先日、夫が婚約式の司式を執り行うため、郡山へ一緒に出掛けました。婚約式とは、結婚の約束を神様の前で約束する式ですが、クリスチャンであっても婚約式は特にせず、結婚式だけするカップルも多いです。夫が司式したカップルは40代前半で、二人共長い間結婚のことを神様に祈ってきたそうで、神様が用意して下さった相手に出合えたという喜びに溢れ、幸せそうでした。女性の方は神様が長年の祈りに答え、素晴らしい人を与えて下さったと感動して泣いていました。そして、男性の方は、婚約式をすることでこの先に予定される結婚式への心の準備と決意が固まり、身が引き締まる思いですと言っていました。今の時勢ですから内輪の集りでしたが、心温まる式とその後の簡単な交流の時が持たれ、皆でお二人の神様への感謝と幸せの思い、喜びを共に分かち合えました。そして、私たち夫婦にとってちょうど4年前の婚約式、結婚式のことを思い出す機会ともなり、あらためて神様に私たちの結婚を感謝することができました。私たちも神様が導く結婚を長い間祈り、諦めかけそうになりながらも待ち続けて与えられたので、このカップルの気持ちが良く理解できます。
神様には、何でも自分の願いを求めることができますが、それがすぐには叶えられない場合、また自分の願った通りに叶えられない場合もあります。タイミングとその方法が私たちの希望と神さまの計画と異なることが多々あるからです。しかし、神様のタイミングがベストであり、また私の願った通りにならなくて、かえって結果良かったということが多かったと思います。聖書には、祈りがすぐに聞かれないというストーリーがいくつかあります。(例えば、なかなか子供が生まれないで苦悩するハンナ、晩年になって子(洗礼者ヨハネ)を授かったエリザベツのケース等)しかし、聞かれるまで祈り続けたその過程に意味があり、その間に祈りの動機が変えられ、神様の計画や思いに近づけられるプロセスとなることがあります。一方、ある祈りはすぐに聞かれ、最終的に聞かれない祈りもあります。しかし、重要なのは、祈りとは自分の願いが通ることではなく、全てを神様に委ねつつ、自分のありのままを神様に訴える、信頼にもとづくコミュニケーションだと思います。
最近、益子教会では、教会の礼拝が終わった後、その場で短く祈りのひと時を皆で持っています。これは、先月、アメリカのフィラデルフィア日本人キリスト教会の礼拝にリモートで参加した時、「とりなしの祈り」という形でこの教会でなされていたことで、「これはいい!」と夫が益子教会でも導入しようと決めたのです。この祈りの時を始めると、参加されている方々はそれぞれの家族の病気や、今抱えている問題、もしくは神様が祈りを聞いて下さり、こんなに良くして下さったという感謝の祈りも含め、礼拝後その場で分かち合うことができます。この祈りの時は短い時間なので、礼拝後すぐに帰りたい方でも参加可能です。神の家族として、お互いが喜びも悲しみも共有出来、皆が心を合わせて最後に夫がまとめて祈るので、祈祷会という別枠の時間帯に来られない方々にとってももれがなく、神様が祈りのひと時を持つよう導いて下さったと、感謝しています。
「みこころにかなう祈りは何でも聞かれる」と下記のみことばにあります。何が「御心にかなう」願いなのでしょうか。マクロ的、究極的な神の御心とは、人がキリストを信じて、永遠のいのちをもつことだとイエス様は言われていますが*1、もっとミクロなレベルに関してはどうでしょうか。私たちの思いでは、例えば「病気が治ること」は御心にかなうことと断定したいですし、悲しいこと、辛いことが神様の御心だとは思えないものです。しかし、「なぜ?」と神さまに叫びたくなるような結果が与えられたとしても、たとえ自分の想う通りにならなかったとしても、神様はなにかしら私の思いを超えたところで、取り計らって下さると平安のうちに受けとめられるように心が変えられていきたいと願います。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」*2とあるように、次第に「自分がこうしたい」という願い自体が最初から、神様のみこころに沿ったものとして出てくるようになり、それを実行に移す機会が与えられるようになればと願うところです。
私は自分の思いがつよく、自分の感情にまだまだ左右されてしまう足りない者です。日々祈り、聖書のみことばに触れて神様の思いを知り、それを自然と願えるよう変えられ、徐々に神様に全て委ねられるようになりたいです。忍耐を持って私を愛して下さる神様の業に期待したいと思います。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」第一ヨハネの手紙5章14節
*1 「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 」ヨハネの福音書6章40節
*2ピリピ人への手紙2章13節 (引用、新改訳聖書より)
神様には、何でも自分の願いを求めることができますが、それがすぐには叶えられない場合、また自分の願った通りに叶えられない場合もあります。タイミングとその方法が私たちの希望と神さまの計画と異なることが多々あるからです。しかし、神様のタイミングがベストであり、また私の願った通りにならなくて、かえって結果良かったということが多かったと思います。聖書には、祈りがすぐに聞かれないというストーリーがいくつかあります。(例えば、なかなか子供が生まれないで苦悩するハンナ、晩年になって子(洗礼者ヨハネ)を授かったエリザベツのケース等)しかし、聞かれるまで祈り続けたその過程に意味があり、その間に祈りの動機が変えられ、神様の計画や思いに近づけられるプロセスとなることがあります。一方、ある祈りはすぐに聞かれ、最終的に聞かれない祈りもあります。しかし、重要なのは、祈りとは自分の願いが通ることではなく、全てを神様に委ねつつ、自分のありのままを神様に訴える、信頼にもとづくコミュニケーションだと思います。
最近、益子教会では、教会の礼拝が終わった後、その場で短く祈りのひと時を皆で持っています。これは、先月、アメリカのフィラデルフィア日本人キリスト教会の礼拝にリモートで参加した時、「とりなしの祈り」という形でこの教会でなされていたことで、「これはいい!」と夫が益子教会でも導入しようと決めたのです。この祈りの時を始めると、参加されている方々はそれぞれの家族の病気や、今抱えている問題、もしくは神様が祈りを聞いて下さり、こんなに良くして下さったという感謝の祈りも含め、礼拝後その場で分かち合うことができます。この祈りの時は短い時間なので、礼拝後すぐに帰りたい方でも参加可能です。神の家族として、お互いが喜びも悲しみも共有出来、皆が心を合わせて最後に夫がまとめて祈るので、祈祷会という別枠の時間帯に来られない方々にとってももれがなく、神様が祈りのひと時を持つよう導いて下さったと、感謝しています。
「みこころにかなう祈りは何でも聞かれる」と下記のみことばにあります。何が「御心にかなう」願いなのでしょうか。マクロ的、究極的な神の御心とは、人がキリストを信じて、永遠のいのちをもつことだとイエス様は言われていますが*1、もっとミクロなレベルに関してはどうでしょうか。私たちの思いでは、例えば「病気が治ること」は御心にかなうことと断定したいですし、悲しいこと、辛いことが神様の御心だとは思えないものです。しかし、「なぜ?」と神さまに叫びたくなるような結果が与えられたとしても、たとえ自分の想う通りにならなかったとしても、神様はなにかしら私の思いを超えたところで、取り計らって下さると平安のうちに受けとめられるように心が変えられていきたいと願います。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」*2とあるように、次第に「自分がこうしたい」という願い自体が最初から、神様のみこころに沿ったものとして出てくるようになり、それを実行に移す機会が与えられるようになればと願うところです。
私は自分の思いがつよく、自分の感情にまだまだ左右されてしまう足りない者です。日々祈り、聖書のみことばに触れて神様の思いを知り、それを自然と願えるよう変えられ、徐々に神様に全て委ねられるようになりたいです。忍耐を持って私を愛して下さる神様の業に期待したいと思います。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」第一ヨハネの手紙5章14節
*1 「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 」ヨハネの福音書6章40節
*2ピリピ人への手紙2章13節 (引用、新改訳聖書より)