。これは「自分を認めてもらいたい」という欲求のようなものが無意識に働き、他者を見下すことで自分はそれよりもましだからと思う、もしくは自分の存在価値を持たせるという心の中の操作を行うのです。本当に謙遜な人というのは、人と比較せず、高ぶらず、自分の現状に満足している人かもしれません。

 先日、ある事があって、それに対して自分のプライドが傷ついてイライラしたことがありました。その内容を人に話さず、後で神様の前に静まって、心の内全てをぶちまけてから、「神様、ごめんなさい。赦してください。今後、私の心がこのようなことで苦い思いを持たないよう、私の心を変えて下さい。」と祈り、ようやく収まりました。そんなことくらいで傷つくようなプライドなど、なくなってしまえばよいと願い、もっと謙遜に、柔和な心を持ち続けたいものです。

 高慢な者は神様を敵とし、謙遜な思いを持つ者に神様は恵みを与えて下さるということが下記のみ言葉に記されています。高慢な人は、自分はこれで大丈夫、誰の助けもいらないし、神など必要ないと豪語します。神さまに助けを求める・任せるという概念がありません。「自分で今迄も何とかしてきたし、これからも自分だけが頼り」だからです。そういう状態ですと、神様が恵を与えようとしてもその恵みをはじいてしまいます。

 イエス様を信じて神さまの霊を頂き、その聖霊が私の心に住んでおられるので、神様に感謝し、喜び、祈っている状態だと聖霊はそれを喜びます。そういう時は心が平安で穏やかです。一方、私の内に怒りとか、他者を批判したり裁いたりする思いが沸きあがると、聖霊はそれを悲しみます*1。そして、聖霊の火を消してはならないと聖書に書かれています*2。火は酸素が欠乏し、水をかければ消えるように、聖霊の働きもみことばと祈り、賛美が欠乏し、苦い思いを持ち続ければ止まってしまうという警告でしょう。聖霊の火を灯し続ける、つまり聖霊が私たちの言動において働かれるために、柔和な心を持ち、親切にし、憐れみの心で接していけるようになりたいと願います。なぜなら、神様がキリストによって私を憐れんで、赦してくださったように、私も目の前におかれた相手に自分が受けた愛を示していきたいからです。これは難しいことです。しかし、神様のみことばに従いたいので、そう出来るように祈り続けようと思います。

 そして、誇るものがあるとしたら、ただ一つ:「主(キリスト)を誇れ。」とありますように*3、主である真の神様を知って信頼することを誇りたいと思います。主がどういうお方なのか、その愛を知れば、その主において自分が今立っていられるという自信を持つ事、自分の拠り所を置ける事が可能だからです。主は慈しみと正義と恵の業を行われる方なので、虚勢を張らずに、自他の評価で自己卑下することなく、安心して、自分は神様に愛されていて、大切にされている存在なのだ、というその恵みを感謝して受け取り、思います。

それで、こう書かれています。「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」ヤコブの手紙4章6節
 
*1 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。 エフェソの信徒への手紙4章30-32節
*2 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはいけません。 テサロニケの信徒への手紙1 5章16-19
*3 むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事/その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。 エレミヤ書9章23節  (聖書引用 新共同訳聖書)

3.11と9.11

2021年09月13日 | 日記
 日本人にとって忘れらない、悲しみの日の一つは2011年の3.11、東日本大震災の日であると思いますが、アメリカ人にとって同様に忘れられない日は、2001年の9.11、同時多発テロが起こった日です。今年でちょうど20年が経ち、アメリカの各地で式典が行われ、教会でも残された遺族たちの悲しみに神様の慰めが与えられるように祈ったことでしょう。私は個人的に、これらが起こった日にアメリカと日本にいなかったのですが、その前後に両国に在住していた者として、両日ともにその日が来ると深い悲しみを覚え、祈りを捧げています。そして今、新型コロナウイルスのパンデミックが起こり、もはやこれは一つの国や地域だけでなく、世界中の地域でこのウイルスが広まり多くの方が亡くなっているという患難の時代に私たちは直面しています。

 なぜこれらが起こるのか?というよりも、なぜ人の命が突然奪われてしまうのか?という疑問に行きつくのだと思います。災害も、事故も、病気もなければ、人は長くて100歳くらいまで生きられるだろうという前提があって、その前提が破られるからです。建物であれば、壊れてもある程度再建がなされます。しかし、命は再建ができません。逆に言えば、たとえすべてが失われてしまっても、命さえ残ればやり直せます。元通りの生活ができないとしても、新しい生活にて生き続けられます。その命よりも、経済を優先するのかとの声が今巷であがっていますが、経済活動と人命救助の両立は、どの政府にとっても難しい政策です。政府も試行錯誤しますが、国民も何をしてよいか、何が最善なのか、私たち一人一人に問われていることだと思います。

 「神がいるなら、なぜこのような災害やテロ、病が起こることを許されたのか」と、思う人々のことも考えます。もし神がいるなら全て平和になるよう支配できるはずだと。なぜ人間を好きにさせているのかと。もし神が、人を平和的に生きるようプログラムしたロボットとして創られれば、そうなるかもしれません。しかし神様はそうなさらず、自由意志を持つ存在として人を創られました。自発的に自分の意志で「良い」ことを選択し、神様を信じてほしいからでしょう。不条理なことはたくさんあります。しかし明らかなことは、神様が不条理なことを引き起こすのではなく、人間が引き起こしているということです。そうだとしても、「なぜ?」という質問はでてきます。それを神様にぶつけてよいのです。そこから、模索が始まり、神様との対話が様々な媒体を通して始まり、結局、神様を求めることに繋がるからです。そしてその質問に答えられるのは、人ではなく、神様だけです。

 聖書では命は、単なるこの体が生物学的に生きることだけを指しません。命とは、キリストを知って信じ、救われることを指し、死とはキリストを信じず、救いから外れてしまうこと、という2元論的な内容と言えます。キリストについてどの様な情報を「信じる」のでしょうか。まず、イエス・キリストが今存在している全てを創った神であること*1、そしてキリストがその被造物である人間を大切に思い、永遠に神と共に生きれるように、自ら人となってこの世来られ、私たちの罪が赦され、救われるために、代わりに神からの罪に対する罰をうけ、死なれたこと、神により復活されて今も天で生きておられること、これらのことを信じる人が永遠の命を与えられるということです。

 そんなことをどうやって信じるのか?と思われる人もいるかもしれません。「人には出来ないが神には出来る」*2、とイエス様は言われました。これは、人には「そんなことを信じるなんてありえない」と思えても、神様の力によって、求める人には信仰も与えられることを含みます。人はどういう時に本当の神様を求めるかというと、たいがい、その人が困っている時、自分の思うように人生がいかない時、苦しんでいる時に助けを求めます。そして、自分を救ってくれる神様を求め、そしてキリストに個人的に出会うのです。単に、神様は今困っている状態から救うのではなく、魂のもっと深い根本的なところから、湧いてくる質問「自分はなぜ存在していいのか」にキリストは愛を持って答えてくれます。「私があなたを目的を持って存在させた、愛するために存在させたんだよ」と。

 使徒パウロは、下記のみことばにあるように、キリストを宣べ伝える活動において死を覚悟する程の患難に何度も会いましたが、そのたびに助けられ、神様への希望が強まって行ったことを記しています。このように、をあらゆる苦難の中にある人々に、信仰を持つきっかけ、もしくは信仰が強められる時は、ある意味、患難の時かもしれません。そう思えるとしたら、その辛い体験をした人にのみ理解できることでしょう。今、多くの辛い思いの中にいる方々が、パウロやそのほか多くのキリストを信じる信徒たちが経験してきたように、神様に助けを求め、神様に助けられるという経験を重ね、どんな時でも神様がなんとかしてくださると信頼できるようになり、心に安らぎと希望を持てますように、祈ります。また、神様が、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださったので、今こうして、平安のうちに恵みを受けて生きています。ですから、神様が全ての人を心にかけて下さり、慰めを与えて下さる方であることを、今苦難の中にある方々へ伝えていきたいと願います。

「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」 コリント信徒への手紙2一章9-10節
 
*1 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 」ヨハネによる福音書1章1-3節 (言とはイエス・キリストを指します)
*2イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 マタイによる福音書19章26節  (聖書引用 新共同訳聖書)

賛美する喜び

2021年09月04日 | 日記
 先日、「賛美する喜び」というオンラインによる教会音楽ワークショップに参加しました。私は普段、教会の礼拝で賛美歌の奏楽をしているのですが、なかなかただ弾くだけで技術的なことはもとより、奏楽をする上で教会音楽の基礎的なことを少しでも学べればと願い、またコロナ禍における賛美を他教会がどのように工夫しているか等も知る良い機会だと思い、2日間にわたる講座に参加することにしました。ほとんどがすでに録画されたものを聞く形でしたが、Zoomによる奏楽相談室では、一人一人礼拝で奏楽する時の質疑応答の時間がもたれ、非常に参考になりました。前の教会で、パイプオルガンの奏楽を少しだけ学ばせていただき、実際礼拝で奏楽する機会があった時も、先輩に色々教えていただいたのですが、今回は私にとって技術的なことよりも、大事なことは、会衆が神様に賛美を心を込めて歌えるように、奏楽者はどのように仕えるかという点で、私にはレベルの高い話ですが、とてもチャレンジを受けました。また、録画の場所のチャペルを見て、懐かしい思いに駆られましたが、何十年も前、自分の学生時代に、身近にパイプオルガンやチャペル・礼拝があったのに、自身がほとんど関わることをしなかったことが非常に残念に思います。
 賛美の歴史を見ると、時代によってスタイルは変わっていきます。しかし、神様を讃美する歌詞は変わらずに何千年も歌い続けられていることが神様の業によるものだと改めて思わされました。時代や教派によって異なる賛美の多様性があることを受け止めつつ、自分の出来る範囲で奏楽を続けていこうと、モチベーションが上げられ、感謝でした。
 使徒パウロとシラスは、キリストを伝える中で迫害を受け、獄に入れられることがありましたが、権力者たちは彼らを物理的に閉じ込めることはできても、彼らの賛美と祈りを妨げることはできませんでした。彼らは獄中でも賛美を歌い、それを他の囚人たちが聞いていたと聖書に記されています*1。獄中ですから、もちろんアカペラで歌っていたでしょう。究極的には楽器の奏楽がなくとも、たとい音程が違っていても、賛美は歌えるのであり、その讃美を神様が喜んで受けて下さるということが大切だと思います。
 私は、時々頭の中で賛美を歌い、その演奏の音まで頭の中で思い返し、時には仕事中、廊下を歩きながら頭の中で歌っています。仕事をしていると9-10時間があっという間に流れますし、その間づっと神様のことを意識できないのですが、それでもほんのひと時でも頭の中に賛美というBGMを流しながら、神様に助けを求め、そして実際職場でいつも助けられているので本当に感謝です。賛美の喜びは、奏楽する時も、歌う時も豊かに与えられる、神様からの恵であります。神様は、日曜の礼拝の時だけでなく、仕事中でも、家でも私の主であり、全てをコントロールして下さる方、共にいて下さる方です。それを私が意識すればするほど、神様への感謝が賛美となり、祈りともなり、神様とのコミュニケーションが増えます。賛美の内容は、主に聖書のみことばからとられていますので、みことばが自然と頭の中に蓄積されて、折にかなってそれを思い起こし、困難な状況の時にそのみことばによって力を受け、励まされて、日々生活していきたいと願います。
 
「むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」 エフェソ信徒への手紙5章18-20節 (新共同訳聖書引用)

*1 使徒言行録16章25節