Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

復元、回復、リバイバル

2020年03月24日 | 日記
 冷汗がたれました。私がいつも使用しているUSBメモリーが突然、使えなくなったのです。今迄もPCがUSBメモリスティックを認識しないことはよくおこり、差し込みなおすと機能していたのでしたが、今回はUSBの中のファイルが文字化けし、何度差し込んでも認識しないのです。あせった私は、壊れたUSBをどう復元するか調べたり、別のPCに差し込んでみたりと、数時間にわたり悪戦苦闘。この数週間、様々な大切な書類を作成していましたが、バックアップを取らず、プリントアウトもしていなかったことを悔やみ、かなり絶望的になりました。ああ神様、助けてください。。。と一言祈りながら、何度もPCに差し込んでいると、突然認識。いまだ!とファイルを新しいUSBに急いでコピーしました。今後は、初心に戻りバックアップをまめにとることに。神様、ありがとうございます!

 デジタルのファイルは技術とお金があれば復元できるかもしれませんが、一度壊れると元の状態に戻せない物はたくさんあります。人の体もケガや病気をすると、元の状態に戻るのに治療とリハビリをして、ある程度までは回復は可能です。しかし、なかなか完全に以前の状態にまで回復するのは困難です。では、壊れた心、傷ついた心はどうでしょうか。これは、身体や物を直すより難しいかもしれません。ちょっとしたことであれば、忘れてしまうことはあります。忘れるというのは、実は人の精神を正常に保つのにとても必要な機能であると言われています。もし生まれてからのすべての悲しみ、怒り、恐れを覚えていたとしたら、人の心はその記憶に耐えられないからでしょう。トラウマ、PTSDは、あまりにも衝撃的なことを経験し、忘れるという機能が働かないことによる後遺症ではないかと思います。

 クリスチャン用語で、リバイバルという言葉があります。「日本のリバイバルの為に祈る」という時、キリストを信じていない人々が信仰を新たに持つことに使っている人もいるかもしれません。しかし、リバイバルとは本来、復元、再び命を戻すという意味で、眠った状態のクリスチャンが覚醒することを表し、聖霊の働きにより大きな神様の御業がなされることに使われるものです。リバイバルがその人に起こると、熱心に伝道する様になり、それによって周りの人々が信仰に導かれ、キリストを信じるということが起こります。ですから、信じていない人は元に戻されるというより、新しく生きる命を与えられる(新生する)ので、彼らに必要なのはリバイバルではなく、キリストの福音です。リバイバルは、休眠しているクリスチャンに信じた時のイキイキとした喜びが再び与えられる、キリストの為に生きようと立ち上がる状態とでもいえましょうか。つまり、信仰とは一度洗礼をうけたら終わりではなく、信じ続ける必要があります。この世に生きている限り、信じ続けること、信仰をいつも熱く持ちつづけ、疑いもなく、神様のために生きようとするのは努力を必要とします。努力とは何かを行いをするという意味ではなく、イエス・キリストに繋がり続ける*1ことに努めるということです。

 初代の教会では、「使徒の働き」(使徒言行録)での聖書の記録を読むと、いつも大勢の人々が一度の説教でキリストを信じるという、爆発的なムーブメントが起こっています。つまり、宣教をする信徒たちが、いつもリバイブされている、霊的に覚醒している状態を保ちつづけて、その結果、信徒たちが伝える福音の言葉を通して、多くの人がキリストを信じるようになります。人が神を信じるということは、理屈や説得でもなく、聖霊の働きによらなければ起こりません。なぜなら、この世の常識や科学で考えると、宣教のことばは愚かなことに聞こえるからです*2。しかし、目に見えない聖霊がその人の心に触れると、神様の前に悔い改める心が与えられ、罪が赦されたいと願い、そのためにキリストを救い主として信じることが可能となります。その結果、喜びが与えられ、霊的に新しく生まれた状態になり、生き方が180度変えられます。

 もし、信じて洗礼を受けても、霊的に成長しておらず、未だ自分の為に生きている状態であれば、その方にはリバイバルが必要かもしれません。下記の聖書のみことばあるように、私たちが喜びを得るため、再び生かして下さる方が神様です。神様にリバイブ、回復できないものはありません。壊れてしまった心、希望のない人生を送る人の心、喜びのない辛い日々を送る人を神様は憐み、助けて下さる方だからこそ、この詩編の作者は、当時落ちるところまで落ちてしまったイスラエルの民の回復を神様に求めているのでしょう。人がもし、信仰の途上で悩んだリ、信仰上に停滞し、喜びもなく、ただ教会に行っている状態であれば、神様は必ずその人にもう一度、リバイバルを与えて下さると信じます。私も、停滞したことは何度もありましたが、そのたびに引き上げられてきました。これからも、必ず神様がみ言葉により、また様々な状況を通して私に与えられた霊を強めて下さることを信頼し、その意味で日本のリバイバルを祈り、そして多くのまだキリストをしらない人達が聖霊に触れられて、信仰に導かれるように祈りたいと思います。

「あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。 」詩編8篇6節

*1 「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」ヨハネによる福音書15章4-5節
*2 「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」コリント人への第一の手紙 1章21節

ネットによる礼拝

2020年03月18日 | 日記
 私の通う教会では、毎週水曜日午前中に教会に集り、聖書を学んで共にお祈りをしてきました。しかし、今月はコロナウイルス対策で暫くお休みとなり、個々人が家で、牧師の作成したレジュメに基づき、聖書を読んで、互いの為に、また今の状況の為に祈ることになりました。このことを自分独りで家で行うと、顔と顔を合わせて交流の時を持てる恵みの有難みを感じ、どんなに貴重な時間であるのかと改めて思わされます。

 国内外の教会は大勢集まる場所であるため、他の施設同様暫く閉鎖状態となり、ネットで礼拝の配信をしているところが多いようです。しかしネットができる環境にない人、そのような操作が困難な人々にとってはそれも利用できません。家で、一人もしくは家族と礼拝することになります。一方で、今回のことを通して、礼拝の基本的在り方が問われる時ではないかとも思います。結局、信仰とは自分と神様との間のことだからです。もちろん、信仰は本人が持ち続けるという側面と、他者と関わり、互いに愛し合うことを目指すことで信仰が成長させられるという面もあります。そうでないと独りよがりの信仰となってしまいますから、集まって、互いに仕え合うことは大切です。神様を礼拝することをまず信仰の基盤とし、他者との関係に愛が持たらされるよう、互いにキリストの教えに従うことを目指せればと願います。

しかし、基本は本人が神様に信頼を置いて神様に語り掛け(祈り)、心の中で平安な気持ちが与えられ、神様への感謝の思いが湧き、自ずと賛美の歌を口ずさむという、本人の心と思いによって礼拝がなされることだと思います。目に見えない神様との間のマンツーマン(God To Man?)の世界であっても、それを続けていくと、聖霊の働きにより神様の臨在を感じ、平和に満たされるかもしれません。いずれにしても、どこにいても、心を静め、神様と共に過ごす時間は必要です。

 今、家に独りでいる時間が与えられ、年度末の季節的な多くのことを余裕を持ってすることができ、何よりも、いつもバタバタ忙しくしている自分が、神様と静かに向き合える時間がたくさん与えられ、本当に感謝しています。特に、4月から新しい生活スタイルが始まり、今迄とはかなり変化があることを考えると、体力的にも精神的にもそれをこなしていけるだろうかという懸念もあり、その生活リズムに慣れるまで時間がかかることでしょう。しかし、イザヤ書に「あなたは全き平安をもって こころざしの堅固なものを守られる。 彼はあなたに信頼しているからである。 」*とあるように、神様が与えて下さる全き平安により心が守られるとあるので、先のことを思い煩わずに、神様より与えられた志に沿って前進していきたいと励まされました。

「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 」 ピリピの信徒への手紙4章6-7節

*イザヤ書26章3節

米寿の母のお祝い

2020年03月08日 | 日記

 母がこの4月で米寿(88歳)となるため、親族を集めてお祝いの会を開催する予定でした。しかし、ちょうどコロナウイルス感染の騒ぎで延期せざるを得ず、急遽3月初頭に妹と夫と4人だけで、一足早くお祝いをしました。折しも、天国にいる父の8周忌と重なります。母は一人暮らしですが、健康に恵まれ、教会の礼拝に喜んで通い、日々意欲的に過ごしていて、このことを本当に幸いに思い、神様に感謝しています。天国の父も、一緒に祝ってくれていたことでしょう。

 3月の頃は、私にとって何か突発的な事が起こる季節です。2011年は東北大震災が起こり、2012年は元気だった父が突然眠りながら亡くなりました。今年は、感染症の世界的アウトブレイクが起こっています。ご家族をこのウイルスの故に失った方々の上に、慰めが与えられますよう、早期に治療が開発され収束するよう、日々お祈りしています。この数週間で、多くの予定がキャンセル、延期されました。企業にとっては経済的損失は甚大です。また、多くのイベントや行事を時間をかけて準備してきた人々にとって、大きな失望感とやるせない思いが払しょくできないことでしょう。

 一方で、この空いた時間をどう生かすかという工夫と気の持ちようが問われる時ではないでしょうか。マイナスのことをマイナスにばかりとらえると、心に良くないだけでなく、他のことに対しても悲観的になります。マイナスのことの中に、プラスのことを見出すと前向きになれて、今の暗くなりそうな状況さえ楽しむことができ、そして感謝することに繋がります。私の母はいつも前向きでした。戦後10代後半で父を亡くし、5人の兄弟と母を父親代わりになって働いて養い、結婚してからも父が起業し、倒産して借金を返し、ながら私たちの教育費を出し、一生懸命働いて、傍からみると苦労の連続だったと思います。私は母が毎日3-4時間しか寝ていないのに、呟いたこと、泣き言をいったことを見たことがありません。いつもニコニコ喜んで、「大丈夫、なんとかなるわよ!」と言っていました。そして、88歳を迎えるにあたり、「ママは何も大変だったと感じたことないわよ。いつも神様が助けてくださったし。」と、母の強さ、前向きな生き方は、若い頃のキリストを信じる信仰を持ちつづけていたからでした。

 聖書に記されている約束では、恵によって信仰を与えられた人は、患難さえも喜んべるとあります。その患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出し、この希望は失望に終わることがないからだと。なぜなら、神様の愛が私たちの心にそそがれるから、神様の力で乗り越えられ、損失と思えることも益に変えられていくからです。どちらかというと悲観的で、心配性の性格の私ですが、母の信仰に倣いつつ、突発的な困難な状況の中にあっても、前向きに取り組み、喜び、感謝をその中で覚える心に変えて下さい、様々なことに忍耐する力を与えて下さいと神様に祈り求め、神様にすべて委ねていきたいと思います。
 
「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」 ローマ信徒への手紙5章1-5節