Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

権利の主張

2021年03月21日 | 日記
権利の主張

 権利。もともと権利という概念はどこから来たのか、ふと考えてみました。私は哲学者ではないし、知識もないので専門的なことは考えられません。単純に思ったことは、権利というのは例えば人の命や生活がないがしろにされている状態が生じ、それから人を守るために生まれた概念だと思います。ですから、もし生活している環境に何の脅かされる要因がなければ、生まれてこない発想ではないかと。権利の主張は、歴史的に人が人を虐げる、命を大切にしない社会の構造に対して、例えば政治家、雇用主、もしくは立場的に人を支配してしまう者に対抗する、法的な根拠として発達してきたのだと思います。一方、いざ権利が確立されると、今度はそれを乱用したり、必要以上に振りかざす者がでてくるという皮肉な状況も生まれます。全て、人の自己中心的な思いが根本にあるかもしれませんが、これが世の中というものでしょうか。

 神様は人や自然界を創造された時、全てが良かったと言われたと聖書に記されています*1。それが人の罪により、悪いものへと変わってしまい、人の集合体である世の中全体に及び、今日に至っています。もちろん、感謝なことに人にも自然にも全てが失われたわけではなく、良い部分も残っています。しかし初めに神様が創造された世界においては、人権の主張をする必要がない程、人間同士も、人間と自然との関係も調和していて平和だったのです。「互に愛し合いなさい」*2というイエス様が弟子達に言われたことばがあります。もし、これが出来ていれば、人を虐げたり、争ったり、妬んだりしないので、権利の主張をしなくとも平和に暮らせるのではないでしょうか。つまり権利とは、神様の存在を抜きにして、人間の力で暴力や虐待、争いから人を守るためのものと私は思うのです。

 クリスチャンにとって、人権の主張がいつのまにか、神様の創られたもともとの秩序や概念より優先してしまう、つまり人道主義(ヒューマニズム)、人間中心にとって代わってしまう場合があります。一方で、「聖書にこう書いてあるのだから、それはいけない!」と、他者を糾弾しがちでもあります。しかし、一体誰が、聖書の言葉を全ての状況へ正しく適用することが出来るのでしょうか。神様の想いに従って歩もうとすれば、他者を裁くべきではないと思います。裁くことができるお方は神様だけであり、私たちは相手を裁くのではなく愛する、これが神様の御心だからです。また、神様の愛は情け深く、憐み深い面だけでなく、厳しい面もあります。愛を持って相手に助言をすることは裁くことではないのですが、言い方やタイミングが難しく、言われた側は裁かれたと思うかもしれません。いずれの側にしても、感情的に捕らわれるのではなく、神様の視点からするとどうなのだろうと、冷静に自分自身をみ言葉と照らし合わせ、見つめ直す必要があると思います。人から何か指摘されると、自分のプライドは傷つくし、言い訳をするか相手に対して矛先を向けたりしがちです。しかし、そんなプライドなどなくなるべきだと思います。謙遜になって、指摘されたことを受け止め、神様が一人一人を大切にするように、私たちもお互いが尊敬できればと願います。これは、私にとって非常に耳が痛い言葉です。そうしたくても感情的に出来ていない事が多いので、プライドが砕かれて、低くなりたいと思います。

 今在る、不公平や不条理、差別、貧困は人間が作り出したものです。神様の視点からすると私たち人間は皆平等であり、神様はわけ隔てなく、ご自分が造られた大切な命として一人一人を見て下さっています。その愛の表れは、神様の御子イエス・キリストが十字架にかかって、私たちの罪全てに対する罰を負って死んでくださったことにあります。そして、死んで終わりではなく復活され今も生きておられる、そこに私たちの生きる希望が与えられるのです。私たち皆が神様から赦された者、愛されている者として自分の存在を受け止められた時、どんな状況にあっても相手を思いやることが可能になると思います。平和で良い関係を保つことは、人間の想いだけでは不可能でしょう。しかし、神様にあっては不可能はなく*3、この十字架の愛を信じ、神様の支配される国(領域)では可能であると私は信じます。たとえこの世的には正しいことと認められる事項であっても、もしくは、相手にも非があり、自分のプライドが傷つこうとも、神様の御心という視点ではどうなんだろう?と見極める力を与えてくださいと、祈っていこうと思わされます。
 「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。」 第一ヨハネの手紙2章15-17節

*1 「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった 」創世記1章31節
*2 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 ヨハネによる福音書15章12節
*3 「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。マタイによる福音書19章26節    (引用:口語訳聖書)

「あの事もこの事もしよう」

2021年03月13日 | 日記
 首都圏に住んでいる両親たち、親族と一年近く会っていません。電話ではまめに連絡を取っていますが、やはり直接顔を見れないのは寂しいです。いつ頃なら安全に会えるか、なかなか見通しがつきません。こういう時は待つしかありませんし、仮に計画を立てたとしても、その時になったら実行できるかどうか、先行き不透明であります。これは個々人の生活においても、企業や団体の事業計画においても共通の抱えている課題でしょうし、いずれにしてもある程度計画は立てるものです。
 先日、茨城県の梅林を訪れました。私たちの住む場所は栃木県といっても茨城との県境ですので、気軽に車で行けるところです。この一年は観光地にはいかず、四季ごとに自然の美しさを楽しめる近隣の場所を探索してきましたが、この山沿いに広がる、満開の白とピンクの梅の梅林は圧巻でした。平日なので人はまばらで、マスクをつけていてもほのかに梅の香りが漂い、水戸にある有名な偕楽園とはまた一味違い、山に咲く梅林がこれほどみごととは驚きと感動を覚えました。遠出や観光地へ行けなくとも、近隣で楽しめる場所に恵まれ、感謝であり、幸いだなと思います。
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」*1ドイツの宗教改革者ルターの言葉です。この言葉は今日の下記の聖書にみことばに記されている、信仰の一つの側面がベースになっていると思います。先のことを思い煩わず神様に全て委ね、いつも通りの日常を過ごせるという心構えは、神様から与えられる平安によるものでしょう。
 計画を立てること自体は必要なことですし、意味がないわけではありません。その計画の動機が問われます。イエス様は、「もっと儲けるために、先行投資していこう!」と自分の欲のために計画しても明日死んでしまったら意味がないという、愚かな金持ちのたとえ話をされました*2。計画を立てるとしてもこの金持ちのように欲の為の、自分中心の人生設計ではなく、神様から一人一人に委ねられた人生、生活を探りながら、神様のみこころだったらこうしたらどうかなと、神様に祈りつつ神様中心の計画を立てることが、クリスチャンの考えたかではないかと思います。そうすれば例え思い通りに、計画通りにいかなくとも、虚しさや失望で希望を失うことはないでしょう。「そうか、違ったんだな。神様はもっと良い、最善の方向を用意しているのだろう」と、軌道修正すればいだけですから。
 中高年になるとあと、何年生きられるかと算定し、このことをやろう、あのこともしようと考える年になります。しかし、いくら健康診断をまめにし、生活習慣に気をつけた生活をしていても、病気になってしまい、計画していたことが実行できないという時もあるかもしれません。私は今元気に過ごせているのは、すべて自分の努力や計画ではなく、神様のみ心だと経験上も思えますので、あまり、気にしないように変えられました。そして、明日自分の命がなくなろうとも、それはそれでよしと。もちろん、もう少し生きたいとは正直思います。もう少し生きられるとしたら、夫婦で神様のために、キリストの愛と希望を伝える宣教活動をしたいというメインの目的のもと、プラスアルファで多くの人との出会いを大切にし、自然の美しさを楽しみつつ、小さなことにも感謝する生活を淡々と続けられればと。「悔いのないように、一生懸命生きなければ!」と気負うのではなく、もっと肩の力を抜いて、今日も神様の恵に感謝しつつ、いつも通り過ごそうと思います。
 
「あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは『主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう』と言うべきである。」 ヤコブの手紙4章14-15節

*1”Even if I knew that tomorrow the world would go to pieces, I would still plant my apple tree.” マルティン・ルター(ドイツの宗教改革者)1483年11月10日 - 1546年2月18日。宗教改革の中心人物となったことでプロテスタント教会の源流をつくった。
*2 ルカ12:13-21 「そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。