Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

親子ゴスペルクラブ 始めます!

2022年08月21日 | 日記
 益子教会では、2022年9月より 毎月第一土曜の午後3-4時に 親子で参加する「親子ゴスペルクラブ」を始めることになり、今準備をしています。
 ゴスペルを歌うことを通して、教会という敷居が高そうに思われる場所に誰でも気軽に来られるようにと、2年半前からゴスペル賛美礼拝を日曜午後に毎週開催してきました。折しもコロナが始まったころでしたので、なかなか人を集めて何か行うというのが難しい状況下。人はなかなか集まりません。私たちはどこかのクワイアに入ってきちんとゴスペルを習ったこともなく、CDを流して歌っていますが、それでも、礼拝として続け、いつか神様がゴスペルをリード出来る人を送って下さるだろうと期待し、祈ってきました。
 それから2年半たったある日、GP(Gospel Praise)というゴスペルクワイアのメンバーで(益子教会のゴスペル賛美礼拝では彼らの歌を取り入れています)、「益子でゴスペルを」とづっと覚えて祈って下さった方がいて、その方が6月に茨城県の常陸大宮チャペルでのゴスペル教室に私たちを誘ってくれました。そこでは、教会の近所のご婦人がたが集まって、お茶を飲んで話した後、ゴスペルを習って歌い、教会の結婚式でそれを発表するために練習していました。私たちはビジターとして参加させていただいたのですが、こんな風に、教会に人が集まって、楽しく歌う様子を見て、益子でもいつかこうなればよいなあという、ビジョンを神様から示していただいたようでした。そして、7月にもう一度参加させていただいた時に、突然その誘ってくださった方が、「益子でやり始めようよ!」と言って、勝田教会の牧師でもあり、GPのメンバーでもある先生を誘って、スタートの日にちまで決めてしまったのには、正直、驚きでした。私たちは、勉強のためにと参加させていただいていたのですが、実際益子に来てくださって協力してくださるということを即座に了解いただき、本当に感動しました。二人ともお忙しい身で、頼んでしまってよいのだろうかと恐縮しながら、これは神様の導き、プレゼントに違いないと確信し、この企画を進めることにしました。
 なぜ親子でというと、まずは礼拝に来るというのはなかなか抵抗があるでしょうから、ゴスペル教室のように教える先生がいて、親子で歌って踊ってと、安心して、楽しいひと時を過ごせる場所を益子教会が提供できるところか始めたいと思ったからです。もちろん、親だけ来ても、子供だけ預けたいというケースも歓迎です。そして、参加される方々の中でもし聖書に興味があれば、聖書の学びの会へと発展させ、子供たちは横で卓球をしたりして遊んでいるという、そのような空間を益子でもつことができたらというのが、私たちのヴィジョンであり、構想です。私は、アメリカに住んでいいた時に、聖書の勉強会をいくつか開いていましたが、お母さんと子供で何組か集まる親子向けの会を開いていました。子供同士は横で遊んでいて、お母さんたちに私が聖書の話をし、その後、お茶を飲んだり、時には夕ご飯も食べたり、女性どうし話がはずみ、楽しいひと時を月一回開催していました。そこに来ていた日本人の女性たちはご主人がアメリカ人の人もいれば、日本人同士の夫婦もいましたし、クリスチャンでない方もママ友つながりで参加され、聖書に振れたのは初めてだけど、とても興味深いと喜んで参加しておられました。私たちの共通点は、アメリカという異国社会での日本人で、それぞれ生活に不便や不都合さを覚えることでした。その状況で、聖書のことばからヒントを得て前向きに、希望をもって生きていこうと互いのために祈って励ましあうことが出来、とてもよい会でした。もちろん、ここ日本では環境が異なりますが、厳しい社会状況であることは変わらず、その中でキリストの福音を夫婦でなんとか伝えていきたいと、日々祈り、その実現を求めています。
 というわけで、長く続くコロナ禍において、「マスクをしてても 楽しくゴスペルを歌おう!」と協力者を与えられ、益子で始めることになりました。ゴスペルの意味「福音、良い知らせ」をこの益子の親子クラブにて 一人でも多くの方が知ってほしいと願いつつ、神様がこれからこの会をどんな展開にしてくださるか、とても楽しみで、期待しいきたいと思います。
チラシリンク   http://praisethelord.web.fc2.com/mashigos1.pdf

「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています。」 コロサイ信徒への手紙1章6節

いつまでも残るもの

2022年08月11日 | 日記
栃木県の益子町では、毎年夏に「ひまわり畑」が見頃となります。遠くから見ると、広大な緑の田んぼの一角が黄色一色となっています。そこがちょうど私の通勤路にあたり、朝早くから多くの観光客がカメラを構えてそのひまわり畑を撮っている姿を横目にし、その美しい光景に癒されております。しかし、しばらくするとその黄色が茶色になり、秋に入ると突然その広い一角からひまわりがなくなり、整地され、翌年には畑もしくは水田に代わります。花畑は美しいけれども、いつまでも残るものではありません。それでもひと時の楽しみが味わえるのは感謝なことです。

 下記の今朝読んだ聖書のみことばによると、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」と記されています。この三つのことは目に見えるものではありませんが、私たち人間の心にいつまでも残り、つまり続くものであると思います。その中で最も重要なのは愛であると記され、この箇所の前に愛とはどういうことかが具体的に書かれています。神様の人に対する愛は、人間同士の愛の中で、もし似ている部分があるとしたら、非常に優良な親の子に対する愛かもしれません。しかしどんなに良い親でも、人である限り限界がありますので、子供にとって良かれと思って親が行うことが、その子供に対して適切でないこともあります。

 しかし、神様の愛は、誰に対しても同じで、偏りがなく、人に見返りを求めません。そして、神様の愛は私たちにキリストを信じる信仰を与え、そしてその信仰に基づいて、生きる希望を与えることが出来ます*1。「神は愛である」*2と言われるように、神様のご性質そのものが愛であるからです。人がしたいと思ってもなかなかできないことのリストが、神様の愛:「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」*3ではないでしょうか。

 私は日々の生活で、なんとこれらの愛が自分のうちにないことを実感させられます。特に職場で、愛のない自分の言動に落ち込み「ごめんなさい」と悔い改めることばかりです。この進歩がない私を神様は日々赦し、恵みを与え、愛で包んでくださり、みことばで朝と昼休みに励ましてくださるから、前に進んでいけます。「神様助けて下さい。あなたの愛を、忍耐する心を与えてください!」と心のなかで祈り、叫ぶと、なんとか自身の感情を抑えられ、たとえ自分はこれ以上何もできない状況でも、結果的にことが進んだりすることがあります。そして「主よ、今日もありがとうございます!」と感謝の祈りを捧げられるのです。

 自分の中に愛がなければ求める、そうすれば神様は聖霊によって愛を与えて下さるというみことば*4により、私は支えられています。どんな困難な状況であっても、良い方向へと神様が導いてくださるという希望をもって、すべてはキリストのお陰であることを覚えつつ、たえず主に感謝と賛美を捧げていきたいと願います。

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 コリント信徒への手紙13章13節

*1 ローマの信徒への手紙 5章1-2節 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 」
*2 ヨハネの手紙第一 4章8節
*3 コリント信徒への手紙13章4-7節
*4 ローマの信徒への手紙 5章5節 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」