Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

新しくなれること

2021年05月23日 | 日記
我が家にあるダイニングテーブルと椅子は、夫の両親から譲り受けた家具で、いわゆるアンティークですが、とても気に入って使っています。なんでも古いものと新しいものがあり、新しく購入したり、造ったりもしますが、古いものを好んで買う方もいます。現代のように大量生産・消費の時代において、古いものを大切に使いづつけることを私も好み、洋服、家具、電化製品も壊れたり、破れたりしなければ、なるべく新しいものを買わず使い続けたいと思います。

 一方、自分の品性や身体に関しては、「新しくなれれば。。。」と思うこともあります。今迄生きてきて、「あのことをしなければよかった」と、してしまった罪や失敗については、神様は既に赦して下さっているという恵みが与えられ、罪責感にさいなまれることなく、後ろ向きに過去を振り返ることがなくなったのは幸いです。が、してしまったことの刈り取りや失ってしまった事柄はもとには戻れません。そのことに対する不満や自己憐憫を続けるのではなく、そのことを受け入れて、共に生きていこうと前向きに捉えるようにしています。例えば、病気になってその後遺症が続く場合は、その後遺症とも、自分の一部として共に生きていこうと思う。また、人間関係については、神様は赦してくれても、人は赦してくれない場合があります。その相手との関係が改善されることを祈りつつ、相手の自分に対するネガティブな感情を受け入れていかなければならない、ということもあるでしょう。

 聖書にははっきりとこう書かれています。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 」第2コリント人への手紙5章17節

「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。」テトスへの手紙3章5節

 聖書の最初の書簡「創世記」で、「はじめに神は天と地とを創造された。」*1とあるのは、将来に新しい天と地が現れることが含まれた、神様の啓示の言葉だと思います。このみ言葉は、神様の御子、イエス・キリストが今ある天と地を組み立てるところから始まり*2、そしてキリストの十字架による罪の赦し、その罪によって失われた良い状態の回復、つまり新しい創造の「型」として聖書の最初に記され、そして聖書の最後の書簡「黙示録」において、その全てが新しく、創造される天と地のことへと繋がります。天と地だけでなく、永遠に神様と共に生きれる新しい体が与えられ、人と神様が共存できる世界がいつか来るという聖書の約束は、この世の中で生きていく中で、私にとって大きな慰めであり、励ましであります。

 キリストを信じながら、私の感情や思いが古いままのように思えても、また体に不具合があったり、年とともに衰えていったとしても、聖霊によって新しく造られ、古い自分は過ぎ去っていること、そしてこれから神様が全てを新しくされる日がくるという下記のみことばを心にとめていきたいと思います。毎日の生活で個人的にも、社会情勢においても色々困難はありますが、信仰によって、待ち望みつつ、日々過ごしていきたいと祈り求めます。

「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。  黙示録21章1-5節(引用:口語訳聖書)

*1 創世記1章1節
*2 「【主】は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたし(1節の「知恵である私」つまり、キリストを指す)を得ておられた。わたしは、大昔に、初めに、大地の始まりの前に、立てられていた。まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしは生み出された。 山が立てられる前に、丘より先に、わたしは生み出された。主がまだ地も野原も、世界の最初のちりも造っておられなかったときに。主が天を堅く立てられたとき、わたしはそこにいた。主が深淵の面に円を描かれたとき、上の方に大空を固め、深淵の源を堅く定められたとき、 海にその境界を置き、その水が主の仰せを越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。」 (新改訳2017聖書】箴言8:22~30 ()は加筆
 「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」 コロサイ人への手紙1:15-16 (口語訳聖書)

丸投げ

2021年05月09日 | 日記
 仕事をしていて、自分の担当でないことを他者から「やっておいて」と頼まれることがあります。その人が上司であればやれと言われたことをするのは仕方ありませんが、例えば同僚同士の場合、その人との関係がよく、自分に余裕があるときは快く引き受けられます。が、そうでない時は「丸投げするなんて。。。」と思ってしまうこともあるでしょう。仕事はチームワークですから、特定の人に業務が偏らないよう、お互いが助け合って、分担しあい業務を終了していくのが理想ですが、現実は多忙な中、なんとかこなすのが精一杯ではないでしょうか。

 仕事の事なら手伝えますが、人間関係に基づく個人の抱えている内面的な問題ならどうでしょう。その人の話を聞くことはできますが、その解決方法を提供するのは困難ですし、その人の問題を引き受けることはできません。逆に、自分自身が思い悩む身である場合、他人の問題を聞いて聞き流せず、感情移入してしまうと厄介なことになります。また聴き手がカウンセリングのプロだとしても、結局は思い悩んでいる人自身の気の持ちよう、捉え方が変わらない限り、なかなか前には進めず、ぐるぐる同じところで思いが回ってしまいます。問題となっている相手が変わってほしいと願うより、自分を変えた方が早いのですが、その自分を変えられないから悩み、思い煩うわけです。しかし、思い煩いは心をさらに蝕み、悲観的な考えを拡大させ、良いことはありません。

 下記の聖書の箇所は「自分の思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」とあります。この「委ねる」と訳されている原語は「投げる」という意味であり、すると「自分の思い煩いを神様に丸投げしなさい」と訳せます。神さまは人と異なり、全能で、慈愛と忍耐に富む方であるので、全て投げても受け取られ、解決の方法へ導いて下さる方です。

 では、神様にどのように委ねればよいのでしょうか。イエス様が言われたように、自分が神様に祈ったことは全て聞かれている*1と信じ切ることだと思います。また、祈りの答えとして与えられたことを、受け取る覚悟が必要だと思います。自分の想う通りに神様が答えてくれると願っている限りは、神様に委ねていないのです。神様に問題を丸投げしたのならば、神様は各々にとって良いという方向へ導かれると信じ、それが自分の思い描いたとおりでなくとも、受け止めるということです。また、待つということも必要です。ただ待つのではなく、神様を「待ち望む」こと、なぜなら希望を持たなければ長いこと待つ事は苦痛であり、ついに諦めて、神様に対して「ああ、神様は結局聞いて下さらなかった」と不信感を持ってしまうからです。

「主を待ち望む者は新たなる力を得…走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」*2という神様の約束が与えられているのですから、この先の見通しがつかない時勢において、どんなことでも、全て神様に委ね、待ち望んでいきましょう。

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。 」第一ペテロの手紙5章7節

*1 「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」マルコ福音書 11章24節
「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 」ヨハネ福音書15章7節
*2 「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ書40章31節 (引用、口語訳聖書)

召命?コーリング?

2021年05月05日 | 日記
 よく、クリスチャンの世界では「あなたの神様からの召命はいつ?どのようにありましたか?」と、特にある人が牧師もしくは宣教師になろうとすると必ず聞かれます。その答えとして「どこどこの集会で祈っていた時、神様に私は呼ばれました」、「聖書のこの箇所が示されて、私は牧師になる決心が与えられました」等、また晩年牧師になった私の父の場合は「イスラエル旅行に行った時、死海のほとりで神様の召命を受けた」と言っていました。また、伝道集会に行って、その場でキリストを信じる決心をし、まもなく「私は献身し、神学校に行きます!」と信じてすぐに牧師になろうという若い人もいます。各々が牧師や教師になる自分なりの理由を持っていて、他者への説明が求められます。何事も、その動機が重要です。しかし、いつ、どこでという、ピンポイントの召命でなければならないのでしょうか。
 オズワルド・チェンバース*という、スコットランド出身の19世紀の伝道者、神学校教師、説教者が神の召命についてこう記していました。「我々が忘れがちなことは、神は私たちに、霊的に、超自然的に触れられるということです。もし、神の召命を受けたのはいつ、どこで、どのようにと正確に全て説明できるのであれば、あなたが本当に神の召命を受けたのか疑問です。神の召命はそのように来ないからです。神がその人を呼ばれたと認識する仕方はもっと超自然的な呼びかけであり、雷鳴のようなもの、もしくは、ゆるやか夜明けのようなものです。それは表現し難いものであり、輝きを生み出します。」
 私は、オズワルド・チェンバース師のような霊的な神様に用いられた偉大な人の定義する召命が、全ての人に当てはまるかどうかはわかりませんが、「表現のし難い、もっと心の深い部分での霊的な呼びかけである」ということには同意できます。召命というのは、神様が個人に語り掛けるものであって、個々人の体験であり、よって必ずしも論理立てて他者に説明できるとは限らない、もしかしたら口で説明するともっとあいまいなぼんやりしたものの場合もあると思います。聖書を読んでいて、旧約時代の預言者やパウロのことばから見いだせる共通点は、神様から福音伝道に呼ばれている人々は、神のことば・福音をなんとか人々に伝えたいという、「そうせずにはおられない」という一種の押えがたい欲求で動かされていること、それが原動力となって、どんな迫害にも困難にも耐え、主に期待して、喜んでいるという姿です。
 私のような名もない信徒のレベルであっても、少なくとも、神様の愛、キリストの福音をもっと人々に知らせたい、説明したいという欲求は夜明けのように、いつの頃から次第に与えられてきました。私の場合それが原動力となって、突然アメリカに単身で移住したリ、日本に帰って結婚したりとなっていて、傍からみると一つのところに落ち着かない不安定な生活に見えるかもしれません。しかし、私の中には一貫性があり、神様に守られ、導かれているという安心感があり、神様がキリストの福音を伝えるために私をどう用いられるだろうかと迷いながらも探り求めた結果が、今の自分であると言えます。私は欠点の多い、神様に用いられるにはふさわしくない資質で、自分を見ると落ち込みます。しかし、神様はあえてそのようなふさわしくない者さえも用いられると信じます。もし、こんな私がどんなに小さい働きであっても、誰かの心に神様を求めるきっかけの種を蒔くことに用いられれば、自分の能力・資質を誇るのではなく、全て神様の力と業のおかげであると神様に栄光が返されるためのサンプルとなり、私の喜びとなります。キリストを信じる信仰が与えられている人生の豊かさと神様の救いの恵み、神様の私たちに対する無償の愛を知らない人々に伝えたい、また辛い時には神様が共にいて下さるから、なんとかなるという事を伝えたいと、日々願っています。
  
「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。」第一コリント人への手紙9章16節 (口語訳聖書)


*オズワルド・チェンバーズ(Oswald Chambers, 1874年6月24日 - 1917年11月15日)は、スコットランド出身、バプテスト・ホーリネス ムーブメントの伝道者、神学校教師、説教家。著書「『いと高き方のもとに(My utmost for his highest)』、いのちのことば社、1990