Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

益子町にある小さな教会

2019年09月27日 | 日記
 私の夫は、栃木県内の同じ教派の中で人数的に一番大きい教会(西那須野)の副牧師と、一番小さい教会(益子)の主任牧師の二つを牧会しています*1。この二つの教会が地理的に離れているため、どうしても片方に在住し、そこでの働きが主になってしまい、両立が難しいのが現実です。益子教会は、以前は信徒がいましたが、高齢化などで次世代が続かず、夫がそこへ就任する以前から建物だけあっても信徒も専任牧師も不在の状態でした。現在は私たち夫婦と他教会の信徒の方数名とで、土曜日に礼拝だけを行い、日曜日の西那須野教会の礼拝のためにとんぼ返りをしている状況です。一方、陰で多くの方が益子のために祈り、献金してきて下さり、ご自分達の教会の働きがあるのに関わらず、土曜日に礼拝に来てお昼を毎週作ってきてくださる方などに支えられています。つまり信徒数という目に見える人数では測れない、多くの方々の働きによって、この小さな益子教会が支えられているのは、奇跡であり、神様の恵だと思います。これが法人や団体だったら、当の昔に合併されていることでしょう。

キリスト教の教会では、各自が様々な働きを分担して教会が運営されています。各々の能力、才能の応じて、事務的な仕事、運営管理、広報、礼拝での奏楽、聖歌隊、受付、バイリンガル礼拝のあるところは通訳等、たくさんの奉仕があります。人数が少ない教会では、一人の人が何役もこなさなければならず忙しいですが、大概、それなりにアットホームな教会として和気あいあいとやっているところもあるでしょう。一方、規模の大きい教会ですと、牧師もしくは役員会をトップにした組織が形成され、まるで企業のように見えるかもしれません。しかし、教会と企業やNGOなど世の中の集合体とは根本的に異なる点がいくつかあります。

一番の大きな違いは、教会は目に見えない、イエス・キリストを中心として稼働していて、目に見えない神の霊(聖霊)の導きに従って教会は何事でも決断したり、活動していることで、教会活動の中心は神様への礼拝です。また教会は建物ではなく、キリストを信じる人の集合体であり、教会堂は確かに場所的に礼拝の場、祈りの場ですが、たとえ教会堂でなくとも、どこでも地上で二人または三人、キリストの名に集まって、どんな願い事であれ、心を一つにして求めるなら、天の父はそれをかなえてくださるし、その集まるところには、キリストもその中にいると、キリストは言われています。*2そして、教会の中で、一人一人の信仰に応じて、奉仕の役割が与えられ、皆で協力して、互いに助け合い、意見の違いがあっても理解し合い、忍耐しあって、全て神様のために行うのが本来の教会の麗しい在り方でしょう。しかし、現実はなかなかそう麗しくいかず、問題があるから、教会が歴史的に国家権力と一緒になり悲しい戦争を起こして来たのも事実ですし、また聖書理解の違いなどから教派が分裂しと、キリスト教の教会全体が一致できていないのが現状です。一番悲しんでいるのは、キリストだと思います。なぜならご自分の体の中で、あたかも免疫疾患のように、免疫系が自己の細胞を異物として攻撃してしまうかのようなだからです。

教会はキリストの体だと使徒パウロは例えています。*3人間の体はたくさんの器官から成り立ち、それぞれが異なる役割を持ち、人が生きるために一つの体として機能していて、その司令塔は脳です。よって、キリストがその体である教会の頭だと例えています。*4また、目は手にむかって、「おまえはいらない」とは 言えないように、教会もキリストという司令塔に従って、それぞれの信徒が働き、互いに必要で、一つの体です。ですから、皆が同じ機能を持つわけではないし、神様がそのために各々に才能や霊的な賜物(ギフト)を与えています。たとえある人が、目に目える活動をしてないとしても、不必要な器官が体にないように、その人は実は大事な役割をしているのです。人間側がどう組織しようとも、規則を作ろうとも、キリストにとって、全ての教会がキリストの体として一つになってほしいと願われ、そのように天の神様にイエス・キリストが祈っています。*5

益子教会は小さな弱い教会ですが、この教会がキリストの体として、いつか礼拝に多くの人が参加するようになり、皆で喜んで賛美を歌い礼拝を捧げる場となる、礼拝がない日でもあの場所にいったら、楽しくお茶とお菓子をつまみながら和める場所、信仰をもっていなくても、自分の居場所として来てくれる方が集う、そのような地域に開かれた教会になれば。。。このような将来のビジョンをキリストにあって持ち、今出来る事を祈って準備していきたいと、夫と話しています。必ず、神様がここに集う人を送って下さると信じて。
☆益子教会HP: https://mashikochurch.localinfo.jp/

「このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。 」ローマ人への手紙12章6-8節


*1 日本基督教団というキリスト教の教派の中での、教会員数において。
*2 「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 マタイによる福音書18章19〜20節
*3 「ちょうど、体がひとつでも、それに多くの部分があり、体の部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストのそれと同様です。」第一コリント人への手紙12章12節 
*4「そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 」 エペソ人への手紙1章22-23節
*5「わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」 ヨハネによる福音書17章20-21節 (聖書引用、口語訳聖書)

「ちっちゃいこえ」:「原爆の図」よりアメリカ人が作った紙芝居

2019年09月18日 | 日記
 日本が受けた原爆の被害を次の世代に伝える方法はたくさんあります。一つ一つの媒体があまりにも衝撃的で、それらを見る度私は嗚咽と涙を隠せません。戦争や原爆の被害という目を覆いたくなるような事実を伝えることは、これらが二度とあってはならないということを伝えることです。このことを次の世代、小さい子どもたちへ、どの媒体で伝えたらよいかと考えていると、紙芝居という方法に出逢えました。先日、「ちっちゃいこえ」*1という「原爆の図」*2の絵を用いた紙芝居を原爆の図 丸木美術館を訪れた時に折しも手に入れることができました。表紙は猫の絵。ちっちゃいこえとは、細胞が出している命のひびき。あの日、広島の生き物すべてにふりかかったことを題材にしています。

 この紙芝居の作成者(脚本家)がアメリカ人の詩人というのも興味深かったのです。今回教会の研修会で訪れた丸木美術館では、私は消化しきれない程多くのことを知り、またその絵が訴えるメッセージ性の強さに圧倒されました。 丸木夫妻の描いた原爆の図には、現実の丸焦げの死体やケロイドを負った人々が描かれていません。むしろ、裸体の子供・大人が綺麗に描かれています。ただ、かれらの目と、全体的な構図が、嘆き、苦しみ、絶望、生と死を訴えていて、ある意味絵画という表現の方が、リアルな写真よりも深く考えさせる手法ではと思わされます。原爆というテーマだけにとどまらず、歴史上の人間のしてきたことの酷さを描くことを通して、芸術家丸木夫妻は、命の大切さを表現したかったのだろうと、その学芸員の方が解説されていました。

 被害者と加害者。私は、原爆の図を通して、この二つをどちらかの国に当てはめることが実はできないという事実、くっきり分けられない局面があることを認識しました。誰が悪い、良いという議論ではなく、この原爆自体が、虐殺が、戦争が、人としてあってはならないことだと捉える必要があります。しかし、歴史は繰り返します。人間という生き物の罪深さを思い知らされます。その罪から抜け出せないのは、神を畏れないことが根本的原因であると私は信じます。多くの人は神の存在を否定し、もしくは人間に都合よい偶像の神々を気休めに作って利用し、人間中心の世界に生きているのではないでしょうか。聖書によると、人はもともとは神の形に似せて作られた良い被造物でした*3。しかし、最初の人間が神から離れ、罪の性質がもたらされ、その後の人類は全て生まれながらにして、その性質:原罪を持ち、よって自分中心にしか考えられない者、神を信じない者になってしまったのです。*4

 しかし神様はそこで終わらせません。最初の人間が犯した失敗を、最後の人間として神様から送られた神の子である、キリストが、全てを回復するためにこの世に来られたのです。キリストは、全ての人がその罪から解放され、救われるために、人類全ての罪の罰を十字架上の死を持って代わりに負われました。そして、3日後に復活され、天の神様のところに戻られ、今も私たち一人一人のことを観て下さり祈りを聞いて下さいます。そして、神様は私たちの地上での新しい歩みを助けるために、聖霊という神の霊を信じる者一人一人に与えて下さりました。

 私は以前、自分を含めた人間の限界や悪、繰り返す戦争、命が軽んじられるという不条理な事件に出会う度、ただ心を痛め、怒り、やるせない思いでいました。親がクリスチャンでしたので、小さい時に良いこととして聖書の知識を与えられましたが、自分の深いところにある罪を自分の力で治めることが出来ませんでした。自分の力や教育、訓練だけでは良い人間になれないこと、したいと思うことをできない、したくないことをしてしまう、そんな情けない自分に絶望していたものです。そしてどうしたらよいのか悩み、紆余曲折して、やっと大人になって、この自分の罪の性質から救うのはキリストしかいないと、キリストを信じる信仰に導かれたのです。それ以来、くり返し起こる悲しい事件に対して、単にやるせない思いにとどまらず、もしくは恐れて逃げる、耳をふさぐのではなく、神様がいつかこのことを正義と公平を持って扱って下さると神様に委ねています。これは、全ては神様にあって解決方法・摂理があるという希望を持つ事ができるように変えられたからであり、本当に感謝なことです。このキリストに在る平和が個々人の内側に与えられるよう祈りたいと思います。また、自分自身の内側から罪が出てきた時に、神様の前にその都度持って行き、ごめんなさいと告白して赦しを頂き、聖霊の導きにより、日々主と共に歩んでいきたいと願います。

「主(イエス・キリスト)は、わたしたちの罪過のために死に渡され、わたしたちが義とされるために、よみがえらされたのである。このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。」 ローマ人への手紙4章25節~5章2節、()は筆者の追記

*1 「ちっちゃいこえ」いのちのひびきに耳をすます紙芝居 脚本 アーサー・ビナード、絵 丸木俊・丸木位里 「原爆の図」より
*2 丸木位里・丸木俊 「原爆の図」シリーズ、原爆の図 丸木美術館所蔵、埼玉県東松山市
*3 「神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。 」創世記1章26、31節
*4「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。 」ローマ人への手紙5章12節
(引用、口語訳聖書)

差し出された手:中毒・依存からの解放

2019年09月15日 | 日記
 先日テレビで、ある医師の方の活動について観ました。その方は、ご自分のお母さんが薬物依存で苦しんでいたのを見て、ご自分はそういう様々な依存症、中毒に苦しんでいる人々に寄り添いたいという思いで医者になったこと、様々な医師としての経験を経て、現在は刑務所での矯正医療(受刑者を観る医師)として働かれているそうです。その方が依存症の治療について、こんなことをおっしゃっていました。「人が海で溺れそうになっていて、浮き輪にしがみついているとします。その浮き輪を他者が取ろうとしたら、その人はどうすると思いますか?その人は、余計その浮き輪を離さないでしがみつくでしょう。これは、何かに依存している人の状態です。しかし、もし他者がその浮き輪を取理上げると同時に、手を差し伸べ、これに捕まれば大丈夫なんだという、安心感を徐々に与えていけば、依存しているものを手放せるようになるでしょう。」では、その手とは何(誰)でしょうか。

 この話を、後日私の友人で、彼女のお孫さんが家に引きこもり、ゲームを一日中していて、家族にも心を開かないという方にしました。彼女は、お孫さんの為に多くの引きこもりについての講演やセミナーに通い、お嫁さん(孫の母)にその話を伝えようとしますが、なかなか進展がないそうです。そして、半ばあきらめた調子で、「そういう話は、すでに聞いています。その依存しているものに、とって代わる良い物を本人が見つけられないから困っているんですよ」と。このように多くの方がなかなか、「その手」を差し出されても、握れないでいるから、その状態から脱出できないのではないでしょうか。その家族も苦しい思いをしています。

 イエス・キリストは捕らわれた者を解放し、目が見えない人を見えるようにし、落胆している人に自由を得させ、神様の恵がきたことを知らせるために、この地上に遣わされたのだと、ご自分のミッションを述べられています*。これは物理的な状態だけでなく、精神的に何かに縛られ、盲目的にされ、希望がない、辛い思いをしている人々を神様の恵により自由にしようという意味でもあります。まさに
、何かの依存・中毒から抜け出せない人、人や何かを恐れ内に閉じこもってしまっている人に、イエスは手を差し伸べて、「大丈夫だよ、私に頼りなさい、自由になれるから」と言われている様子が、聖書に約束されているのです。

 神様は愛するために、大切な存在として一人一人を創られたので、人が捕らわれて苦しんでいる状態を見て心を痛めておられ、なんとか救いたいと手を日々差し伸べています。宗教はお金を要求するかもしれませんが、本当の神は何も要求しません、すでに豊かで全能だから、人から何かしてもらう必要がないからです。一つだけ人に求めていることは、その神様の愛に応答する事、差し出す手を握ることです。人が差し出す手には限界があります。もちろん、神様は他の人を使って、様々な方法を使って、間接的にその人が捕らわれた状態から脱出するきっかけを与えて下さるでしょう。しかし、根本的にその人の心の飢え渇きを、ぽっかり空いた穴を埋めることができるのは、中毒の代替物となりうる、趣味、善行、仕事、ボランティアそのものではなく、人知を超えた神様の豊かな愛、慰め、赦し、希望であると信じます。

 それを受け取るには、まず、キリストのところに行くこと。そして、自分は存在しているだけで神様の目には大切なことを知り、そのままの自分で行っても受け止めてくれるキリストの存在を信じていく。そして徐々に、自分は神様から離れ、自分中心に生きていたことを認め、神様の愛を知ることで、自分は自分の為に生きているのではないことを知って行く、すると、自ずと自分の抱えている問題(重荷)をキリストに祈って相談し、委ねていけるようになるでしょう。さらに大切なことは、今迄の自己中心の人生(聖書ではそれを罪といいます)を悔い改め、キリストから学んでいくことです。キリストという愛に満ちた方から、その品性、考え方、生き方を聖書を通して知って行く。そうすれば、自分のことばかり考え、何かを恐れ、それから目を背ける為に依存していたものから解放されている、変えられている自分に気づきます。

 キリストのところには、そのまま(ありのまま)で行ってよいのです。しかし、キリストを信頼し、その愛を受け取れるようになると、心が変えられていくので、づっと「そのまま」ではないのです。必ず、変えられます。何かに捕らわれて苦しんでいた状態から、キリストの愛に包まれて喜びがある人生へと。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」 マタイによる福音書11章28-29節

*「主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」ルカによる福音書4章18節
(引用、口語訳聖書)

自問自答が宣言に変えられる時

2019年09月02日 | 日記
 先週、一泊二日で湯河原という温泉がある街へ行った時のことです。その夜から大雨が降り続け、ホテルの傍の小さな川の水位があっという間に上がり、流木を含む濁流へと変貌、このまま溢れてしまうのではと恐れを感じました。翌日もこの雨は降り続け、帰りの電車に乗る際、この嵐で電車が止まるのではと思った程です。そして、無事に帰宅し夜のニュースを見ますと、この大雨で佐賀県の家々が浸水している映像が報道されていて、驚きました。被災された方々の苦悩を思い心が痛みます。災害大国、日本と言われる程、近年何十年に一度しか起きなかった災害が毎年のように起きているので、次は自分の住む地域に起こってもおかしくはありません。

 今日の聖書の箇所は、著者が現在の境遇を嘆き、神様に訴えている詩が祈りとなっているところです。この著者は、紀元前6世紀頃、自国(イスラエル)が他国(バビロニア帝国)に侵略され、バビロニア地方へ捕虜として連行され、 移住させられていました。彼らの元住んでいた街、エルサレムにあった神殿も含み、全てが破壊され、異国の地で捕囚の民として嘲られ、辛い日々を送っていたのです。しかし、イスラエルの民は、その嘆きを神様への祈りとして詩に記したので、詩編という形で聖書に残されています。

 詩編42編から43編は、もともとは一つの詩で、3つの部分に分かれているそうです。各区切りが、下記の「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。…」で終わっています。3回同じフレーズが歌われていますが、この語調がその文脈で変化していきます。最初は、過去の良かった時代を思い出し、現状を憂い、自問自答的に、自分の魂に呟くような語調です。しかし、2回目、3回目と前向きに変えられていき、最後の「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。」は、神様が助けくれるから大丈夫だと確信をもって宣言するかのような、神様への賛美になっています。

 これは、著者が神様に祈っている間に希望が与えられたことによります。その希望とは、「あなたの光とまこととを送ってわたしを導き」(3節)とあるように、神様の光とまことがあれば、自分はこの状況を乗り越えられる、自分の力には限界があり、状況も変わらない、先行きが不透明であっても、神様の光とまことが自分を平安に導き、助け出されるという信仰が与えられ、希望がもてたのだと思います。その光とまこととは?イエス・キリストのことです。この祈りが記されてから数百年後、キリストは光として、まこと(真理)としてこの世に来られたからです*。それは、全ての人々を暗闇から光へ導くため、また当時の哲学者達を通しても、時代によってかわらない真理などないと語られ、絶望と諦めしかない状況に、変わらない真理として神の救いの福音をもたらすために来られました。この筆者は、この光と真理が、いつ来るのか、またどのように来るのか明確に示されていなくても、神様の霊によって示されてこの詩を書くように導かれたのだと信じます。

 どの時代でも、どの国でも、様々な環境により、苦難に会っている人々はうめいています。今、日本でも。その方々に必要な助けが与えられますように、そしてその支援は目に見える者を通して与えられるのですが、その背後に働かれている神様の光とまことを見出し、希望を持ってほしいと、願いつつ、特に今困難な状況にある人の為に祈っています。

「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしは なおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」 詩編43編5節

* 「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。 」ヨハネ福音書12章46節、「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。 』」ヨハネ福音書14章6節

(引用、口語訳聖書)