Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

ゴスペル@益子

2021年01月31日 | 日記
 日曜の午後3時から、約50分くらいですが、ゴスペルを歌う集会を2020年の4月から益子教会では開催しています。30分くらいはCDの伴奏によって、ゴスペルを歌い続け、その後牧師のショートメッセージで終わります。私は、普段の礼拝では奏楽をしているため、賛美歌を歌う余裕がないので、この時間は思いっきり、体でリズムをとりながら楽しく賛美を歌っています。人数が少ないので3密にもならず、距離をとってマスクをしながら歌っています。軽快なテンポで、ゴスペルを歌える機会は、本当に楽しい時間であり、感謝です。欲を言えば、キーボードやギター、ベースなど伴奏が出来る人が参加してくれたらと願います。神さまがいつか送って下さると祈っています。

 古くから歌われるゴスペルソングで、私たちも時々い歌う曲で、「この日は」(“This is the day”)という歌があります。とてもシンプルな歌詞の繰り返しで、歌いやすい曲ですが、歌詞はとても意味深いものです。下記の聖書の詩編という書簡から引用されています。

この日は この日は
主が造られた 主が造られた
我らは喜ぼう、
この日をば この日をば

This is the day, this is the day.
That the Lord has made, that the Lord has made.
I will rejoice, I will rejoice,
And be glad in it, and be glad in it.              (“This is the day”)

 この歌詞は、当時のユダヤ人がエルサレムにある都に礼拝に上って行くとき(巡礼の、都のぼりの時)に歌われていた詩編から引用されたものです。2千年前、イエス様ご自身も、過越しの祭りという時期に、弟子達と最後の晩餐を共にされてゲッセマネの園に行く途中に歌われたと思われる一節であります。*1 イエス様は、このゲッセマネの園で宗教家たちに逮捕され、違法の裁判に架けられ、十字架刑に処せられるという、想像を絶する死と苦しみの直前にこの歌を歌われたことになります。そんな恐ろしい、とても喜べないような時に、「神さまが設けられたこの日を喜ぼう」と心底歌えたのでしょうか。ゲッセマネの園では、イエス様じゃ父なる神様に血の汗を流しながら、苦しみ悶えて祈っておられたと聖書は記しています。しかし、祈りの最後には「あなたの御心が行われますように」と、神さまに全て委ね、十字架に向かわれました。イエス様にとって、この苦しみの日は死で終わるのではなく、神さまが計画されていた、人間を救うために必要だった大きな犠牲の日で、その後にイエス様は復活されるということをご存じだったからこそ、恥と苦難の日であっても、それを忍ばれて、神様が設けられた日を喜び楽しめたのではないかと思うのです。

 私たちの日々の生活も、いつも楽しいことばかりではありません。むしろ、心配や苦悩、骨折れる日々を過ごされている方のほうが多いと思います。それでも、一日一日を神さまに感謝して喜べたらと願います。イエス様も「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 」*2と言われています。その根拠は、その前述の「神の国と神の義を求めなさい、そうすれば。。。与えられる」です。神様の支配される領域(国)と神様の基準の正義(義)を求めていれば、必要なものは与えられるから、心配することはない、明日のことは神様がなんとかしてくれるから、神様に委ねて、平安な心でいなさいと言って下さるのです。なんという励ましの約束でしょうか。今抱えている状況を無理に喜ぶのではなく、悲しい時には悲しみ、泣きつつ、同時にすでにイエス様が十字架で私のためにして下さった事を思い起こして、そのことを感謝出来ると思います。またイエス様がその苦しみを忍ばれたことを思い、自身も神さまの助けを求めつつ励まされて、日々歩んでまいりたいと思います。
  
「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。 」詩編118編24節

*1マタイによる福音書26章30、36節
*2マタイによる福音書6章33-34節 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」

会うのを楽しみにして

2021年01月24日 | 日記
 先日、義理の兄が用事があって益子を訪ねてきてくれました。義理の兄とは一年ぶりに会いましたが、彼が益子に来るのは24-5年ぶりだとか。近くに住む、家族ぐるみの長い付き合いの友人宅にも一緒に立ち寄ることができ、四半世紀近く経っての再会をお互い喜んでいました。短い時間でしたが、やはり顔と顔を合わせて、またその人の家を訪問して様子を知ることができる機会は、今のようにいつでも自由に会えないという状況下において貴重なことです。

 ある人と会いたい、いつか会える・・・と想うことは、普段の生活をする上でも励みになったり、楽しみであります。私の短い人生の中で、日本とアメリカとを行き来していて、多くの友人が与えられ、お世話になりました。それらすべての人と会う機会がなかなかないかもしれませんし、まめに連絡をとり続けるというのも、難しいものです。しようと思えばネットの普及でPCやスマホ越しに、コミュニケーションを取れるのですが、正直私は、多くの人といつも連絡を取り合うまめさがないのです。しかし、連絡を頂ければ返し、思い出してはその人のためにお祈りをしています。

 先日、朝に聖書とともに読む本を読んでいると、ヒットすることばがありました。 
 
「キリスト教徒は、突き詰めれば、「イエスというお方の姿を見たい」という望みと、そのための努力にほかなりません。」*1

 私は正確に全ての他の宗教を把握していませんが、おそらく他の宗教において、神様に会うのを楽しみにして生きている、それが人生の動機や言動力となるという宗教はあまりないと思います。神さまや仏さまは、「今」の自分や家族を守り、願いを叶えてくれる存在であり、それさえしてくれれば特に会いたいとも思わないでしょうし、せいぜい、人が造った仏像等の像を拝見して、あらたかだ、素晴らしいと思う機会はあって、それを楽しみにする人はいるかもしれません。しかし、目に見えない神に会えるのを楽しみにし、希望を持って、今生きている生活を続けていこうと励まされるのは、イエス・キリストを神と信じているキリスト教だけではないかと思います。

 なぜそんな望みを持てるのでしょうか?私にとっては、キリストが私の為にすでにして下さったこと、また今もこれから先のことに対して、その恵みに感謝し、感謝し尽くすことができない程だから、というのが理由です。すでにして下さったこととは、キリストが私に命を与えるために、十字架に架かってくださったこと、そして私は全ての縛りや罪の支配から解放され、赦されて、天の父なる神様より、子としての全ての特権を与えられていることです。そして今もこれから先のこととは、私が生きている上で、聖霊が内に住み、弱い、欠けのある私をやさしく導き、守り、どんな困難に会おうとも、この体が滅びようとも、いつか天でイエス様に会えるという希望により、平安でいられることです。試練・患難はあります。あると聖書にも書いてありますし*2、どの人でも試練のない人生はないと思います。しかし、キリスト者は、キリストにあってその試練を乗り越えられる、神様がなんとかしてくれると委ねられます。不安の念に襲われたり、仕方がないと投げやりなることもなく、困難に向き合って歩む力があたえられるというのは、本当に恵みです。

 このキリストを信じる信仰を持ち続けられるよう、日々導き、そしていつか完成して下さるイエス様にいつかお会いできるという思いをもって、人生の行程を走り続けていきたいと願い求めていきたいと思います。

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。 」ヘブル人への手紙12章2節 (口語訳聖書)

*1 「ひと時の黙想 主と歩む365日」 1月17日 主イエスを見つめる より、
 マックス・ルケード著 日本聖書協会 発行・翻訳
*2 「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。ヨハネによる福音書16章33節

望郷の想い

2021年01月07日 | 日記
 2021年がスタートし、はやくも一週間が経とうとしています。夫と結婚してから毎朝二人でしていることは、聖書を読み、そのことについて自分たちが示されたことを短く分かち合い、祈ってから一日を始めています。どの聖書の箇所を読むかは、年ごとに毎日読む箇所(大概、短い文章)が記されている本、いわゆる「日々のみことば」の類のもので、いわゆるデボーション用の本でネットでも多く見られますが、それにそっています。今年の1月1日の箇所は、「私たちの国籍は天にあります。」ピリピ人への手紙3章20節でした。

 普段の生活で、あまり自分の国籍というものを意識することはないかもしれません。私は海外に住んでいた時は、自分がエイリアン(異邦人)であることをひしひしと感じていました。その国民であることによって受けられるサービスや恩恵を受けられ、自由に自分の想いを表現できる言語を使いこなせる土地に住む事ができるのは幸いだなと、日本に帰国して実感いたします。また自分のアイデンティティを確認する時に、自分は日本人だということを考えるのではないでしょうか。在米の私の日本人の友人たちでアメリカでの人生が長い人は、アメリカ国籍を取得している人もいました。つまり、日本人であっても、国籍はアメリカとなります。

 一方で、海外在住が長くとも、日本にいつかは帰りたいという思いがあり、日本国籍のまま働き、生活している方々もいます。いずれにしても、最終的に帰りたい、何かあれば帰れるところであるという安心感を持てる、そのような故郷が日本にあると思います。また、日本国内でも地方から都会に出てきている人々には、故郷という場所は家族がそこに居る限り、何かあったら帰れるという場所であり、都会での生活が大変であっても、その故郷のことを思って頑張ろう!と励まされる人もいると思います。

 クリスチャンにとって、この世での生活は仮住まい(寄留者の生活)であり、いつか天の故郷へ行けるという望郷の思いが与えられていることは幸いです。なぜなら、この世の生活では嬉しいこと楽しいことばかりではなく、むしろ困難なことの連続かもしれないからです。若い時はその時なりに、学校や会社で人間関係に悩み、年を重ねると、以前のように活動できなくなったり、病気になったりと、いつも順調には人生進みません。しかし、どんな時でも、「ああこれで終わりか、もう踏ん張れない、、」という思いではなく、「そうだ、最終的には天国という故郷が用意されている、今は神さまに全てお任せしよう!」と信じられる信仰が与えられると、それが生きる上での支えになり、前向きに困難にとりくめる力が神さまから与えられます。

 下記のように聖書のヘブル人への手紙に記されています。
「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」へブライ人への手紙13章13-16節

 天の故郷を待ち望みつつ、今、特定の国や人ではなく、全ての人が大変な困難を通っているという時代において、このことを覚え、日々励まされ歩んでいきたいと念頭から励まされました。

「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」ピリピ人への手紙3章20節 (口語訳聖書)