Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

掘って、鉱石を見つける

2019年05月26日 | 日記
 昨年の夏、佐渡ヶ島へ旅行へ行った折り、佐渡金山跡へ訪れました。ここでの金採掘は室町時代まで遡りますが、多くの労働者が劣悪な環境で、掘り続けた様子を知り、心が痛みました。金に限らず、価値のある鉱石をまず探り当て、掘削し、精錬し、とその工程は非常に時間と労力、コストがかかります。だからこそ、製品としての価値があるわけです。

 今日読んだ下記の聖書の箇所は、古代イスラエルの王様、ダビデが書いた神様への詩ですが、この「私を探って」の原語:探る(ヘブル語)は、「鉱山を掘り、鉱石を見つける」という意味も持つ動詞だそうです。ダビデがそう神様に語りかけたのは、自分では自分の心の深いところがわからないから、神様に探って下さいとお願いしています。私は以前この箇所を読んだとき、続く「わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。 」という文脈から、単純に神様に私の悪い思い・動機がないか探って、正しい道へと導てくださいという意味だと思っていました。

 しかし、鉱山から鉱石を掘るという意味から、私のような心の中にも、神様のために用いられる可能性のある良いもの、志しなど宝となる原石みたいなものを探して下さいとお願いしていると解釈すると、より深い意味にとれます。神様に心の中を探してもらうだけでなく、「私の心を知り、私を試みて」と続くように、この「試みる」という動詞も「金属を火で試す」、つまり精錬するという意味もあるそうですから、私の心の思いを精錬し、良いものだけが残る様に、余計な不純物;思い煩い、悪い動機、苦い思いは火で精錬しそぎ落として下さいととれます。

 生活の中で、全てが順調であると、自分の本性について気がつかない部分がたくさんあります。問題が起こり、当たり前に思っていたことがそうでなくなる、というような困難な状況になると、その人の心が揺り動かされるものです。その時に、このダビデの祈りを思い出したいと思います。私の心の深い部分は、もし火(問題)で試されなければ、自分がまあまあいい人かもと勘違いしかねません。揺り動かされた時こそ、神様に余計な、不純物の思いをそぎ落として頂き、やさしい、柔和な心で他の人と接することができるよう、神様のために用いられる器に変えられていくように、日々神様に導いていただきたいと願います。

「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。」 詩編139篇23節




君は愛されるため生まれた

2019年05月23日 | 日記
先日、私が月一回開いている幼稚園の保護者向け聖書勉強会に、私の友人がママ友を誘って参加されました。この幼稚園では新学期の時期に、園児たちに天地創造*1(神がこの世界すべてを創られたという、聖書の最初のストーリー)のDVDを見せています。そこで私は保護者の方にも、神様が六日かけて天地を創造し、最後に人間を創られたところを聖書にそって説明した後で、「これを皆さんが信じるか信じないかは別としても、もし神様がいたとしたら、なぜ人を創ったと思いますか?」と質問してみました。ある方が「おそらく、神様は大切にする相手がほしかったんじゃないかしら。。」と答えられました。私は別の聖書の箇所「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び…愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」*2を示し、一言にまとめて「神様は愛するために人を創ったようです。その人の人種や才能等に関わらず、一人一人が大切な、神様の前には価値のある存在として創られているから」と説明しました。

一人で悩んでいる人たち:いじめに遭っている子供、自分の抱えている責任や重荷に潰されそうになり苦しんでいる人、自分は生きている意味があるのだろうかと落ち込んでいる人。。。私はこのような人たちに「君は愛されるために生まれた」と伝えたいと願うのです。例え、自分を愛する人は誰もいないと感じても、目に見えない神様はその人を愛していて、愛する為に創られて、目的をもってこの世で生を与えたということを信じられると、どんな状況でも、どんな境遇に生まれ育ち、生活しようとも、そこに生きている意味を見出せて、自分の存在価値に確信を持て、一歩踏み出せるのではないでしょうか。

そして神様の存在と神様の愛を現わしているのが、イエス・キリストです。つまり、神の御子イエスの命を十字架で犠牲にしてまで、私たちを救おうとしたのは、それ程に私たち人間に価値があるとみなしてしてくれているからです。このような神様の大きな愛、またその父なる神様の計画に従順に従われた御子イエス様の愛は、なんと驚くべきことでしょうか。愛されている存在、意味のある人生、これらを神様の創造を前提として確信が持てると、もう一歩進んだ信仰に進んでいけます。神様は何もお返しを私たちに要求しないけれども(献金でさえ本来強制されていません)、私たちは神様に感謝すること、信じ続ける、求め続けることはできるはずです。神様が自分をこれ程までに愛して下さっていることを知り、その愛に自分はどう応答できるかと、神様のために生きたいという思いに変えられてゆき、自分中心から神様中心の思へと変えられていくことは、環境や状況に左右されない深い、大きな喜びを伴います。

多くの人たちは、聖書を神のことばとして信じず、信じたとしても部分的に信じ(例えば天地創造の部分は神話だとする)、人の知能で測りうる科学で整合性をつけようとします。しかし聖書は科学の本ではなく、信仰の書であり、聖書をどう信じるかはその人の信仰だと思います。私は人の知識を超えた、目に見えない全知全能の神様を信じ、私たちを愛して、イエス・キリストによって神の子にしようと前もってお定めになったこと、この世界は神様のことばから出来たと下記のように書かれている聖書をそのまま信じ、証していきたいと思います。


「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 」
へブル人へ手紙11章3節


*1「はじめに神は天と地とを創造された。」創世記1章1節
*2 エペソ人への手紙1章4-5節

水の上を歩く

2019年05月17日 | 日記
 20代の時、一度だけ湖でウインドサーフィンを試みたことがあります。こんな狭い板の上にのって、水の上を走れるのか半信半疑でしたが、指導してくれた人のサポートで、数10メートル水の上を走れました。風にのって、どんどん湖のまん中へ進んでいき、とてもエキサイティングでしたが、方向転換や止まり方を習得していなかった為、怖くなり間も無く沈没して止めました。この地球上では全ては重力の下にあり、ある一定の条件下と乗り物にのれば、人は飛行機で空を飛び、船で水の上を走れます。人も横たわれば、しばらく水の上に浮いていられますが、直立した状態で人が水の上を歩く方法はまだ誰も成功していないでしょう。

 聖書には人が水の上を歩いたという、信じら難いことが記されています。ある日の夕方イエスの弟子達だけで大きな湖に船をこぎ出すと、途中で嵐に遇い、先に船が進まなくて困っていると、イエスが湖の上を歩いて彼らの方へ行かれました。それを見た弟子たちは幽霊だと思い、恐怖のあまり叫び声をあげましたが、イエスはすぐに彼らに「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と声をかけました。すると弟子の一人のペテロが「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を歩いてそちらへ行かせて下さい」と願うと「来なさい」とイエスは言われ、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行けました。しかし、彼はすぐに足元の波と風をみて怖くなると沈んでしまい、イエスに引き上げてもらって、二人共舟に乗り込みました。

 このような記事がなぜ聖書に書いてあるのか考えてみました。イエスは3年半の宣教活動の間に多くの奇跡をされましたが、多くの病人を癒したり、5000人にパンを増やして給食したり、病気で死んだ人を生き返らせたり、みな人々の必要に答えるための奇跡が記されています。イエスが奇跡を起こす時には目的や神の国についての教えが伴います。ですから、単に人の欲望を叶えてくれるため(例えば一攫千金を得る、名誉を得る)には奇跡を行われませんし、必要なこと(病気が治る、良い結婚、いい会社に就職等)を願ったとしても、その通りに奇跡がおこるとは限らないのです。神様の側には計画と思いがあり、人の思いとは異なります。つまり神様が奇跡をなさらなかった事柄でも、そこに神の計画や御心があるはずです。ですから、この水の上をペテロに瞬間的に歩かせるという奇跡は、イエスに力があり、その人にするように命じれば、”その人を通して”奇跡は起こるということを弟子が信じて一歩踏み出すという、信仰のレッスンだったのではないかと思います。

 信仰というのは、電気のスイッチに例えられます。スイッチを押すと、電気が流れ電球がつくように、信仰を働かせると、神の不思議な力が流れて奇跡がおきます。ですから「これは無理だろう」「神でもこれはできないだろう」という不信仰の状態には、神の力は流れず何もおこりません。私たちの内には何の力もないのですが、神には出来ると信じる信仰を持って何事も祈り、その願いが神の思いに沿ったものであれば、私たちの人知や科学を超えた不思議なことが起こるでしょう。この弟子の場合、イエスに命じてもらえば歩けると信じたから、重力の法則を超えて水の上を歩けたわけです。しかし途中で波と風を見て怖くなる、つまり人の現実的な思いで信仰のスイッチをオフにしてしまうと沈んでしまいます。現代の私たちへの適応は、絶望的な状況、不可能に思えることでも、イエスに力があると信じて信仰のスイッチをオンにできるかが問われと思います。

 そもそも、この世で信仰を持ち続けて生きることは、ある意味水の上を歩くような、重力に逆らう奇跡的なことだと思います。傍から見ると、目に見えない神が存在して、2千年前に十字架に掛けられた神の御子イエス・キリストが死んで復活したことは自分の罪が赦され、天国へ行けるためだという信仰は、多くの人には信じがたいことでしょう。しかし、聖書に書いているイエス・キリストのなさったこと、言った事が本当だと信じて、現代における自分の生活の中でも祈って神様に委ねていくと奇跡がおこります。それも、自分の思う通りではなく、神様のやり方やタイミングで。この世という深い海に沈むことなく、水の上を歩いて信仰を保っていけるのは、自分の力や意志ではなく全て神様の恵であり、奇跡の力であると捉え、日々神様に感謝していきたいと思います。また、信じられなくて溺れそうになっても、助けを求めれば、イエスが腕をつかんで、引き上げてくれるので、安心です。

「イエスは彼らを見つめて言われた、『人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない』」。 マタイによる福音書19章26節



人に任せることと自分がなすべきこと

2019年05月05日 | 日記
 何事も、自分でしないと気が済まない、もしくは頼むのが面倒くさいので、大変でも自分でしてしまうということがないでしょうか。私はどちらかというと、なるべく人に迷惑をかけず全部自分でしてしまおうという方です。また独身時代が長く自分で全てしなければならなかったという状況もあり、結婚した後もまだその癖が残っていて、時々夫にあきれられてしまいます。先日も10連休で道路が大渋滞になった時、途中で運転を夫が変わろうと言ってくれたのに、私は運転を変わる暇があったら早く着きたいとの一心で、結局大渋滞の中休みなく4時間運転してしまいました。一方、全て人任せで自分はやろうとせず、最低限自分のすべきことさえもしようとしない人もいるかもしれません。人に任せることと自分がすべきことを見極める、またバランスをとるのは難しいことです。

 信仰の面でも神様に任せることと自分がなすべきパートがあります。ほとんどが神様に委ねるのですが、祈って何もしない、あとは神様が何かしてくれるまで寝ていよう、というのでは棚からぼた持ち状態です。例えば、就職活動において「神様、これこれの仕事を与えてください」とまず祈ることは一番です。また人間関係がうまくいかない場合、「神様、夫(妻)との関係、職場の同僚との関係がよくなりますように。相手が悪いですから相手を変えて下さい!」と祈ったとします。しかし祈りと共に、自ら行動するパートがあるはずです。就職なら、自分で調べて履歴書を送る、誰かに紹介してくれるように頼む等、また働き始めたばかりは慣れるのが大変であっても、すぐに辞めずある程度忍耐して働いてみるなど。また人間関係にしても、確かに相手がいつも攻撃的、意地悪かもしれませんが、自分の態度はどうか?最近、問題の相手を尊敬したことがあるか、その人に優しい言葉をかけたこと、最後に「ありがとう」と言ったのはいつか?と顧みて、悔しくても感情がついていかなくとも、こちらから態度や言葉で優しさを示すことはできます。これらは自らがするパートであって、神様がしてくれるパートではないでしょう。

 信仰の成長は、物事がうまくいかない、困難な環境の中でなされます。そういう時こそ、正直な自分の感情を含め、状況のそのまま神様に祈り、静まって神様が動かれる、働かれるのを待ちつつ、自分は忍耐し、謙遜になって、自分が出来る事をしていく。すると、ある時状況が変えられていく、というのを経験し、神様の恵みわざに感謝しつつ、自身の信仰も成長させられるでしょう。私はもっと、忍耐力が与えられ、何事にも寛容になる、というキリストのような思いに変えられる必要があり、また相手と共に重荷を分かち合う、つまりチームワークを実践で学んでいく必要があります。まずは神様に祈りつつ、自分のなすべきことをしつつ、成長の遅い自分自身にも忍耐して、変えられ続けるのを望んでいきたいと願います。


「どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 」  ピリピ人への手紙2章2-4節

新元号と気持ちの区切り

2019年05月02日 | 日記
 日本という国は独自の暦を用いているため、この度も平成から令和に代わりましたが、わたしたちの生活はとくに変化はなく5月の新緑の季節へと移り変わっていきます。役所や銀行などは新元号へのシステムの変更が必要となり、行楽地やお店は稼ぎ時であって、10連休といっても仕事に追われている人もたくさんいるのではないかと察します。

 毎年、西暦で新しい年を迎えた時と日本の場合は4月からが学校や会社の会計年度の始まりとなっているため、事実上年に2度新しい区切りが精神的にも持てることになり、今年は3回目の新しい区切りとなります。しかしながら、環境の変化や暦などが新しくなり区切りがつけられていたとしても、わたしたち人の心はそれで一新されるのでしょうか。心のコントロールが、それでうまくいく人は良いですが、何も変わらない、もしくは益々悪化していってしまう様々な悩みがある人もいるかもしれません。

 聖書では、下記のようにキリストを信じる人は日々内側が新しくされると書かれています。内側が日々新しくされるとはどういう意味でしょうか。まず、これは環境的な要因や自分自身に言い聞かせるということで心が新しくされるものではなく、キリストの霊(聖霊)が人の内側(心)に働き、新しく変えられていくといことといえるでしょう。具体的には、日々、新しい悩みや事件に直面する人、もしくは単調な生活で飽きてしまっている人、仕事や介護で忙しくて何も考える余裕がなく日々流されていく人、悲しみ・恐れに捕らわれている人。。それぞれ状況が異なるとしても、信仰が与えられると聖書の言葉をとおしてキリストの恵により、その時はあせったり感情の起伏が起こるとしても、落ち着けるところへ導かれる、満足して神様に感謝する心に変えられる、これが日々心の中で起こることです。これは、傍から見てもわからないことですが、その人の心がこのようにかえられて神様に感謝できる日々を保てるという事こそが、日々内側が新しくされている証拠なのです。

 キリストを信じて信仰を持っていても、信じていない人と同じように、因果関係なくとも(もちろん原因があっても)辛い事、悲しいこと、つまらないことはたくさん起こります。キリスト教はご利益宗教ではないので、自己中心的な人間社会の中に生きている限り自分の思う通りに事は運ばず、自分の願いを神様に祈ってもその通りに叶えられないこともあります。それでも、クリスチャンは、たとえ自分の願い通りにならなくても、神様がベストの答えと必ず導いていくださると信じて委ねることができます。自分で心をコントロ―ルして守ろうと一生懸命頑張らなくも、もしくは人間が造った神々に願をかけ、お金を使う必要はないのが幸いです。この神様の恵みをイエス・キリストを通して与えられていることを感謝しつつ、変えられなければならないところがたくさんある、欠けのある私は、日々忍耐できる、謙遜な心に変えられるよう祈ります。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人は」衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人は」日々新たにされていきます。」  第2コリント人への手紙4章16節