Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

ゴスペル、プレイズソング(讃美歌)を歌う理由

2019年03月31日 | 日記
 讃美歌は、小さいころから私の身近にあり、歌ってきた音楽です。昔から歌われている賛美歌の他に、現代的なプレイズソング、またゴスペルソングと賛美歌といっても様々な種類があります。しかし、どれも歌詞の内容は、神様をほめたたえる曲で、元来礼拝の時に神様に賛美を捧げるための歌です。若い世代が多く集う欧米の教会の流れを受ける教会では、バンドに合わせて、まるでライブハウスのような雰囲気で賛美を歌っているところもありますが、日本のほとんどの教会は昔ながらのオルガンの伴奏で静かに歌う形式です。

 私はどちらも好きですが、今通う教会はオルガンで静かに歌う賛美歌で、以前はギターに合わせて歌うプレイズソング形式の教会に通っていました。今の教会で、奏楽担当の時は事前に練習するので、自然と頭の中で静かな賛美の曲が流れています。また、小さい時はその歌詞の意味を考えることもなく歌っていたのですが、今はその詩を味わって歌うことができます。

 賛美を歌う理由は、人が神様をほめたたえる為に捧げる歌であって、自分が歌っていて高揚感を感じるためにあるものではありません。もちろん、信仰がない人にとって、例えば趣味でゴスペルを習う場合、もしくは教会の礼拝にたまたま参加して耳にする賛美により、その方々は良い影響力を受けます。聞いていて、またご自身が歌っていて楽しいと感じることもあり、それは素晴らしいことだと思います。たとえ信じていなくても、ゴスペルを歌う事で、事実上神に賛美を歌っていることになります。しかし、キリストを信じる者にとっては、神様に捧げる、礼拝の一部です。それでも、賛美を歌うことにより、自身が励まされたり、慰められたり、喜びが溢れてきますので幸いです。つまり、賛美を歌うこと自体が、恵みを受けることなのです。

 聖書では、神様は賛美を受けるに相応しい方だとされ、そして、今日の箇所のようにその讃美は永遠(とこしえに)に続くとあります。つまり、この地上に生きている間にだけ賛美はなされるのではなく、天国でも行われており、もっとスケールの大きな数の天使たちの合唱隊も賛美を神様に捧げ、人間だけでなく全ての生き物も賛美を歌っているようです。*1 これは想像を絶する光景ですが、天国に行った時のお楽しみとしてとっておき、地上にいる間はたとえ小さな賛美であっても、いつも神様に賛美の歌を捧げたいと思います。

「しかし、われらは今より、とこしえに至るまで、
 
 主をほめまつるであろう。主をほめたたえよ。 」 詩編115編18節


*1 黙示録5章11-14節

親の介護

2019年03月25日 | 日記
「ママが、骨折した」日曜の夕方、ふと妹から着信履歴があったので、メイルを見るとこの件名が目に飛び込んできました。急いで妹に電話をかけて様子を聞くと、右手首骨折し、応急処置はされているが後で手術が必要とのこと。86歳まで大きな病気、けがをしたことがなく、元気でどこへでも出かけ、高齢でも教会の様々な奉仕活動を喜んでこなしていきた母。多くの高齢者が辿る道:病気や骨折で入院し、要介護状態。。。と自分の親がならないよう、日々守られるように祈ってきましたが、とうとう骨折してしまったかとショックでした。しかも利き腕の骨折だと、日常生活に部分的に介護が必要となります。

 介護関係の仕事を以前していても、いざ自分の親を看るとなると、利用者さんのご家族に説明するようにはいかないことが思い知らされます。本人で出来る事はしていかないと筋肉が衰えますし、だからといってムリにしようとしてバランスを崩して更なるケガを起こすこともあります。本人がするのを横で見守るのと手を貸すのとをどこまでやったらいいのかは、実際介護してみないとわからないものです。また、心配して娘があれやこれや口で言うと、本人を苛立たせてしまいますし、細かい配慮が必要となってくるでしょう。

 アメリカのある研究によると、心配事というのは85%実際起こらないそうで、残り15%の確立でその心配していた事が起こるという統計があるそうです。しかし、その15%の中で心配事が起こってしまうだけでなく、それ以上に大変な状況となることもあります。突然の病気の発症、事故、災害はいつ起こるかわかりません。
 
 聖書では、人はこの世に生きている限り、痛みのない世界で過ごすとは保証していません。様々な困難が起こるのは避けられませんので、心配事はつきないでしょう。では、神を信じても、信じなくても困難が起こるなら、どうしたらよいのでしょうか。信仰が与えられている幸いは、どんな状況になろうとも、今日のキリストの言葉(約束)より、目に見えないけれどイエス・キリストがいつも共にいて下さるという安心感があることです。誰も助けがないと思える状況において、孤独の中で、キリストがに祈りつつ、先がどう動かされていくか落ち着いて様子を見ることができます。すると、意外な方向から助けが与えられることがあります。それを偶然ととるか、神がコーディネートしてくれたととるか、祈る者は後者と信じます。事が起こった時、一瞬不安はよぎりますが、すぐになんとかなるという、良い意味で楽観的にとらえることができるのは、信仰によって支えられているからです。

 今、入院、手術の立ち会い等で実家にきていますが、普段は離れて暮らしているため、母と一緒に過ごし、介護できる機会が与えられるのは感謝なことだと思わされます。ただ、夫には不便をかけ申し訳ないのですが、夫は「お母さんと一緒にいてあげて」と優しく送り出してくれています。本人も痛みを堪えながら「左手が使えるようになっていいのよ」と手術後に予定されてる旅行や女学校時代の同窓会などの参加に向けて、意欲的にリハビリをしていく様子です。
  
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」
  マタイによる福音書28章20節

ニュージーランド乱射事件

2019年03月18日 | 日記
「皮肉なことに、私の父が日本へ呼んでくれたんだと思います。。。」先日も、再び痛ましい乱射事件がニュージーランドで起こりました。この事件が勃発した日の数日前から、私たちの教会の信者の方が危篤状態となり、急遽クライストチャーチ在住の息子さん家族が日本へ飛び立ちました。そして、その翌日にこの事件が起きたのです。息子さんは現地の学校の教師でしたので、もしお父さんのことで日本に来ることがなければ普通に学校で働いていて、この事件に巻き込まれ、生徒たちと教室の中で身を潜めなければならない状況だったと、聞かされました。彼の小学生の息子さんも一緒に来ていましたが、その息子さんの親しくしていたお友達がモスクで殺されてしまった一人だったと聞き、そんな幼い子まで。。と涙が出ました。世界各地でこのような惨劇が繰り返されるたびに、心が痛みます。犠牲者の方々の遺族に慰めが与えられるように祈るばかりです。

人間の残酷性は、歴史を見ても何千年前から変わらないと思うにつけ、深いため息がでます。最近見た映画「パウロ」は、2千年前のローマ帝国時代にて迫害の中でのクリスチャンたちの様子が描かれていますが、目をそむけたくなるようなシーン、痛ましいシーンがたくさんありました。クリスチャンは、ローマ皇帝から迫害され、生きたまま柱に括りつけられ火がつけられて街灯としてローマの街で燃やされていました。また大人も子供、女性もクリスチャンは、競技場でライオンに食べられるという見世物とされて、人々がそれを見て興奮していました。

 聖書のいくつかの書簡を記したルカという医者は、パウロという牢に繋がれている伝道者に感情をぶつけます。「なぜこんなことが?」「どうしたらよいのか?」と。パウロは武力ではなく、愛を持って戦うように勧めます。それは自分を殺そうとしている敵に良くすることを含み、イエスの教え「敵を愛しなさい」の実践です。実際、ルカはパウロのいる牢獄の看守の娘が他の医者から見放され死にそうになっていた時に、医者として治療をし、その看守自身をあえてクリスチャンの隠れ家に送って必要な物資を持ってこさせます。するとその看守もこの愛で、変えられていきます。

私のような平穏な生活を日本で与えられている者でも、ちょっとしたことで心は動揺してしまいます。高齢の母が転倒して骨折したり、様々なことがありこれらをこなせるのかしらと頭が痛くなったり、経済的な心配など、重なるときは一気に重なります。しかし、どんな状況に陥っても、思い煩わず、神様に今生かされていることを感謝しつつ、必要な助け、願いを祈るようにと、パウロが勧めている今朝の聖書の箇所に励まされ、心が引き上げられました。あまりにも酷いことが身に起こり、主にあって喜べない時でさえ、全てそのままを、神様に祈りで叫んでよいことは幸いであります。そして、他者に対する憎しみをエスカレートさせてしまうような人が、一人でも神に立ち返り、自分の悪い思いを悔い改めて、神を畏れるようになってほしい、このような惨劇が繰り返されることがないようにも祈っていこうと思います。

「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」 ピリピ人への手紙4章4-8節

名前の大切さ

2019年03月14日 | 日記
 もし、自分の名前が親によって、奇妙な名(キラキラネーム)をつけられていたら。。先日、親が子に「王子様」という名前をつけ、その子が改名を裁判所に申し立てたというニュースが報じられました。ひと昔前ですが「悪魔」と名付けられた子がいて、ニュースとなったことを思い出しました。親は子に名前をつける際、その子の出生に関わるなんらかの意味をもって名を選び、受け入れられているものが名前となっています。しかし、子が社会生活をしていく上でその名前により著しい問題が生じてしまうのであれば、法律に基づき名を変えるしかありません。

「名は体を表す」ともいわれ、名はその実態を表すと一般に言われますが、人の場合はどうでしょうか。その子供の性格や品性は親からの遺伝子を受け継いで似るところもありますが、育った環境・社会により影響をうけます。名前がどの程度、人格形成に影響するかは個人差があると思いますが、その名の故に外部から受ける影響はあるはずです。名前というのは、その人が唯一の「その人である」というアイデンティティでもあり、非常に重要なものです。

聖書には、神は唯一ですがいくつかの名前を持っていることが示されています。そして、それぞれの名や称号により、神がどういう神か、どういう性格を持っているかがわかります。これらの神の名前すべては、神が私たち人間に与えようとしている祝福を表しています。なぜ「キリスト教」と呼ばれるのかというと、イエス・キリストを通して表される神だから、キリスト教となります。イエス・キリストという名の意味は、イエスが「主は救い」という意味で、キリストというのはヘブライ語のメシヤ(救い主):「油注がれた者」という意味です。クラッシックの音楽会でよく演奏される「メサイア」はここから来ています。またイエスは「インマヌエル」とも呼ばれ「神われらと共にいます」という意味です*1。

その名前の通り、聖書の神は救って下さる神、また共にいて下さる神です。更に、どうやって、何から救うのかを聖書を通して、もしくは人から聞いて知れば知る程、信頼できる神なんだなと思うようになります。例えば、私たちの存在は、イエスが命を捨てる程に大切な存在として扱われていることを、下記の聖書の箇所で羊と羊飼いのたとえから話されています。キリスト教は単なる宗教(レリジョンReligion)ではなく、”関係”(リレーションシップRelationsihp)だと言われるのは、神様との関係を経験する醍醐味があるからです。人間同士の関係構築においてもお互いを良く知る必要があるように、神と人との関係も神が一人一人を知っていることを知り、私たちも神を知る必要があります。

もし、人から大切に扱われていない経験をしている人、誰も信用できない人がいたら、この神は自分を唯一の存在として大切に思ってくれている信頼できる存在だと信じて、祈り、その祈りが答えられるという双方向の経験をしてほしいと願います。なぜならキリストの名で神に祈ると、それが答えられ、心に喜びが満ち溢れるという、神の確かな約束が与えられ、多くの人がその経験をしているという証があるからです。*2


「わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。…そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。 」
ヨハネによる福音書10章14-15節


*1 マタイによる福音書1章23節
*2ヨハネによる福音書10章23-24説「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。 」わたし→イエス、父→神のこと。

イースト菌パワー

2019年03月11日 | 日記
 那須塩原エリアは美味しいパン屋さんがたくさんあります。もともとは、那須が別荘地として開発されるに従い、こだわりのパンのお店が増えて行ったそうです。先日、パン好きの私は最近TVで紹介されたパン屋さんへ行ってみると、行列ができており、ほぼ開店直後にメイン商品は売り切れとなっていました。このようなパンは高価なため、普段はホームベーカリーで食パンを焼いて食べています。ホームベーカリーはオーブンがなくても自動的に焼き上げてくれる便利な機械で、朝起きると、パンの焼きあがるいい匂いが漂うこと、ふかふかのパンを食べられること、保存料など人口的なものを入れてないため安心して食べられるという利点があり、非常に満足しています。

パンはイースト菌を入れることで膨らみます。イースト菌(酵母)は目に見えない程小さな菌ですが、生地全体をふくらますという、驚きのパワーを持っています。聖書には、ユダヤ人の間では過越しの祭りというのがあり、その間はイースト菌なしのパンを食べるという慣習があり、何千年もそのお祭りが彼らの間でなされています。その由来は、ユダヤ人(イスラエル人)が昔エジプトで寄留していた時に奴隷として酷使されていたのを、神がそれを顧みてエジプトから約3百万人の民を脱出させた時、夜中に急いで逃げる為、パンを発酵させる時間がなかったのもあり、以後この出エジプトを覚えるためにイースト菌を除いたパンをこのお祭りの7日間に食べます。*1

イースト菌を除くというのはあることの象徴であります。小さな悪でもほおっておくと、パンが膨らむように悪が広がってしまうので、除く必要があるということです。下記の箇所にあるように、イエスご自身も「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」と言われていて、彼らの悪い教えや偽善を指して言われました。生活の中で「これくらい、いいよね」と思い不正や悪い事、偽善を続けると、大変なことになります。またちょっとしたことで相手に対して嫌悪感を抱きそれを持ち続けると、それが悪口・ゴシップとなり、自分だけでなく、周りの人をもまきこんだ人間関係の悪化を引き起こします。

私は何かをする時、また思いを持つとき、人は気がつかなくても神様が見ているという健全な抑止がかかることは幸いだと思います。小さい悪は自分だけの被害にとどまらず、回りを巻き込み、その痛手は大きく、自分も他者も心を傷つけてしまいます。神を恐れることは、結局人同士の問題の勃発を防ぐことにつながります。イースト菌は良いものですが、小さい悪はすぐに悔い改めて、赦して頂き、取り除きたいと思います。


「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。」 ルカによる福音書12章1-3節

 
*1*1 申命記16章1-8節 出エジプト記12章15-20節 過越しの祭り参照