冷汗がたれました。私がいつも使用しているUSBメモリーが突然、使えなくなったのです。今迄もPCがUSBメモリスティックを認識しないことはよくおこり、差し込みなおすと機能していたのでしたが、今回はUSBの中のファイルが文字化けし、何度差し込んでも認識しないのです。あせった私は、壊れたUSBをどう復元するか調べたり、別のPCに差し込んでみたりと、数時間にわたり悪戦苦闘。この数週間、様々な大切な書類を作成していましたが、バックアップを取らず、プリントアウトもしていなかったことを悔やみ、かなり絶望的になりました。ああ神様、助けてください。。。と一言祈りながら、何度もPCに差し込んでいると、突然認識。いまだ!とファイルを新しいUSBに急いでコピーしました。今後は、初心に戻りバックアップをまめにとることに。神様、ありがとうございます!
デジタルのファイルは技術とお金があれば復元できるかもしれませんが、一度壊れると元の状態に戻せない物はたくさんあります。人の体もケガや病気をすると、元の状態に戻るのに治療とリハビリをして、ある程度までは回復は可能です。しかし、なかなか完全に以前の状態にまで回復するのは困難です。では、壊れた心、傷ついた心はどうでしょうか。これは、身体や物を直すより難しいかもしれません。ちょっとしたことであれば、忘れてしまうことはあります。忘れるというのは、実は人の精神を正常に保つのにとても必要な機能であると言われています。もし生まれてからのすべての悲しみ、怒り、恐れを覚えていたとしたら、人の心はその記憶に耐えられないからでしょう。トラウマ、PTSDは、あまりにも衝撃的なことを経験し、忘れるという機能が働かないことによる後遺症ではないかと思います。
クリスチャン用語で、リバイバルという言葉があります。「日本のリバイバルの為に祈る」という時、キリストを信じていない人々が信仰を新たに持つことに使っている人もいるかもしれません。しかし、リバイバルとは本来、復元、再び命を戻すという意味で、眠った状態のクリスチャンが覚醒することを表し、聖霊の働きにより大きな神様の御業がなされることに使われるものです。リバイバルがその人に起こると、熱心に伝道する様になり、それによって周りの人々が信仰に導かれ、キリストを信じるということが起こります。ですから、信じていない人は元に戻されるというより、新しく生きる命を与えられる(新生する)ので、彼らに必要なのはリバイバルではなく、キリストの福音です。リバイバルは、休眠しているクリスチャンに信じた時のイキイキとした喜びが再び与えられる、キリストの為に生きようと立ち上がる状態とでもいえましょうか。つまり、信仰とは一度洗礼をうけたら終わりではなく、信じ続ける必要があります。この世に生きている限り、信じ続けること、信仰をいつも熱く持ちつづけ、疑いもなく、神様のために生きようとするのは努力を必要とします。努力とは何かを行いをするという意味ではなく、イエス・キリストに繋がり続ける*1ことに努めるということです。
初代の教会では、「使徒の働き」(使徒言行録)での聖書の記録を読むと、いつも大勢の人々が一度の説教でキリストを信じるという、爆発的なムーブメントが起こっています。つまり、宣教をする信徒たちが、いつもリバイブされている、霊的に覚醒している状態を保ちつづけて、その結果、信徒たちが伝える福音の言葉を通して、多くの人がキリストを信じるようになります。人が神を信じるということは、理屈や説得でもなく、聖霊の働きによらなければ起こりません。なぜなら、この世の常識や科学で考えると、宣教のことばは愚かなことに聞こえるからです*2。しかし、目に見えない聖霊がその人の心に触れると、神様の前に悔い改める心が与えられ、罪が赦されたいと願い、そのためにキリストを救い主として信じることが可能となります。その結果、喜びが与えられ、霊的に新しく生まれた状態になり、生き方が180度変えられます。
もし、信じて洗礼を受けても、霊的に成長しておらず、未だ自分の為に生きている状態であれば、その方にはリバイバルが必要かもしれません。下記の聖書のみことばあるように、私たちが喜びを得るため、再び生かして下さる方が神様です。神様にリバイブ、回復できないものはありません。壊れてしまった心、希望のない人生を送る人の心、喜びのない辛い日々を送る人を神様は憐み、助けて下さる方だからこそ、この詩編の作者は、当時落ちるところまで落ちてしまったイスラエルの民の回復を神様に求めているのでしょう。人がもし、信仰の途上で悩んだリ、信仰上に停滞し、喜びもなく、ただ教会に行っている状態であれば、神様は必ずその人にもう一度、リバイバルを与えて下さると信じます。私も、停滞したことは何度もありましたが、そのたびに引き上げられてきました。これからも、必ず神様がみ言葉により、また様々な状況を通して私に与えられた霊を強めて下さることを信頼し、その意味で日本のリバイバルを祈り、そして多くのまだキリストをしらない人達が聖霊に触れられて、信仰に導かれるように祈りたいと思います。
「あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。 」詩編8篇6節
*1 「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」ヨハネによる福音書15章4-5節
*2 「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」コリント人への第一の手紙 1章21節
デジタルのファイルは技術とお金があれば復元できるかもしれませんが、一度壊れると元の状態に戻せない物はたくさんあります。人の体もケガや病気をすると、元の状態に戻るのに治療とリハビリをして、ある程度までは回復は可能です。しかし、なかなか完全に以前の状態にまで回復するのは困難です。では、壊れた心、傷ついた心はどうでしょうか。これは、身体や物を直すより難しいかもしれません。ちょっとしたことであれば、忘れてしまうことはあります。忘れるというのは、実は人の精神を正常に保つのにとても必要な機能であると言われています。もし生まれてからのすべての悲しみ、怒り、恐れを覚えていたとしたら、人の心はその記憶に耐えられないからでしょう。トラウマ、PTSDは、あまりにも衝撃的なことを経験し、忘れるという機能が働かないことによる後遺症ではないかと思います。
クリスチャン用語で、リバイバルという言葉があります。「日本のリバイバルの為に祈る」という時、キリストを信じていない人々が信仰を新たに持つことに使っている人もいるかもしれません。しかし、リバイバルとは本来、復元、再び命を戻すという意味で、眠った状態のクリスチャンが覚醒することを表し、聖霊の働きにより大きな神様の御業がなされることに使われるものです。リバイバルがその人に起こると、熱心に伝道する様になり、それによって周りの人々が信仰に導かれ、キリストを信じるということが起こります。ですから、信じていない人は元に戻されるというより、新しく生きる命を与えられる(新生する)ので、彼らに必要なのはリバイバルではなく、キリストの福音です。リバイバルは、休眠しているクリスチャンに信じた時のイキイキとした喜びが再び与えられる、キリストの為に生きようと立ち上がる状態とでもいえましょうか。つまり、信仰とは一度洗礼をうけたら終わりではなく、信じ続ける必要があります。この世に生きている限り、信じ続けること、信仰をいつも熱く持ちつづけ、疑いもなく、神様のために生きようとするのは努力を必要とします。努力とは何かを行いをするという意味ではなく、イエス・キリストに繋がり続ける*1ことに努めるということです。
初代の教会では、「使徒の働き」(使徒言行録)での聖書の記録を読むと、いつも大勢の人々が一度の説教でキリストを信じるという、爆発的なムーブメントが起こっています。つまり、宣教をする信徒たちが、いつもリバイブされている、霊的に覚醒している状態を保ちつづけて、その結果、信徒たちが伝える福音の言葉を通して、多くの人がキリストを信じるようになります。人が神を信じるということは、理屈や説得でもなく、聖霊の働きによらなければ起こりません。なぜなら、この世の常識や科学で考えると、宣教のことばは愚かなことに聞こえるからです*2。しかし、目に見えない聖霊がその人の心に触れると、神様の前に悔い改める心が与えられ、罪が赦されたいと願い、そのためにキリストを救い主として信じることが可能となります。その結果、喜びが与えられ、霊的に新しく生まれた状態になり、生き方が180度変えられます。
もし、信じて洗礼を受けても、霊的に成長しておらず、未だ自分の為に生きている状態であれば、その方にはリバイバルが必要かもしれません。下記の聖書のみことばあるように、私たちが喜びを得るため、再び生かして下さる方が神様です。神様にリバイブ、回復できないものはありません。壊れてしまった心、希望のない人生を送る人の心、喜びのない辛い日々を送る人を神様は憐み、助けて下さる方だからこそ、この詩編の作者は、当時落ちるところまで落ちてしまったイスラエルの民の回復を神様に求めているのでしょう。人がもし、信仰の途上で悩んだリ、信仰上に停滞し、喜びもなく、ただ教会に行っている状態であれば、神様は必ずその人にもう一度、リバイバルを与えて下さると信じます。私も、停滞したことは何度もありましたが、そのたびに引き上げられてきました。これからも、必ず神様がみ言葉により、また様々な状況を通して私に与えられた霊を強めて下さることを信頼し、その意味で日本のリバイバルを祈り、そして多くのまだキリストをしらない人達が聖霊に触れられて、信仰に導かれるように祈りたいと思います。
「あなたの民が、あなたによって喜びを得るため、われらを再び生かされないのですか。 」詩編8篇6節
*1 「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」ヨハネによる福音書15章4-5節
*2 「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」コリント人への第一の手紙 1章21節