Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

小さな種の力

2021年02月28日 | 日記
 有名な芸術家は必ずしも、彼らが生きている間に評価され、日の目をみるとは限りません。絵画や音楽等、その人が亡くなってから、後世に続く芸術作品として評価され、多くの人々に鑑賞され、影響を及ぼす場合もあります。きっと彼らは生きている間、「ああ、自分は才能がないのかな」と失望することもあったでしょうし、生活に困ったことあるでしょう。一方で「自分の表現したいものを表現したい」と、単に商業的に人受けるすものを制作するにとどまらず、自分の持っているものを固辞しているのではないかと思います。

 ジョージ・スミス氏という、宣教師としてアフリカのある地に赴きましたが、短期間しか滞在できず国外追放となり、自国に戻らざるを得なかったという人がいるそうです。彼はその限られた時間に、たった一人の方だけにキリストを宣べ伝え、彼を通してその人だけが信じました。その宣教師は、もしかしたら自分のミニストリ―は成果がない、結局神様の導きではなかったのかと、がっかりしたかもしれません。しかし、100年経ったあと、そのアフリカの地に13000人のクリスチャンがいて、彼らの信仰のもとをたどるとその宣教師につながったという話があります。つまり、神様の目には無駄なことは一つもなく、たった一つの蒔かれた種が木に成長し、多くの実を結ぶことが可能なように、時を経て、その成果が表れることがあります。ただ、その宣教師自身が生きている間は、その神様の業を知ることはできませんでした。

 私が米国フィラデルフィアに在住していた時、ホームステイでお世話になったジェニーという友人は、ご両親が日本で宣教師として数十年新潟の地で伝道活動をされていました。晩年になって御夫妻の証を聴いたことがありますが、日本での宣教活動の成果はほとんど得られず、非常に限られていたと。唯一目だったことをいえば、北朝鮮による拉致被害者家族の横田早紀江さんを信仰に導いたことだったと。その彼女が他の被害者家族とともに、日本政府だけにととどまらずアメリカに渡って、当時の大統領に、拉致問題解決のために嘆願しに行くほどの大きな働きをする人になるとは、宣教師夫妻は想像もつかなかったことでしょう。横田さんは「神がいるなら、なぜ、自分の娘は帰ってこないのか?なぜ長年祈ってもかなえられないのか」と、思われた時もあるかもしれません。しかし、横田さんは祈り続けたそうです。そして、その祈りの会は、数十年続き、昨年の11月200回になるとの、記事を読みました。*1

 信仰は、今目に見えないことにたいして神様にあって望みを持ち*2、祈り続け、働き続けるものであり、粘り強さ、忍耐が問われます。そして、一つの小さな種であっても、それはキリストの福音という大きな力を秘めている種であり、決して無駄に地におちることがなく、必ず神様の力が現れることを信じ続けようと思います。たとえ時間がかかっても、直接的な活動ができない時期が続いても、大きな成果をするにみられなくとも、全てを神様に委ね、神様に期待する信仰を持ちたいと願います。そして、たとい自分が生きている間には成果が見られないかもしれなくとも、小さな種を蒔き続け、天国にて、「ああ、こんなところで、実を結んでいるじゃないか!」と、共に喜べる日が来ることを期待する、そのような信仰を願い、祈り続けようと励まされます。

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。 」 第一1コリント人への手紙15章58節


*1「横田早紀江さん支えた聖書と仲間 「祈り会」200回に」朝日新聞デジタル版、2020年11月14日 https://www.asahi.com/articles/ASNCG5SVRNC5UTIL04R.html

*2 「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」へブル人への手紙11章1節。

益子の意味

2021年02月21日 | 日記
 益子という町の由来を調べてみました。徳川幕府時代の水戸藩家臣益子氏から来ているといわれ、名字としても茨城県、栃木県に多いそうです。なぜ調べてみようと思ったのは、今日の日曜礼拝にてある方が「”益子”っていう漢字を見て、ふと、思いついたんです。”神さまの益に仕える子”という意味で、神さまが益子に教会を置かれているんじゃないかと。自分自身もそのために、ここに呼ばれているように思いました。」と言われたからです。きっと神様は町の名前とご自分の信仰とがふと、結びつけられるという啓示をその方に示されたのでしょう。
 米国東部にフィラデルフィアという市があります。この街はアメリカ合衆国建国の父、ウイリアム・ペンが聖書の黙示録に記されるフィラデルフィア*1(ギリシャ語で”兄弟愛”という意味)にちなんで名前をつけたそうです。アメリカの建国にはこのペン氏のようなクリスチャンたちが関わり、ヨーロッパでの宗教的迫害を逃れて新天地を開拓し、イギリスから独立したという歴史があります。街を新しく建てようとする時に、その街が「こうありたい」という希望や願いが込められて名付けられることはよくあります。ペン氏は兄弟愛を持って、平和的な、争いのない、民主主義の自由な国を目指して、フィラデルフィアと名付けたのではと察します。私も、両親とともにフィラデルフィアにある日本人教会では、短い期間ですが信徒の方々に大変お世話になり、まさに兄弟愛を持って親しくさせて頂いたという思い出があります。このように、聖書に出てくる地名や人の名前が町の名前になったりすることを考えると、益子という、全く関係のなさそうなところに、聖書的な意味があてはめられるのも、その住民としては親しみが持てるものです。
 神様のみこころ、神さまの包括的な大きな計画にそったことは、神様の益であり、また私たちにとって益となります。ここでいう「益となる」とは、この世的なもうかる利益とか、自分に都合のよいご利益(りやく)とは異なります。私たちがこの世に生きている限り、損することのほうが多く、不当な扱いを受けたり、様々な困難、試練は必ずあり、キリストを信じているからといってこれらがなくなるわけではありません。しかし、信仰の中で試練をとらえる時、試練は私たちを神様により強く頼せ、神様への信頼関係が深くなり、信仰が成長するチャンスでもあり、また耐えられないようなレベルの試練は与えられず、また試練の中らから脱出する道をも供えて下さるという約束が与えられています*2。また最終的には、全てのこと、良いことも、また悪いと思えることも合まって、益となるように変えて下さるというみことば*3により、私たちを励まれて前進できつことは、本当に幸いです。
 今置かれた場所で、神様の計画や願いに沿って、神様と人とに仕えたいと日々夫と共に祈り求めています。益子教会の第一のビジョンは、礼拝を第一にする教会で、たとえ人数が少なくとも礼拝を続け、そしてここに集まる人々がシンプルに神様のみことばを聞き、そして信仰が養われ、日常生活においてみことばに励まされて過ごしていこうと思える教会でありたいと願っています。そして、神様は同じ思いを持つ人々をこの益子教会に加えて下さることを信じていきたいと思います。これからも、大変なことはあると思いますし、自分の能力では乗り越えるのが不可能に思えるようなこともあるかと思いますが、神の御心であれば人には不可能でも神にあっては可能である*4というみことばにより、これからも一歩一歩進んで行きたいと感謝をもって励まされました。

*1黙示録 3:7-13
*2「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 」第一コリント人への手紙10:13
*3「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。 」ローマ人へ手の手紙8:28
*4 「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われることができるのですか』と尋ねると、イエスは言われた、『人にはできない事も、神にはできる』」。 ルカによる福音書第18章26-27節

梅の季節

2021年02月14日 | 日記
 先日、近隣の公園に3KMのウォーキングコースがあり、休日にそこを歩いていた時のことです。季節は梅の花が咲き始めるころでした。その公園内の梅園では、まだほとんどが蕾でしたが、白や赤色の梅が少し咲き始めていました。世の中の状況がどうであっても、季節ごとに必ず芽を出し、蕾を膨らませ、花を咲かせていく自然の美しさを観る度に、これらを創られた神さまの業を思い、畏敬の念とともに感動を覚えます。私たちは自然の美しさを求めて、以前はよく日帰りで観光地へ出かけたものですが、最近は人混みをさける時勢であるので、代わりに近隣の普通の公園や、畑や田んぼの道、また小さな森の中トレッキングコーすなどに出かけています。そして、そこでもいつも素朴な自然の美しさを発見し、本当に幸いだと思います。
 イギリスの数学者、哲学者でノーベル賞を受賞したバートランド・ラッセル氏によると、「飽きることへの恐れは少なくとも人類の半分の罪の原因である」と言ったそうです。私は彼がどういう文脈でこのことばを記したのかは詳しくは知りませんが、一般の哲学者からみても、人がもっと、もっとと新しいこと、新しい刺激を追い求めるという欲は、良くない結果を引き起こすと観察していたのだと思います。一方で、人類の新しい技術を求める探求心、好奇心によって、人々の生活が豊かになり、芸術やスポーツ、文化活動は発展していきますし、これら自体は良い物です。しかし、”Curiosity killed the cat”(好奇心が強すぎると身を滅ぼすことになりかねないという英国のことわざ)という面もあります。また、社会が豊かになって、科学技術がどんなに進もうとも、すぐ飽きてしまってもっと他のものを欲しがる人の欲とそれに起因する犯罪、人間関係の悪化、戦争の勃発等は全く改善しておらず、かえってより複雑になり、悪化しているといってもよいでしょう。
 私はもともと、新しいもの、新しいことを追い求めてお金を使わない者で、夫も同様でした。人々はこれらの物に並んで高いお金をだして購入していますが、並んで買うバーゲン等には全く興味がありません。しかし、最初から物欲がなかったわけではありません。20代のころは、新しいスポーツや習い事にチャレンジしたり、旅行に行ったりしましたが、それらは全て一時的で、長く続きませんでした。これらはみな飽きてしまい、それ以上続けることに価値を見いだせなかったのです。結論はみな一時的楽しみであり、私の心の深いところを、継続的に満たすもの、価値のあるものはこの世にはないということでした。もしかしたら、つまらない人間とみなされるかもしれません。しかし、自分では日々とても充実していて、満足できるので幸いです。これは、イエス様を信じる信仰が与えられてから、今迄気がつかなかった神さまの与えて下さる恵みで喜ぶことができ、結果、かなりシンプルに物事をとらえるように変えられてきたのだと思います。 
 自分を含めた人の言動を見ますと、感動する話もありますが、ニュース等、ほとんどが残念に思う、落胆することが多いです。しかし、神様がこの素晴らしい自然と人を目的をもって創られたこと、そして、人を大切に思い、命を永遠に続けてほしい、神と和解してほしいと願われて、神の御子イエス・キリストをこの世に送って下さったことを思うにつけ、感動します。なぜ神さまは、欲を追い求めてしまう、自己中心的な私たち人間に価値を見いだし、御子の命まで犠牲にして、忍耐して愛し続けてくれるのか。それも、良い行いをする人間のためだけでなく、全ての人のために。聖書に記されているみ言葉をとおして、このことを知るにつけ、ただ、感謝の思いで、賛美を捧げ、礼拝したいという思いが沸きあがります。
 下記の箇所は、古代ユダヤ人国家の王であるダビデの詩です。彼の人生は波乱万丈で、失敗もありましたが、生涯神様と共に歩み、そして神様は彼を愛されました。彼も、神様が創られた月と星の美しさを見て、このような大きな宇宙の中の小さな存在である自分を顧みて、守ってくださる神様に対して、驚きと感謝、そして畏敬の念を覚え、この詩をつづったのではないかと想像します。この詩を読んで思うのは、本当の変わらない神様の深い愛が、自分自身に向けられていることを知った時、今与えられているものや状況に満足し、不必要な欲、つまりむさぼる心は自ずと薄れていくのではないかと思わされます。神さまの恵が私の心の深いところをいつも満たして下さり、私の願いが、神様のみ心がなるようにと思えるように変えられていく、これは驚くべきこと、ワンダフルな神さまのなさる業の一つではないでしょうか。

「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」詩編8篇3-4節