Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

スイッチ入る

2021年04月29日 | 日記
 「なぜ、あんな態度をとられるのか。」ある人が何かのきっかけで、自分に対して怒りを表してきた時、まず驚いて何も言えず、ついこちらが悪くもないのに「すいません」と謝ってしまい、後から良く考えると、なぜあんな態度を取られるのかと怒りがこみ上げてくる。。。こんな体験はしたことはないでしょうか。そのような人を、「あの人時々、スイッチ入っちゃうとああなるんだよね」と陰でささやくのを耳にすることがあります。要は怒りのスイッチが入り爆発したり、態度が豹変したりする人の態度を現すのでしょう。   

 怒りをコントロールできれば、どれだけの争いや問題を最小限に抑えられることでしょう。かくいう私も、怒りたくなるような状況で、ぐっとこらえ口答えしないよう努めていても、時々、口に出してしまい、その口に出した内容が全く理路整然としていなくて、言わなければよかったと、そんな愚かな自分自身を責めて落ち込みます。口をコントロールする必要性については、聖書にあれだけ書いてあるのに、なぜ静かに抑えられなかったのかと落ち込み、しばらく立ち直れません。そんな時、聖書のデボーションの箇所がタイムリーに送られ、下記のような聖書の言葉が私を悔い改めに導き、赦しを受け取って、いつまでのくよくよせずに神様がいつか私の品性を変えて下さると信じて、気持ちを切り替えていけるのは、幸いです。

 また、私自信の感情のことより、私が怒りや苦い思いを持つと、私のうちに住む聖霊が悲しむとのみことばにより*、はっとさせられました。そうか、神様が悲しまれるのだと。私は神様を喜ばせたいし、神様の御心にかなったことをしたいと思っていても、神様を悲しませてしまっていることがいかに多いのではないかと気がつかされるました。

 同じスイッチを入れるなら、信仰のスイッチをオンにしたいと思います。信仰が働くか働かないかは、電気をつける時のスイッチに例えられます。神さまを信じていても、疑いや不信感を持ったり、思い煩いで神様に委ねられないでいたり、自分の罪をそのままにしておくと、信仰が働かなくなり、神様の力が私のうちに流れなくなってしまう。そういう時はみことばを思い出し、罪を悔い改め、信仰のスイッチをオンにしようと。つまり、私の状態がどうであれ、神様の私に対する愛は変わらないし、見捨てられることはなく、私の失敗を通しても私を成長させる方向へ導くチャンスに変えて下さる方であり、信頼していていいのだと、心を自分ではなく、神様の愛に目を向けることにします。結局、私自信の内には何もなく、私は管のようなもので、その管の中に神様の力やみことばが流されると、周りに神様の業が現れ、良い影響を及ぼせる可能性があると信じて、神様に期待していきたいと思います。


「愚かな者は怒りをことごとく表わし、知恵ある者は静かにこれをおさえる。」 箴言29章11節


*「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」エペソ人への手紙4章30-32節 (口語訳聖書引用)

二者択一

2021年04月17日 | 日記
 ネグレクト。この言葉があらわす状況ほど、悲しいものはないと思います。先日、ある高校生の話を聞き、心が痛みました。詳細は個人情報なのでここでは言えませんが、行政が何もその子の為に出来ないし、民間の団体の支援に頼ろうとしても、その親が支援を受けることにストップをかけてしまうので、手の出しようがないのです。親権が子供の生きる権利を妨げてしまい、最悪の場合は子供の命を奪ってしまう事に対し、何もできないもどかしさと怒りが湧き上がります。

 日本の子どもの為の福祉制度と子供を守る法律は、先進国の中で非常に遅れています。アメリカでは義務教育が高校まであり、授業料も無料です。また、虐待の疑いがあると、また親がいて学校を休ませていると、親の監督怠慢ということですぐに行政により親子分離がなされ、子供は保護されて必要な住居と費用が保障され、学校へ行かされます。また、小さい子ども達だけを家においておいて、親が出かけてしまっていると警察に通報されます。それほど子供に対する保護が法律で保障されているという背景は、親の虐待、ネグレクト、子供を狙った犯罪により子ども達の生死が危ぶまれた深刻な社会状況があり、それに対する方策です。それでも、子供の拉致監禁、虐待は絶えませんが、100%でなくとも子供を守る行政の仕組みが機能しています。日本もせめて、これくらいのレベルに行政が早く動けるよう法改正がされてほしいと願っています。
 
 生きるか死ぬか。この二者択一ほど究極的な選択はないと思います。誰もが生きたいと思い、また生きるのなら幸せな祝福された人生を望みます。現代の壊れてしまっている社会で、特に子供は大人のように社会のシステムが分からないし、分別もないので、辛い苦しい状況、環境で一日一日を過ごさなければならないのです。ある国では生まれた時から戦争下で、いわゆる戦争のない時を知らないで育つ子供達がいます。生きたいと願っても、その選択肢がないかのような状況に置かれている人々。神さまはこういう子供たち、大人を見捨てておられるのか、という思いが沸いてしまうのも仕方がないことかと思います。

 しかし、下記の聖書のことばにあるように、例え親が忘れても見捨てても、神様は忘れないと書かれてあります。だから、諦めないで、命を選びなさいと*。神様は人間を愛するために創られて、永遠の命を得させ、祝福を与えたいと一人一人に願っています。それは全ての人に対してであって、いわゆる加害者も被害者を問わず、全ての人に対してです。神様は人の罪が生み出した悪の連鎖、虐待や犯罪から救い出そうとして、神の子であるイエス様をこの世に送ってくださいました。そのイエス様が、本来受けるべき呪い(罪の結果生じる罰、負い目、罪に対する神様の怒り)を全て代わりに負って下さり、十字架で死なれました。それは、私たちが命を得、神様の祝福を得られるために身代わりになって下さり、そして死に打ち勝って3日目に甦えり、天において、今なお、私たちに救いの手を差し伸べ続けておられます。

 死と生、呪いと祝福。どちらも2者択一であす。私たちが生と祝福を選ぶと決めれば、すでに用意されている神様の救いが与えられるのです。つまり、神様を信じるか信じないか選ぶだけです。選べないで迷っている人にも、様々な状況を通して、人を通して選ぶように招いておられます。目に見えない神様からのその招き、救いを差し伸べる手は、聖書に示されています。信じる選択さえすれば、心に平和が与えられ、、生きる希望と神さまから愛されているという喜び、自分の存在を大切に思ってくれる神様の存在を知る事で、自分の存在価値を認められます。そして、今の状況がづっと続くのではなく、必ず試練に耐えられる心を与え、また脱出の道も与えられると、聖書に約束が書いてあります。 この聖書のことばは、私たちの近くにあります。遠くにあるものではなく、理解が出来ないような難解な内容ではなく、子供でも理解できる、シンプルな内容です。心を開いて、受け取ればよい、信じるという選択をするだけです。一人でも多くの特に子供たちが、このキリストの福音を知って、信じて、将来に向けて生きてほしいと心から願い祈っています。

「しかしシオンは言った、『主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた』と。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 」イザヤ書49章14-15節
 
*「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。」申命記30章 19-20節

イースターの希望

2021年04月04日 | 日記


 今日は教会暦でキリストが死んで3日後に甦られた日曜日を祝うイースターの日です。西洋諸国では、うさぎ、卵などをシンボルに用いて、新しい命が芽生える春のお祭りと掛け合わせて、子供達にエッグ・ハンティング(卵を庭のどこかに隠して、それを探すゲーム)をさせたり、ウサギのぬいぐるみがたくさん店頭に売られてたりしています。つまり、世俗化され、ディズニーランドなどを通して日本でさえも、イースターがうさぎや卵といった春の祭りとされ、本来のキリストの復活を祝う日ということが薄れてしまっているのが残念です。
 ある方から聖書に関する質問をされたことで、聖書の中に「希望」という単語がいくつあるか検索してみました。英語の聖書の検索ですと、180箇所*1ありました。聖書の中で文脈的に「希望」を含む文章は二種類に分けられると個人的に思います。一つは、人が主体の(もしくは神様抜きに人の視点における)希望と、もう一つは神様が主体もしくは、「主にあって」のように、神様にあっての希望とに分けられるのではないかと考察します。
 最近、ある若い作家の方が「押し」をテーマにした小説で、2021年芥川賞を受賞したというニュースを観ました。その作家は主人公が「押し」という応援する対象の存在に希望をおいて、辛い世の中でも生きていこうとする姿を描いたものだと語っていました。その「押し」という対象を多くの若い人たちは多かれ少なかれ持っていると。芸能人に限らず、その憧れの存在が彼らにとってアイドル(原語は”偶像”という意味もあり)になるのでしょう。その作家いわく、必ずしも「押し」の相手と直接触れ合ったり話したりという双方向性コミュニケーションの必要はないとのことでした。自分の中で満足し、完結していればそれにすがっていられて、それは逃避でもなく依存でないというのです。しかし、その片思い的なアイドルがどれだけその人を励まし続けられるのか、またいつまで、自己完結にすぎない思い、結局は逃避であるという虚しさから目を背け続けられるのでしょうか。それらの若い人たちが、中高年、高齢になったとき、別のアイドルをみつけて、明日に希望を持って、励まされて生きていけるのでしょうか。
 希望とは先のことについて、まだ目に見えない、不確実な事柄に関して、こうなってほしいとの願いであり、人は何かしらに希望をおいて、それを信じて生きていこうとするものです。聖書の文章の中で、「明日」と「希望」のセットで検索してみると、一つだけありました。それはコリントという町の信徒たち向けに書かれた、キリストの使徒パウロの手紙ですが*2、概略は 「人間のもつ希望だけで、危険を冒して何かをしたとしても、何の役にも立たないし、同様に、死人が(キリストが)よみがえられたという信仰がなかったのであれば、どうせ明日死ぬかもしれないのだったら、飲んで食べよう! という刹那的な生き方になるしかない、つまり希望がないとパウロは言っています。
 私は、何かに生きがいをつくること、または人の思いの中での自己完結的なアイドルが、全て悪いことだとは思いませんが、それらはあくまでも一時的で、その人の生活や人生に確かな励ましや希望を与えるものだとは思いません。一方で、問題にたった一人で向き合い、自分の力で、自分の想いでなんとか解決しようと悩み、頑張り続けることにも限界があると思います。誰であっても、本当の神様の存在、私たちを創られ、大切に思って下さっている愛の神様がいるということを信じる信仰が必要だと思います。
 イースターには喜びと希望があります。なぜなら、上記で使徒パウロが言うように、クリスチャンはキリストが十字架に架かって死なれ、3日後によみがえられ、今も天国で生きておられることを信じているから、明日に希望が持てるのです。この復活を信じれなければ、自分の力を信じて、自分の設定したアイドルを励みするか、どうせ死ぬんだから今を楽しく生きよう的な人生かにならざるを得ません。復活を信じないのであれば、聖書に書かれていることは、ただの道徳的な教えとしてとらえるにすぎないでしょう。キリストが経験された十字架は、本当にむごたらしい苦難と死、そして天の父なる神様ととづっと一つであった子なるイエス様がその時だけ神様と断絶され、見捨てられた時でした。それは私の罪に対する神様の怒りを代わりに受けるために必要であった、神様の救いの計画でした。このイエス様の死が、死んで終わっただけであれば、そこに喜びはなく、申し訳ないで終わってしまいます。しかしそのキリストの十字架の死が、死で終わらず、死を克服された最初の方がイエス・キリストとなられました。そしてその復活がキリストだけでなく、信じる者にも将来起こるという約束が下記の聖書に記されてあり、そこに喜びと希望があります。
 生きていれば、仕事のこと、家族のこと、人間関係のこと、病気や災害等辛いことや問題は必ずあります。しかし、それでもなお、私たちはキリストにあって、希望をもって生き続けられることは本当に感謝です。クリスチャンは日々の思い煩い、心配ごとについて、目を背けたり、他のことでごまかしてその場その場を生きる生き方ではなく、神様が何とかしてくださる、神様に任せられるという信仰をもとに希望が持つ生き方をすることができるはずです。つまり問題を神様に祈って、助けて下さい、道を開いて下さい、導きを与えて下さいと日々祈ることが出来るのです。神様は天国に行けるという先のことだけに対する希望だけでなく、明日のこと、身近な日々の問題に対する希望を与えてくださいます。イースターの主イエス・キリストにある希望を、この時期だけでなく、いつも心に覚えていきたいと願っています。

「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」第一コリント15章19-21節

*1 Bible Gateway. 検索 Hopeは旧約で97、新約で83箇所。NIV訳
*2 第一コリント人への手紙15:23 ”If I fought wild beasts in Ephesus with no more than human hopes, what have I gained? If the dead are not raised,“Let us eat and drink, for tomorrow we die.” 日本語の聖書の訳では 「希望」が「動機」 と訳されています。