私の夫は、栃木県内の同じ教派の中で人数的に一番大きい教会(西那須野)の副牧師と、一番小さい教会(益子)の主任牧師の二つを牧会しています*1。この二つの教会が地理的に離れているため、どうしても片方に在住し、そこでの働きが主になってしまい、両立が難しいのが現実です。益子教会は、以前は信徒がいましたが、高齢化などで次世代が続かず、夫がそこへ就任する以前から建物だけあっても信徒も専任牧師も不在の状態でした。現在は私たち夫婦と他教会の信徒の方数名とで、土曜日に礼拝だけを行い、日曜日の西那須野教会の礼拝のためにとんぼ返りをしている状況です。一方、陰で多くの方が益子のために祈り、献金してきて下さり、ご自分達の教会の働きがあるのに関わらず、土曜日に礼拝に来てお昼を毎週作ってきてくださる方などに支えられています。つまり信徒数という目に見える人数では測れない、多くの方々の働きによって、この小さな益子教会が支えられているのは、奇跡であり、神様の恵だと思います。これが法人や団体だったら、当の昔に合併されていることでしょう。
キリスト教の教会では、各自が様々な働きを分担して教会が運営されています。各々の能力、才能の応じて、事務的な仕事、運営管理、広報、礼拝での奏楽、聖歌隊、受付、バイリンガル礼拝のあるところは通訳等、たくさんの奉仕があります。人数が少ない教会では、一人の人が何役もこなさなければならず忙しいですが、大概、それなりにアットホームな教会として和気あいあいとやっているところもあるでしょう。一方、規模の大きい教会ですと、牧師もしくは役員会をトップにした組織が形成され、まるで企業のように見えるかもしれません。しかし、教会と企業やNGOなど世の中の集合体とは根本的に異なる点がいくつかあります。
一番の大きな違いは、教会は目に見えない、イエス・キリストを中心として稼働していて、目に見えない神の霊(聖霊)の導きに従って教会は何事でも決断したり、活動していることで、教会活動の中心は神様への礼拝です。また教会は建物ではなく、キリストを信じる人の集合体であり、教会堂は確かに場所的に礼拝の場、祈りの場ですが、たとえ教会堂でなくとも、どこでも地上で二人または三人、キリストの名に集まって、どんな願い事であれ、心を一つにして求めるなら、天の父はそれをかなえてくださるし、その集まるところには、キリストもその中にいると、キリストは言われています。*2そして、教会の中で、一人一人の信仰に応じて、奉仕の役割が与えられ、皆で協力して、互いに助け合い、意見の違いがあっても理解し合い、忍耐しあって、全て神様のために行うのが本来の教会の麗しい在り方でしょう。しかし、現実はなかなかそう麗しくいかず、問題があるから、教会が歴史的に国家権力と一緒になり悲しい戦争を起こして来たのも事実ですし、また聖書理解の違いなどから教派が分裂しと、キリスト教の教会全体が一致できていないのが現状です。一番悲しんでいるのは、キリストだと思います。なぜならご自分の体の中で、あたかも免疫疾患のように、免疫系が自己の細胞を異物として攻撃してしまうかのようなだからです。
教会はキリストの体だと使徒パウロは例えています。*3人間の体はたくさんの器官から成り立ち、それぞれが異なる役割を持ち、人が生きるために一つの体として機能していて、その司令塔は脳です。よって、キリストがその体である教会の頭だと例えています。*4また、目は手にむかって、「おまえはいらない」とは 言えないように、教会もキリストという司令塔に従って、それぞれの信徒が働き、互いに必要で、一つの体です。ですから、皆が同じ機能を持つわけではないし、神様がそのために各々に才能や霊的な賜物(ギフト)を与えています。たとえある人が、目に目える活動をしてないとしても、不必要な器官が体にないように、その人は実は大事な役割をしているのです。人間側がどう組織しようとも、規則を作ろうとも、キリストにとって、全ての教会がキリストの体として一つになってほしいと願われ、そのように天の神様にイエス・キリストが祈っています。*5
益子教会は小さな弱い教会ですが、この教会がキリストの体として、いつか礼拝に多くの人が参加するようになり、皆で喜んで賛美を歌い礼拝を捧げる場となる、礼拝がない日でもあの場所にいったら、楽しくお茶とお菓子をつまみながら和める場所、信仰をもっていなくても、自分の居場所として来てくれる方が集う、そのような地域に開かれた教会になれば。。。このような将来のビジョンをキリストにあって持ち、今出来る事を祈って準備していきたいと、夫と話しています。必ず、神様がここに集う人を送って下さると信じて。
☆益子教会HP: https://mashikochurch.localinfo.jp/
「このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。 」ローマ人への手紙12章6-8節
*1 日本基督教団というキリスト教の教派の中での、教会員数において。
*2 「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 マタイによる福音書18章19〜20節
*3 「ちょうど、体がひとつでも、それに多くの部分があり、体の部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストのそれと同様です。」第一コリント人への手紙12章12節
*4「そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 」 エペソ人への手紙1章22-23節
*5「わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」 ヨハネによる福音書17章20-21節 (聖書引用、口語訳聖書)
キリスト教の教会では、各自が様々な働きを分担して教会が運営されています。各々の能力、才能の応じて、事務的な仕事、運営管理、広報、礼拝での奏楽、聖歌隊、受付、バイリンガル礼拝のあるところは通訳等、たくさんの奉仕があります。人数が少ない教会では、一人の人が何役もこなさなければならず忙しいですが、大概、それなりにアットホームな教会として和気あいあいとやっているところもあるでしょう。一方、規模の大きい教会ですと、牧師もしくは役員会をトップにした組織が形成され、まるで企業のように見えるかもしれません。しかし、教会と企業やNGOなど世の中の集合体とは根本的に異なる点がいくつかあります。
一番の大きな違いは、教会は目に見えない、イエス・キリストを中心として稼働していて、目に見えない神の霊(聖霊)の導きに従って教会は何事でも決断したり、活動していることで、教会活動の中心は神様への礼拝です。また教会は建物ではなく、キリストを信じる人の集合体であり、教会堂は確かに場所的に礼拝の場、祈りの場ですが、たとえ教会堂でなくとも、どこでも地上で二人または三人、キリストの名に集まって、どんな願い事であれ、心を一つにして求めるなら、天の父はそれをかなえてくださるし、その集まるところには、キリストもその中にいると、キリストは言われています。*2そして、教会の中で、一人一人の信仰に応じて、奉仕の役割が与えられ、皆で協力して、互いに助け合い、意見の違いがあっても理解し合い、忍耐しあって、全て神様のために行うのが本来の教会の麗しい在り方でしょう。しかし、現実はなかなかそう麗しくいかず、問題があるから、教会が歴史的に国家権力と一緒になり悲しい戦争を起こして来たのも事実ですし、また聖書理解の違いなどから教派が分裂しと、キリスト教の教会全体が一致できていないのが現状です。一番悲しんでいるのは、キリストだと思います。なぜならご自分の体の中で、あたかも免疫疾患のように、免疫系が自己の細胞を異物として攻撃してしまうかのようなだからです。
教会はキリストの体だと使徒パウロは例えています。*3人間の体はたくさんの器官から成り立ち、それぞれが異なる役割を持ち、人が生きるために一つの体として機能していて、その司令塔は脳です。よって、キリストがその体である教会の頭だと例えています。*4また、目は手にむかって、「おまえはいらない」とは 言えないように、教会もキリストという司令塔に従って、それぞれの信徒が働き、互いに必要で、一つの体です。ですから、皆が同じ機能を持つわけではないし、神様がそのために各々に才能や霊的な賜物(ギフト)を与えています。たとえある人が、目に目える活動をしてないとしても、不必要な器官が体にないように、その人は実は大事な役割をしているのです。人間側がどう組織しようとも、規則を作ろうとも、キリストにとって、全ての教会がキリストの体として一つになってほしいと願われ、そのように天の神様にイエス・キリストが祈っています。*5
益子教会は小さな弱い教会ですが、この教会がキリストの体として、いつか礼拝に多くの人が参加するようになり、皆で喜んで賛美を歌い礼拝を捧げる場となる、礼拝がない日でもあの場所にいったら、楽しくお茶とお菓子をつまみながら和める場所、信仰をもっていなくても、自分の居場所として来てくれる方が集う、そのような地域に開かれた教会になれば。。。このような将来のビジョンをキリストにあって持ち、今出来る事を祈って準備していきたいと、夫と話しています。必ず、神様がここに集う人を送って下さると信じて。
☆益子教会HP: https://mashikochurch.localinfo.jp/
「このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。 」ローマ人への手紙12章6-8節
*1 日本基督教団というキリスト教の教派の中での、教会員数において。
*2 「また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 マタイによる福音書18章19〜20節
*3 「ちょうど、体がひとつでも、それに多くの部分があり、体の部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストのそれと同様です。」第一コリント人への手紙12章12節
*4「そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 」 エペソ人への手紙1章22-23節
*5「わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。」 ヨハネによる福音書17章20-21節 (聖書引用、口語訳聖書)