Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

婚約式

2020年09月26日 | 日記
 先日、夫が婚約式の司式を執り行うため、郡山へ一緒に出掛けました。婚約式とは、結婚の約束を神様の前で約束する式ですが、クリスチャンであっても婚約式は特にせず、結婚式だけするカップルも多いです。夫が司式したカップルは40代前半で、二人共長い間結婚のことを神様に祈ってきたそうで、神様が用意して下さった相手に出合えたという喜びに溢れ、幸せそうでした。女性の方は神様が長年の祈りに答え、素晴らしい人を与えて下さったと感動して泣いていました。そして、男性の方は、婚約式をすることでこの先に予定される結婚式への心の準備と決意が固まり、身が引き締まる思いですと言っていました。今の時勢ですから内輪の集りでしたが、心温まる式とその後の簡単な交流の時が持たれ、皆でお二人の神様への感謝と幸せの思い、喜びを共に分かち合えました。そして、私たち夫婦にとってちょうど4年前の婚約式、結婚式のことを思い出す機会ともなり、あらためて神様に私たちの結婚を感謝することができました。私たちも神様が導く結婚を長い間祈り、諦めかけそうになりながらも待ち続けて与えられたので、このカップルの気持ちが良く理解できます。

 神様には、何でも自分の願いを求めることができますが、それがすぐには叶えられない場合、また自分の願った通りに叶えられない場合もあります。タイミングとその方法が私たちの希望と神さまの計画と異なることが多々あるからです。しかし、神様のタイミングがベストであり、また私の願った通りにならなくて、かえって結果良かったということが多かったと思います。聖書には、祈りがすぐに聞かれないというストーリーがいくつかあります。(例えば、なかなか子供が生まれないで苦悩するハンナ、晩年になって子(洗礼者ヨハネ)を授かったエリザベツのケース等)しかし、聞かれるまで祈り続けたその過程に意味があり、その間に祈りの動機が変えられ、神様の計画や思いに近づけられるプロセスとなることがあります。一方、ある祈りはすぐに聞かれ、最終的に聞かれない祈りもあります。しかし、重要なのは、祈りとは自分の願いが通ることではなく、全てを神様に委ねつつ、自分のありのままを神様に訴える、信頼にもとづくコミュニケーションだと思います。

 最近、益子教会では、教会の礼拝が終わった後、その場で短く祈りのひと時を皆で持っています。これは、先月、アメリカのフィラデルフィア日本人キリスト教会の礼拝にリモートで参加した時、「とりなしの祈り」という形でこの教会でなされていたことで、「これはいい!」と夫が益子教会でも導入しようと決めたのです。この祈りの時を始めると、参加されている方々はそれぞれの家族の病気や、今抱えている問題、もしくは神様が祈りを聞いて下さり、こんなに良くして下さったという感謝の祈りも含め、礼拝後その場で分かち合うことができます。この祈りの時は短い時間なので、礼拝後すぐに帰りたい方でも参加可能です。神の家族として、お互いが喜びも悲しみも共有出来、皆が心を合わせて最後に夫がまとめて祈るので、祈祷会という別枠の時間帯に来られない方々にとってももれがなく、神様が祈りのひと時を持つよう導いて下さったと、感謝しています。   

 「みこころにかなう祈りは何でも聞かれる」と下記のみことばにあります。何が「御心にかなう」願いなのでしょうか。マクロ的、究極的な神の御心とは、人がキリストを信じて、永遠のいのちをもつことだとイエス様は言われていますが*1、もっとミクロなレベルに関してはどうでしょうか。私たちの思いでは、例えば「病気が治ること」は御心にかなうことと断定したいですし、悲しいこと、辛いことが神様の御心だとは思えないものです。しかし、「なぜ?」と神さまに叫びたくなるような結果が与えられたとしても、たとえ自分の想う通りにならなかったとしても、神様はなにかしら私の思いを超えたところで、取り計らって下さると平安のうちに受けとめられるように心が変えられていきたいと願います。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」*2とあるように、次第に「自分がこうしたい」という願い自体が最初から、神様のみこころに沿ったものとして出てくるようになり、それを実行に移す機会が与えられるようになればと願うところです。
 
 私は自分の思いがつよく、自分の感情にまだまだ左右されてしまう足りない者です。日々祈り、聖書のみことばに触れて神様の思いを知り、それを自然と願えるよう変えられ、徐々に神様に全て委ねられるようになりたいです。忍耐を持って私を愛して下さる神様の業に期待したいと思います。

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」第一ヨハネの手紙5章14節


*1 「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 」ヨハネの福音書6章40節
*2ピリピ人への手紙2章13節   (引用、新改訳聖書より)

Servant Leadership (人に仕えるリーダー)

2020年09月19日 | 日記
 数十年前の日本では、セルフサービスのガソリンスタンドはほとんどありませんでした。お店の人に「レギュラー満タンお願い」と言うと、一人がガソリンを入れてもう一人が車の窓を拭いてくれてと、私たちはただ車に乗ったままでお金を払えばよいのです。現在でも、そのサービスは続いていますが、改めて全て人にしてもらうことが快適と感じたのは、その後、アメリカに住み、給油をセルフでするのが当たり前だったことを経験してからでした。給油に限らず、人に何かしてもらう、「こうして」というと、その通りに人が自分に仕えてくれるのはいい気分です。また、通常仕事上で管理職になれば責任を伴いますが、部下は上司の指示に従います。

 Servant Leadership(直訳すると、僕的リーダーシップ?)。これは相対する言葉をつなげたように見えますが、アジア学院という、有機農業とリーダーシップを教える学校の基本理念の一つとして打ち出されている言葉です。正確な意味については、アジア学院のホームページに書かれているので参照いただければとおもいますが、この姿勢は農業に限らず、どの分野でも適用されうると思います。リーダーには統率力、リーダーシップ、決断力、能力・技能が問われますが、そのリーダー自身が部下をこき使うのではなく、かえって部下に仕えるという、謙遜な姿勢を持って共に働くと、そのリーダーの下に皆が働きやすく、良い成果を上げることが出来るのではと思います。現実には、政治家でも、企業でも上司は威張っている人が多いかもしれません。しかし、本当に仕事の出来る人、ある分野で秀でる人、皆に信頼されている人は謙虚な方なのかもしれません。

 この精神は聖書に記されている、イエス・キリストが言われた言葉に由来しています。イエス様は神であられたのに、わざわざ限界のある人間となって生まれ、私たちに仕える為にこの人間界に来てくださったからです。下記の聖書の箇所にあるように「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」(人の子とはイエス様ご自身を指す)と、イエス様は弟子たちにも、ご自分に倣って、仕える人になりなさいと教えられています。更に、仕えるためだけでなく、ご自分の命を与えるために来て下さったこと、これは神の子であるイエス様にしかできない業です。

 もし、キリスト教の神が、全能で畏れ多い、恐怖で支配するような存在であれば、私は信じたいと思いません。恐れでは人を支配出来ないからです。しかし、私が信じている神様は、愛そのものであり、優しい方であり、そのご性質は、人となって現れて下さった神の子イエス・キリストに示されています。だから、私はその愛を受けとることが出来、信じる信仰が与えられて、今は日々感謝して過ごすことができます。信じたからといって、良いことばかりでなく、生活上、人生の中で困難なこと、苦しいことも、引き続き起こります。しかし、どんな状況においても神様の守りの中に、自分が生かされているという安心感が与えられます。それだけでなく、信じてキリストに従って歩んでいこうとすると、自分の内側の性質が、キリストの光に照らされて、汚い部分、心の苦い部分が変えられていくという希望が与えられているので、日々、自分の心のふがいなさに落ち込むことにとどまらず、仕切り直してなんとか生きています。

 傲慢な心、不満を持つ心では、人との関係においてどうしてもギクシャクしてしまいますが、相手がどうであれ、親切に、謙遜な姿勢で、立場とかに関わらず相手に仕える気持ちで対応していくことができれば、相手も柔らかい態度になってくるでしょう。私も、日々傲慢な心がふっと湧ます。そういう時はすぐにこのイエス様の相手に仕えるという姿勢に倣い、家庭でも、職場でも、教会でも、街中でちょっと出会う人に対しても実行できるように、変えられていきたいと願います。

”そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 ” マルコの福音書10章42-45節

資格は取れた。が、計画とおりにいかず。。

2020年09月13日 | 日記
 私は10年前に介護支援専門員(ケアマネージャー)の資格を取得しましたが、その時期にアメリカへ転居してしまったので、その資格を用いて実務経験をしていません。今日本で勤務している仕事でも必要ないため、この先使わないのであれば、時間とお金をかけて講習を受け更新をする必要があるのだろうかと考えるところです。ただ、将来使えるようにと、この資格を持てるように計らって下さった神様の意図を思い、保持をしてきたという経緯(一度試験に落ちたのに、試験問題の不備で繰り上げ合格となったという奇跡!)があります。とりあえず、コロナ禍もあるので、更新講習を一年延期することにし、来年また考えることにしました。

 私は先々のことを考え、計画を建てて、こつこつと準備するタイプです。でも、私の計画はいつも計画通りにいきません。つまり、私の計画は完全ではないし、ましてや社会がどう動くかは先行き不透明であり、何事にしても計画通りにいかないのが当たり前と思っています。しかし、社会生活をする上で、計画をたて、実行することはむしろ常識的で、求められることです。ただし、計画を立てる上で、その動機というのが今日の聖書の箇所のよると計られるようです。

 自身も含め、人は自分の考えたことは正しいし、妥当だと、自分の常識や自分の置かれた立場、状況によって思い、それらの考えに基づいて、計画し、実行するでしょう。ただし、人の価値基準は相対的であり、時代や国によっても異なります。その人には良くとも、周りの人には共通して正しいことでない、損となる場合もあります。皆が神様に自分の都合に基づき、「願いを叶えて下さい」と祈ったとしたら、利益が相反してしまうのではないでしょうか。

 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」 *1と聖書には書かれています。性格の良い人、仁徳がある人は、「私は陰険ではない」と思うかもしせません。しかし、もしかしたら本人に自覚がないだけかもしれません。聖書の前提が、人は罪の性質を持って生まれ、自分の持ち前の気質では聖く、正しくいられず、自己中心的な思いは必ずあるというところに立っています。それを「陰険」と表現してしまうのは、いささか言い過ぎなのでしょうか。キリストを信じた後でさえも、その陰険な性質が残っている場合があります。例えば聖書を基に、自分の行い・主義・主張が神の前に正しいと思い、他者を裁き、愛の心が欠ける、そして決裂してしまう悲しいケースが教会の中でも見られます。なぜ和解できず、決裂してしまうのか。それは陰険さが残っているからではないでしょうか。

 グッドニュースは、だれもその陰険を直せないけれども、神様には直せるということです。そのために、神様がイエス・キリストを救い主としてこの世に送って下さったからです。すぐには、性格や性質はかわらなくとも、まずは自覚するところから始め、神様に正直に祈って告白することが互いにできれば、平和の源であるイエス様が和解に導いて下さると信じます。「これくらい、いいでしょう」という小さいことは心に根付き、後々大きな問題となっていきます。だからこそ、私も日々、自分の内側を聖霊に探っていただき*2、罪があれば示され、その罪をごめんなさいと神様の前にもっていき、赦され、清められたいと願います。自分の思いや計画が異なっても、寛容な心を与えられ、他者が自分より優れていると思える、柔和な、謙遜な心で対応できるように、その機会があるごとに心が変えられていきたいと願っています。 そうしていけば、陰険さが直されていくことでしょう。すると、たとえ思ったように物事が進まなくとも、神様に委ねることができます。そして、一度自分の立てた計画の狙い、動機をもう一度吟味し、神様の思いにそった計画に導かれること期待し、柔軟性を持っていきたいと思わされました。

「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる。 あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」 箴言16章1-3節 (新改訳聖書)

*1 エレミヤ17:9 (新改訳聖書)

*2 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139篇23-24節)

リモート(Zoom)での礼拝

2020年09月07日 | 日記
 PCの画面の上には、4年振りにお会いする懐かしいお顔がいくつも並んでいて、私は思わず手をふり「お久しぶりです!」と声をあげました。昨晩は、私がアメリカ在住時に大変お世話になったフィラデルフィア日本人キリスト教会の礼拝に、リモートで日本から参加する機会が与えられました。折しも、その教会の牧師さんがお休みを取られるということで、ゲスト説教を私の夫が頼まれたのです。私たちの今仕えている益子教会を紹介する上でちょうど良い機会でもあったので、依頼を受けた時はすぐに引き受け、試行錯誤をしながらZoomのソフトをダウンロード。実際つながった時は思った以上に臨場感があり、ITの恩恵に感謝しました。

 この教会ではこの方式を導入して半年経つそうです。今では、アメリカ東部地域は新型コロナ感染がコントロールされているので(それでも数字的には日本とはケタ違いに多いですが)、参加人数を少なくし、礼拝堂に集まる人とリモートで参加する人とにわけ同時並行で礼拝を行っているそうです。そして、この教会の工夫の素晴らしいと思った点は、礼拝が終わった後「さようなら」ではなく、その後、順番にこの一週間の近況を報告するという、分かち合いの時間を持っているところでした。司会者が建てられ、人数も20人前後なので、一人数分話しても一時間もかかりません。もちろん、用事がある人はいつでも退席可能です。この分かち合いをすることで、遠方のため、また病気、その他の事情でその場に行くことが出来ない人でも、リモートでお互いの顔を見つつ会話ができ、孤独にはならず、お互いのことを覚えて互いに祈り合えるという、新しいスタイルの交わり(フェローシップ)だと関心しました。

 もちろん、実際集まれることがベストです。しかし、そうできない社会情勢がある場合、リモートを利用する価値と意義はあると実際参加して思わされました。私たちの教会は人数が少ないため3密になることはなく、感染対策をしながら礼拝を集まってしてきましたので、他の教会がリモート礼拝をしていることを聞いてもあまり興味を示しませんでした。しかし、アメリカの教会で、日本にいながら説教ができる、礼拝に参加できるということは本当に恵みだと感動します。贅沢を言えば、時差がなければもっと楽なのですが。(アメリカ東部と日本は11-12時間の差)

 キリスト教が初まった頃の教会の信徒達は、厳しい社会情勢(宗教的迫害)により、自由に集まって礼拝できない時期がありました。トルコの有名な観光地の一つに、「カタコンベ」といって、山の斜面に穴を掘って隠れて住んでいたクリスチャンたちの住居の遺跡は有名です。迫害を恐れて礼拝に集まることを辞めてしまった人も多かったと察します。もしくは、「信仰は独りで信じていれば良い」と他者との関わりをしない主義の人々もいたかもしれません。しかし、教会は「集まる」ことに関しては、他の団体以上に意味がある、大切なことです。なぜなら、教会のことをギリシャ語で「エクレシヤ」と言い、「呼び集められた者たち、集まるように召し出された者たち」を意味 するからです。ですから下記の聖書の箇所の筆者は、「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合おう」と勧めを書いているのだと思います。公に集まることが許されなければ、隠れて集ったように、現代のように公衆衛生上集会が開けない状況であれば、リモートで集ればよいのです。パソコン・スマホの操作ができなければ、出来る人に基本を設定してもらい、後はボタンを押すだけの最低限の操作にまで準備できれば、誰でも利用出来るのではないでしょうか。実際、フィラデルフィアの礼拝に参加されている日本人の方々の半分は若い世代ではなくとも、最新のITを使いこなされていました。

 私たちは、一人では信仰を持つ続けるには弱い存在です。夫が説教の中で「互に愛し合う」*という箇所を話し、お互いを覚えて祈り合うことの大切さを話していましたが、独りでは「互いに」ができません。相手があって初めて「互い」となります。お互いのことを知り、近況を分かち合い、そしてお互いの悩み、問題を神様に委ねて祈り合えます。そして何よりも大切なことは、共通の希望を持っていることです。その希望とは、イエス・キリストです。キリストご自身が平和であり、愛であり、その方を信じる私たちも、その平和と愛にあずかることが、人の能力や意志の力ではなく、聖霊の働きで可能だからです。そしてこの希望は、聖書に記されている神様の約束に基づいています。ですから、日々聖書のみことばを読み、なんらかの手段でコミュニケーションを取り続け、互いに祈り合って、励ましあっていきたいと思います。 


「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 」ヘブル人への手紙10章23-25節(新改訳改訂第3版)


*「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 」 第一ヨハネの手紙4章10-11節 (口語訳)