昨年の夏、佐渡ヶ島へ旅行へ行った折り、佐渡金山跡へ訪れました。ここでの金採掘は室町時代まで遡りますが、多くの労働者が劣悪な環境で、掘り続けた様子を知り、心が痛みました。金に限らず、価値のある鉱石をまず探り当て、掘削し、精錬し、とその工程は非常に時間と労力、コストがかかります。だからこそ、製品としての価値があるわけです。
今日読んだ下記の聖書の箇所は、古代イスラエルの王様、ダビデが書いた神様への詩ですが、この「私を探って」の原語:探る(ヘブル語)は、「鉱山を掘り、鉱石を見つける」という意味も持つ動詞だそうです。ダビデがそう神様に語りかけたのは、自分では自分の心の深いところがわからないから、神様に探って下さいとお願いしています。私は以前この箇所を読んだとき、続く「わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。 」という文脈から、単純に神様に私の悪い思い・動機がないか探って、正しい道へと導てくださいという意味だと思っていました。
しかし、鉱山から鉱石を掘るという意味から、私のような心の中にも、神様のために用いられる可能性のある良いもの、志しなど宝となる原石みたいなものを探して下さいとお願いしていると解釈すると、より深い意味にとれます。神様に心の中を探してもらうだけでなく、「私の心を知り、私を試みて」と続くように、この「試みる」という動詞も「金属を火で試す」、つまり精錬するという意味もあるそうですから、私の心の思いを精錬し、良いものだけが残る様に、余計な不純物;思い煩い、悪い動機、苦い思いは火で精錬しそぎ落として下さいととれます。
生活の中で、全てが順調であると、自分の本性について気がつかない部分がたくさんあります。問題が起こり、当たり前に思っていたことがそうでなくなる、というような困難な状況になると、その人の心が揺り動かされるものです。その時に、このダビデの祈りを思い出したいと思います。私の心の深い部分は、もし火(問題)で試されなければ、自分がまあまあいい人かもと勘違いしかねません。揺り動かされた時こそ、神様に余計な、不純物の思いをそぎ落として頂き、やさしい、柔和な心で他の人と接することができるよう、神様のために用いられる器に変えられていくように、日々神様に導いていただきたいと願います。
「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。」 詩編139篇23節
今日読んだ下記の聖書の箇所は、古代イスラエルの王様、ダビデが書いた神様への詩ですが、この「私を探って」の原語:探る(ヘブル語)は、「鉱山を掘り、鉱石を見つける」という意味も持つ動詞だそうです。ダビデがそう神様に語りかけたのは、自分では自分の心の深いところがわからないから、神様に探って下さいとお願いしています。私は以前この箇所を読んだとき、続く「わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。 」という文脈から、単純に神様に私の悪い思い・動機がないか探って、正しい道へと導てくださいという意味だと思っていました。
しかし、鉱山から鉱石を掘るという意味から、私のような心の中にも、神様のために用いられる可能性のある良いもの、志しなど宝となる原石みたいなものを探して下さいとお願いしていると解釈すると、より深い意味にとれます。神様に心の中を探してもらうだけでなく、「私の心を知り、私を試みて」と続くように、この「試みる」という動詞も「金属を火で試す」、つまり精錬するという意味もあるそうですから、私の心の思いを精錬し、良いものだけが残る様に、余計な不純物;思い煩い、悪い動機、苦い思いは火で精錬しそぎ落として下さいととれます。
生活の中で、全てが順調であると、自分の本性について気がつかない部分がたくさんあります。問題が起こり、当たり前に思っていたことがそうでなくなる、というような困難な状況になると、その人の心が揺り動かされるものです。その時に、このダビデの祈りを思い出したいと思います。私の心の深い部分は、もし火(問題)で試されなければ、自分がまあまあいい人かもと勘違いしかねません。揺り動かされた時こそ、神様に余計な、不純物の思いをそぎ落として頂き、やさしい、柔和な心で他の人と接することができるよう、神様のために用いられる器に変えられていくように、日々神様に導いていただきたいと願います。
「神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。」 詩編139篇23節