Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

相手を祝福するとは

2020年05月18日 | 日記
 葬儀の時、弔辞、追悼の言葉が述べられる機会が多いと思いますが、その場合、故人を偲んで、その方との良い想い出が語られたり、その方の生前の立派だったこと等、通常良いことが述べられます。たとえ、その故人があまり良い人でなかったとしても、特に功績があった人でなくとも、その人の良かったところが語られるでしょう。なぜなら、その亡くなった人がたとえどんな人であっても、葬儀の時に故人を悪くいうものではないという、葬儀での礼儀があるからです。

 先日、教会に来た方が礼拝後に突然こう言いました。「相手を赦すっていうのは、出来る事じゃないですね」と。具体的になぜ、誰をどうして赦せないのかについては話されませんでしたが、同時にその方はこうも言われました、「不思議なことがあってね、昨日まではこれはおかしいと思っていたことに対して、今日、教会の礼拝に来たら、別の考えに繋がって、自分の中で解決してしまったんですよ。」これについても、具体的に何に対して違和感を持ち、そして翌日には大丈夫になったのかをその方は話されませんでしたが、聞いていた私たちがわかることは、その方は土曜も日曜も、教会の礼拝に来ていたことです。彼は現役時代は企業で働く技術者だったそうで、理論的に物事を考えられる方のようで、「聖書は理解するのが難しい、勉強中です」と言われて、私たちの教会の礼拝にもよく来られている方です。

 聖書の言葉は科学の本でも、小説でも哲学書でもないので、理論的、この世の常識では理解できない箇所があり、また矛盾すると思われる箇所があると思います。しかし、聖書は信仰を持って読むとき、自分の知識で理解するものではなく、その時その時に、インスピレーションと表現されるでしょうか、「あっ、そういう事なのか!」とひらめいて、心にストンと落ちるかんじでその内容が理解できることがあります。ですから、私も聖書で何度も同じ個所を読み、牧師さんたちからそのメッセージが語られていても、以前はわからなかったところが、その時には理解が与えられることがよくあります。つまり、私の信仰の成長の度合いに応じて、理解できるように不思議に神様が心の目を開いて下さるのでしょう。

 下記の聖書の箇所は、この箇所だけ読むと、「あっ、これ無理。そうすべきと頭ではわかっているし、キリストの教えだからそう出来ればと願うけど、実際は難しいですよ」と、先の方と同様、クリスチャンでさえも、赦せないと諦めてしまいう相手がいるでしょう。今日、ある牧師から教えられたことは、ここでの「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい」の「祝福する」ということばの原語(eulogeō)の意味は「弔辞」eulogy:英語 と語源が同じで、相手のことを良く言うという意味だそうです。「神の祝福がありますよう」(May God Bless You)のように、神が主語で人を祝福する場合は、神が人に恵を授けると言った意味合いになりますが、人が主語の場合では、相手のことを良く言うと言い換えることができます。相手を赦せなくても、嫌いでも、自分に対して敵対してくる人であっても、キリストの教えは、その相手のことを良く言いなさい、そして呪いのことば、つまり悪口をいってはならないということです。もしくは、自分が積極的に相手を良く言える余裕がないのであれば、渋々であっても、「神様の祝福があるように」と相手の為に祈ることから始めることができるのではないでしょうか。

 キリストを信じると心に与えられる聖霊は、わからなかったことに理解を与えたり、忘れていたことを思い起こし*、不思議に心が変えられているとい現象のように、例えば、赦そうという心に導く働きをされます。聖霊は目に見えませんが神の霊であり、人がキリストを信じる前はその人の傍らから、つまり外側から、聖書の言葉だけでなく、人の言動をも通してその人の心に働きかけます。そして信じる心に導き、その人が信じると聖霊は心の中に入って、その人の内側から静かに語り掛け、導きを与えます。常識的に、理論的に、性格的に、「これは無理」と諦めていたことも、そのことが人との平和に繋がること、神様の愛に繋がることであれば、神様は必ず相手を赦せるように心を変えて下さる方です。赦すとは、その人が赦すに相応しいから赦すのではなく、単に弔辞では良いことしか言わないものだという礼儀以上に、キリストが自分をそもそも赦してくれたのだから、自分も人を赦そうと決めること、そして時間がかかっても赦す心に変えられるまで神様に祈り求めることが必要だと思います。そうすると、いつか、ある時、「不思議なことがおこったんだよ」という経験をし、相手に対する苦い思いが心を支配することがなくなり、心が解放されることでしょう。

 心の内で、何か赦してもらうべきことがありますか?自分を傷つけたことを赦せないという憎しみ、ある人を嫌い続ける苦い思い、傲慢な思い、人に言えない過去にしたことと、それによる罪責感、強迫観念、そして神なんかいないという思い。。。どんなことであっても、神様はキリストを通して、赦して下さる方です。ただそれを神様に持っていけば良いのです。自分自身が神様に赦された経験をした人は、人間同士の関係において、たとえ相手がどんな人であっても赦そうという思いに導かれるからです。
  

「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。」ローマ人へ手紙12章14節

*「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 」ヨハネによる福音書14章26節