Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

即位の礼と政教分離をどう考えるか

2019年10月26日 | 日記
 10月22日に新天皇の即位の礼が行われました。ある日本のキリスト教信者の方々とグループは、「大嘗祭」 を「皇室神道に基づく宗教的儀式」とみなして、これに公金を支出することは政教分離原則を空文化 し、また信仰の自由を脅かす憲法違反(憲法20条、憲法89条)として、反対の声明文を出しているそうです。以前、皇室内(秋篠宮様)からもこの件について異論が唱えられたのは、耳に新しいと思います。過去、平成の即位の礼の時、クリスチャンだけではなく、外国籍者を含めた約1700人の納税者が大阪地方裁判所に、「税金を、憲法違反の即位の礼・大嘗祭に使うべきでない」と訴訟を起こしたということもありました(即位礼・大嘗祭国費支出差止等請求事件)。

 私は、クリスチャンとしてこの議論についてもし他者から意見を求められたら、この聖書の箇所「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。 」を引用し、自分の意見を信仰に基づき表明するつもりです。つまり、「上に立つ権威」とは全ての政府のことも含み、それらが聖書の神様によって権威が立てられているので、たとえその政治家が悪い者であっても逆らわないということです。「したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。 」*1と続いて書かれてあります。しかし、この聖書の教えは、悪政や酷いことをする者たちを神が認可しているという意味ではありません。なぜなら、神様は正義と平和、愛の神であるからです。そして、悪い者が悔い改めない限り、いつか神がその者裁かれるので、私達が復讐をしなくても、また自身が他者により不利益を被り、悔しい思いをしようとも、全て神に委ねると聖書に書かれているからです。*2

 神であるイエス・キリストが、人となられ2千年前にイスラエルの国で宣教活動をされていた時、当時のローマ帝国の圧政下にありました。その政府に対して彼は何をしたか、またどう対応するように弟子たちに教えたか?そして、弟子たちがイエスの福音をローマ帝国内に宣教し、クリスチャンは増え、皇帝崇拝をしないと激しい迫害に会いましたが、その時、彼らは政府と戦ったでしょうか?信仰の自由を訴えて訴訟を起こし、デモ活動や武力行使をしたでしょうか?いえ、しませんでした。なぜなら、イエスの教えは「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 」*3であり、イエスご自身も、何の罪ないのに逮捕され、不当な裁判に架けられて十字架刑に処せられましたが、一言も無罪を訴えて戦うことをされませんでした。

 一方、キリストを信じる信仰を捨てなさいという命令、また人を殺したり、盗んだリ等の教えに反する違法行為の命令を上からされたら、もちろん断ります。それが出来なければその属している組織を去るしかないでしょう。この「上に立つ権威に従う」とは、キリストを信じる信仰が大前提であるので、そのキリストの教えを破るように命令されたら拒否すべきです。ただ、自分の権利を主張して裁判に訴えたり、政治的行動にでたり、ましてや武力にはでません。イエス様は「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 」と言われ、イエスを守ろうとして剣で戦おうとした弟子を止めたからです*4。もちろん、正義のために政治活動をしている人を批判するつもりはありません。「私」は聖書のことばに従い、またイエスの教えに忠実に従った初代の使徒やクリスチャンたちの態度を可能な限り踏襲していきたいと思うのです。

 もし政府から「信仰を捨てなければ殺す」と言われたら、逃げるか、隠れるか、見っかったら踏み絵を踏んでしまうかもしれない、私はそんな弱い者です。その時になったらどうなるかわかりません。しかし、神様を信じて行動したいと思います。いずれにしても、この世にいる限りキリストを信じる者は迫害されると予めイエスは言われていますし、どの時代であれ、どの国に置かれようとも、いつでも神を信じる者に対しての環境は厳しいものです。しかし、同時にイエスの力強い励ましのことばがその予告の後に続くので、それが「その時」がきたら私の恐れを取り除いてくれると信じます。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 *5 宗教的迫害だけでなく、人生のどんな困難な局面にあっても、キリストが与える平安さえ心にあれば、キリストがすでに勝利しているので、私もキリストにあって悪から守られ、「自分の敵」に対して祈れる者になれるよう、「善を持って悪に勝つこと」*6ができるよう、神様の力で助けて頂きたいと願います。


「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。 」ローマ人への手紙13章1節


*1 ローマ人への手紙13章2節
*2 ローマ人への手紙12章18-21節 「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」
*3 マタイによる福音書5章44節
*4 マタイによる福音書26章51-52節
*5 ヨハネによる福音書16章33節
*6 ローマ人への手紙12章21節

「致しかねます!」への反応を乗り越えて

2019年10月20日 | 日記
私は実は、カスタマーセンターの方と話すのが苦手です。たいがい、イライラしてしてしまうからです。その理由は、電話が繋がるまで長時間待たされた上に、あまりにも仕事が分業されていて問い合わせたいことがたらい回しにされ、その担当以外のことはいっさい「致しかねます」という対応が多いからです。制度上仕方がないことですので、なかなか一回で対応してもらえなくとも穏やかにやりとりをせねばと、ぐっと感情を抑えています。一方、こちらが何もしているつもりがなくても、(相手にとっては主観でそうとるので仕方がありませんが)自分の態度や言動を悪くとられたり、誤解されたりすることもあります。しかし、これも忍耐し、反論したいことがあっても抑え、最低限伝えなければならないことを柔らかい口調で説明しようと努めなければ、更に相手との関係が悪化する可能性があります。


人間というのは、お互い自分の主観で物事を受けとめ、互に相手の立場を考えないことが多いため、自分の思う通りにならない他者と共存する社会に生きています。また、片方が利益を得れば、もう片方が損をする経済システムの中で生きています。ですから社会生活をしていく上で、理不尽なこと、我慢しなければならないことが日々あるのはノーマルなことで、ある意味それが、社会性を身につけるということでしょう。社会には様々な考え方の人がいること、そして自分の思う通りに事が進まないということを経験していくことで、忍耐力・適応力・柔軟な心も養われていくかもしれません。現代は、インスタントにすべての事が進む社会。しかし、それを”当たり前”に思っては、結局、自分の短気によって損気を引き起こすわけです。と理論上ではわかっているのですが、私の課題は、「致しかねます!」という言葉にぴくっと反応してしまうところでしょうか(笑)。


聖書(書かれた時代も広く、幾つかの書簡から構成されています)の中に、歴史的書簡の部分には、人間が過去してきた目を覆いたくなるような残虐な戦争等についてもそのまま記されています。また、その他の書簡でも現代と変わらない人間関係のもつれや殺人、嫉妬、いさかいが、神が選んだ民族の間で、またキリストを信じた信徒たちの間でもあったことが正直に書かれています。だから、信徒たちあてに書いた書簡の中で、使徒のパウロはキリストの愛に倣うようにと忍耐を持って諭し、時にはいさめることもあります。そして、自分が置かれている社会の中で、怠けないで働き(当時、もうキリストが再び戻って来るから、働かなくてよいという信徒がいた為)、互いに愛し合いなさい、互いに相手が自分より優れていると思いなさい、謙遜になり、仕え会えなさい等と具体的に勧めています。下記の箇所も全ての人と平和に過ごすようにと、信徒に向けて勧めています。つまり、クリスチャン、つまりキリストを信じて礼拝していても、個人の人間関係では争いをしている人が当時いたから、そう書いたのでしょう。そして、現代もしかり。クリスチャンも、失敗もし、人を傷つけ、争ったりすることがあります。完璧な聖人はいません。すると、クリスチャンになった人と信じていない人との違いは何でしょうか?


それは、神様への悔い改めと赦しの有無という点でしょう。キリストを信じていない方々は、自分の善悪の基準と主観で物事を判断し、行動し、人付き合いをしますから、自分が基準であり、人それぞれ異なり相対的です。また人には良心というものがありますが、その良心も個々人によって感じ方が異なります。すると「これくらいいいではないか、皆していることだ」、もしくは「相手が悪いから仕方がない」と開きなおってそのまま続け、反省はすることがあっても繰り返す可能性があります。その価値基準ですと、相対的な自分の中での合理化処理となりますが、そこには神に対しての悔い改めという概念はなく、その赦しも不在ですので、誰かの赦しがないと負い目や責罪感が残るかもしれません。一方、キリストを信じる者は、聖書に書かれている神の基準に基づいて、神に対して悔いて改めますと祈り、赦しを受け取って、新たに仕切り直すことができます。なぜそうするかというと、今は、キリストが自分の命を犠牲にして迄私を愛してくれていることを信じたので、その大きな愛に感謝して、私なりにどう応答できるかと考えると、キリストが言われたことに従い、キリストに倣うことだと決めているからです。私は失敗も多いですが、すぐに神様に悔い改めるようにし、また、謝るべき相手がいればすぐに謝るようにしています。たとえ自分だけに責めるべきところがなく、他に責任転嫁できる要因があろうとも、謝ります。そして、相手がそれを赦してくれるかどうかは、相手の問題ですので、それ以上は神様に任せることにしています。そして同じ過ちを繰り返さないように、神様に祈ります。


「憐み深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」*1 また「人を裁くな、あなたがたも裁かれないようにするためである。」*2 イエス・キリストはこう言われています ここでのあわれみ深いとは、相手を赦す心を持つ事だそうです。そもそも、自分自身が神様に赦されたという自覚があると、自ずと自分も赦してもらったのだから、相手を赦したくなくとも、赦せるように神様に心を変えて下さいと祈り、相手のしたことを裁くのは神様に任せようと思えるのでしょう。


 全ての人と完全に平和に過ごすことは無理です。だからこそ、パウロも「せめて」(if possible (英訳), ”可能な限り”とも訳せる)という言葉を使っているのが、有難いです。相手方が戦いを仕掛けてきた場合、それをどう平和的に交わすか。このパウロの勧めは、何もあたりさわりもなく避けて、和解に努めようともしないという態度のことではなく、平和を保つよう自分のなすべきことはするという行動を伴う、強い言葉(原語のギリシャ語)だそうです。それでも、関係の修復、和解を相手が拒否する、もしくは相手が悪を、戦いを続けるのであれば、相手のことを神様に委ね、自分は苦い思いを相手にもたず、時には距離や時間を置くことも必要となるかもしれません。後になって、和解ができるかもしれません。それも祈りつつ、平和の心、相手を裁かない心を神様から与えられたいと願います。


「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」ローマ人への手紙12章18節




*1マタイによる福音書5章7節


*2マタイによる福音書7章1節 (聖書引用、新共同訳聖書)

2019台風19号

2019年10月14日 | 日記
 今回の台風19号の被害は、事前に警戒態勢をしていたにもかかわらず、甚大な被害となりました。河川の決壊があちこちでおこり、街は浸水。多くの方々が亡くなり、行方不明者も未だ見っかっていません。私たちが住む栃木県も、川沿いの地域は甚大な被害を受け、台風一過の日曜日に、何人かの方々と安否確認を互いにし合いました。たとえお互いが大丈夫であって「よかったですね」と言いつつも、他地域で被災されている方々のことを思うと、心が痛み、被害がこれ以上進まないよう、人々が守られるよう祈るばかりです。

 3.11の時に、SNS上で多くの海外から励ましのメッセージと支援が寄せられたように、今回も「#PrayForJapan#」(『日本に祈りを』)というハッシュタグが投稿されているそうです。日本のために、祈ってくれる海外の、知らない場所の人々がいるというのは、とても励まさ、慰められます。今回に関わらず、大きな災害がおこると、皆途方に暮れてしまいます。被災者ご自身たちにとって、目の前の必要に支援してくれる物資、人材はもちろん第一に必要で、それによって助けられ励まされると思います。一方、心の傷、悲しみを感じる暇もなく、生きるのに精いっぱいの精神状態に対しては、誰かに祈ってもらうこと、これが目に見えない行動で、あてにならないと思われるかもしれませんが、大切だと思います。なぜなら、信仰を持って祈る祈りは、必ず聞かれ、また聖書にこのように約束が書かれているからです。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 エレミヤ書29章11節

 この言葉は、平穏無事な時に与えられた言葉ではありません。この言葉は、エレミヤという預言者に、神様が与えた預言のことばで、当時、ユダヤ人は国をバビロニア帝国に破壊され征服され、捕囚の身となって他国に移住させられ、苦しめられていた時の言葉です。捕らわれの身となり、絶望的な状況の時に、「70年たったら元住んでいた国に戻れる」、と具体的に神様が約束され、実際、それが歴史的にも起こりました。バビロニア帝国はこの後ペルシャ帝国に滅ぼされ、そのペルシャ帝国の王がユダヤ民族をエルサレムに帰還することを許可したのです。
 この言葉は、当時のユダヤ人にだけ当てはまるものではなく、現代に生きている私たちすべてにも適応できるというのが、聖書のことばの素晴らしいところです。つまり、信じて、祈りを捧げている神様は、過去の神、一民族だけの神ではなく、今も生きておられる本当の神だから、この約束が私達日本人にも適応されるというのが大きな励ましです。

「家はこんなになってしまい、家族も失い、もう何の望みもないよ。」という状況にある時こそ、神様がエレミヤを通して語られた「あなたの人生は将来と希望に満ちたものだ」という約束を、自分のものとして受け取り、信じることをお勧めします。破壊の後には、必ず回復があります。無秩序な状態はいつまでも続きません。なぜなら神様ご自身が平和の神だからです*1。もちろんインスタントには事は進まないかもしれませんが、これから色々な扉が開かれ、助けが与えられていくでしょう。今日、この聖書の言葉はあなたのためにも用意されている言葉です。

 また、神様が一人一人に与えられているという、将来の計画と言われても、今すぐに具体的にわからないし、検討もつかないかもしれません。もしかしたら、後になって振り返ると見えてくるものかもしれません。それでも神様が将来良くして下さるという希望と、それに伴う神様が与えられる平安を持ちつつ、復旧を祈り続けます。では、なぜ神様が、私たちにこのような約束を与えてくれるのかという理由は、神様が私たちをそもそも計画を持って命を与え、人として生きるように創られたからです。制作者は自分の創ったものを大切にするように、神様はそれをはるかに超えた次元で私たち人間を大切に見てくれています。だから、必ずどんな大水が襲ってきても、大火が迫ってきても、守られるという、安心のことばも、私たちに与えられている言葉です*2。 これらを受け取りつつ、私たちを愛してくれている神様を信じて、様々な困難な状況がありますが、前に進んで行きましょう。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 エレミヤ書29章11節


*1 「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。 」第一コリント人への手紙14章33節 
*2「あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。わたしはあなたの神、主である」 イザヤ書43篇1-3節

こころを満たす生きた水

2019年10月08日 | 日記
 「私、死にたい」「一緒に死のう」こんな言葉が10代のお子さんの口から出たら、それを聞いた親はショックです。詳しい内容は言えませんが、先日ある人の子どもが、その子の同級生の口からこのような言葉を聞いて、驚いてその人に伝えたそうです。そして、その方はその同級生の親を訪問して、子供の状況を知らせたそうです。案の定、相手の親は何も知らず、何か問題があることに気がつかなかったと。このようにまだ、口に出して他者に言えれば未然に止められるものの、何も言わずに、相談することもできず、自ら命を絶ってしまう子ども達もいるという現実に、本当になんとかならないのかと胸が痛みます。

 子ども達(大人も)は、自分が何で悩んでいるのか、何が問題なのかさえわからずに、そして何かサインは出ていても、解決方法を知らず過ごしてしまう、というケースがほとんどではないでしょうか。そこに相談できる親、お兄さん、お姉さん、カウンセラー等と話す機会があれば、その子たちは幸せです。しかし、相談する人がいたとしても、自らそこまでたどり着けない子供もいるでしょう。自分自身の10代を振り返ると、まさに心の中に不安定なものを抱えていましたが、それを親や他人相談することなく、表面にださず、よって色々心身に支障がでたものです。一方で、死のうと思ったことはありませんでした。おそらく、小さい頃から親に教会に連れていかれ、神様がいて、人間を創ったことをシンプルに信じていたので、よって自らの命を絶つことは「してはいけないこと」だと無意識に思っていたのかもしれません。しかし、神様が単にいて、困った時は助けてくれるということだけでは、自分の問題を解決する存在としては結び付かず、虚しい思いのまま、社会人を続けたものです。大人になってもその心の深いところにある、満たされない思いは続いていました。そう、ある方に出逢うまで。。。

 昔、ある村に、一人の孤独な女性がいました。彼女は様々な理由で結婚を5回し、6回目は相手と同棲をしていました。よって、その小さな村の中では、人から白い目でみられ、女性たちのコミュニティーから仲間外れにされていたので、水道のなかった時代、ひと目をさけて、日中の暑い最中に町はずれにある井戸に水を汲みにいっていました。するとそこへ、旅の途中の一人の男性が現れ、彼女に声をかけます。「水を飲ませてほしい」と。この見知らぬ男性はそこから少しづつ彼女と会話をかわしていき、彼女が抱えている問題、真の必要を引き出します。彼女のことを知らないはずのその男性は、彼女の心の深い部分での飢え渇き、そして絶望しながらも救いを求めていることを、自覚させていきます。そして、彼は彼女に飲んだらなくなる水ではなく、なくならない「生きた水」を与えることができると話されます。彼女は結婚に対して、社会に対して、人生に対して満たされない虚しさを持ち、また地域から疎外され、寂しさ、悲しさを抱えていた。この女性は自分を満たしてくれる「本当の愛」を求めていても得られずに、その心の渇き、虚しさに蓋をしたまま、とりあえず生きる為に水は汲みに行き続けていた。しかし、その蓋を開けてしまった男性がいた。しかも、彼女の心の渇きを満たしてくれる人が、その男性であり、生きた水であった。そして彼女の先祖が信じて来た神が送った、メシヤ:救い主が、その目の前の男性だと知らされた。彼女はその救い主と出会い、信じて、ようやく心が満たされ、人生が180度変わり、この喜びを村の人々に大胆に伝えたのである。それを聞いた村の人々は、彼女の言葉に耳を傾け、その救い主を村に向かい入れ、また信じた。

 この話は、聖書に記されているイエス・キリストの話です*1。イエスは、特にこのような社会から疎外されている人々、絶望している人々や、病いを患い治る希望もなく、様々な問題に縛らている人々のところに直接行かれ、癒やし、寄り添われ、救いを与えられました。このイエスご自身こそが、私たち人間の心の飢え渇きを満たせる方、救い主であるということは、2千年前も、現代も、そして将来も変わらないのです。人は誰でも、物資的充足感だけでなく、存在を認められているという承認欲求、愛されているという安心感により、心が満たされることを求めます。そしてそれが完全に満たされないという虚しさを抱え、他のことで紛らわすことができなくなると、生き続けることさえ辛く思うのではないでしょうか。だからこそ、私自身もそうでしたが、心を満たし続け、その喜びが泉のようにふつふつと湧き出つづける、永遠の命へとつながる、生きた水であるイエスに出逢う必要があります。イエスはいつでも求めている者に、聖書のことばを通して、信じている人を通して現れて下さります。イエスはご自分の命を十字架で犠牲にしてまでも、私の神に背をむけていたという根源的な罪を赦すため、絶望に捕らわれた状態から解放するために、救い主として来て下さったことを、神様に心から感謝しすることができます。この救いの喜びがある限り、人生にどんな困難が起こっても(この世に生きている限り問題フリーではないので)、共にいて、助けて下さるという安心感に支えられています。 

 「人間のこころには空洞がある。」そ空洞のゆえに人は空しさを覚えそれを満たそうとして地位や名声、学歴や財産、お金や快楽などをはめ込もうとする。しかし、どれをどれだけ入れても、ピッタリする物はなく、むなしくなる。「そのこころの空洞は、神様のかたちをした空洞であり、神様しかぴったりと満たすことはできない。」と。 パスカルという人がその著書 「パンセ」に記しています*。こころの空洞をキリストにあって、神様に埋めてもらえることを、多くの人に知ってほしいと祈り続けます。様々なことが起こっても、主の愛に支えられ、心のうちに喜びが湧き、全てのことに神様に感謝して日々過ごしていきたいと、願いつつ。
 
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」イエス・キリストのことば マタイによる福音書11章28〜30節

*1 イエスとサマリヤの女  ヨハネによる福音書4章1-42節、 「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』」 同13-14節

*ブレーズ・パスカル(1623年生)- フランスの数学者・物理学者・哲学者、キリスト教神学者、発明家、実業家 。『パンセ』(仏:Pensées)は、晩年思いついた事を書き留めた記述を、彼の死後に遺族などが編纂し刊行した遺著。 ちなみに、天気予報で用いられる気圧の単位「ヘクトパスカル」 も、パスカルが大気の圧力の研究をしたことからきている。 

何によって心を強くするのか

2019年10月01日 | 日記
「これを食べればガンにならない!?」毎日のように、TVでは健康に関するバラエティ番組、特集が放映されていますが、情報が多すぎてわからなくならないでしょうか。少なくとも「これだけ食べれば大丈夫」という情報は信憑性が疑われます。結局、バランス良く、なるべく自然に近いものを食べ、適度に運動し、ストレスをかけないようにすれば、病気の予防となるかもしれません。しかし実際、現代社会に生きる限りそうできないからこそ、皆が情報を求め続け、とにかく試してみるのでしょう。
 食べ物といえば、日本ではあまり見られない光景ですが、伝統的ユダヤ人たちは独特の食物規定を持って生活しています。欧米では、彼らはユダヤ人街を作り彼ら独自の生活しています。彼らは、他者と変わらぬ文明と教育を利用していますが、それでも数千年もの間彼らの法律(律法)を守って生活しています。例えば、服装、髪型も独特ですし、毎年お祭りと儀式を守り、食物規定(食べて良い物と悪い物)に従い、安息日(働かない日、土曜日)を守っています。豚肉、甲殻類、うなぎ系、チーズバーガーも食べられません。もちろん、血筋はユダヤ人でも、一般人と同じ生活スタイルをしているユダヤ人も世界各国大勢います。しかし、この生活・宗教スタイルが彼らのアイデンティティーであり、そして迫害を受けながらも、数千年にわたり各国に散らされても、人種を保ち続けてこられた「強さ」なのかもしれません。
 ユダヤ人はこの律法と伝統を守ることが、彼らの信じる神の前で正しく、天国へ行けると信じています。つまり、全て自分たちの”行い”にかかっています。2千年前に、イエス・キリストはご自身もユダヤ人として生まれて、30歳位まで一般市民と変わらない生活してきていましたが、宣教活動を始められて、神の国の福音を宣べ伝えられた時、この律法を人々が守ることを監視していた宗教家達と対立しました。なぜなら、宗教家たちは心を伴わない形骸化した儀式を神に捧げて敬虔ぶり、生活の細部に亘る細かい律法を作り守るよう人々に重荷をかけ、憐みや慈愛もなく守れない人を罰し、守れない人々を罪人として、社会から村八分にしていました。こうして神様が本来与えた掟の趣旨から離れ、人の命よりも、法律を守ることを優先していたので、イエスはその偽善をつくため、あえて安息日に病人を奇跡で癒されたのです。
 イエスは彼らを単に責めるためではなく、彼らがその偽善に気づき、悔い改めて、神様に立ち返ってほしいと、また法律を守るという「行い」では救われない、神様が救い主として送ったご自分を「信じることが救い」であることを伝えたかったのです。しかし、ほとんどのユダヤ人の宗教家の心は頑なで、自分たちの地位を脅かすイエスを憎み、拒み、十字架につけました。ところが、神様はこのユダヤ人の頑なささえもご自分の計画に用いられました。つまり、イエスが十字架にかかり、全人類の罪を負って身代わりに罰せられる、復活するというのが、神様の救いの計画でした。そして、ユダヤ人も、いつか救い主があのイエスだったと分かり、信じて救われる日が来ると、聖書に預言が記されています。*1
 現代でも、ユダヤ人以外の間でも似た現象が見られないでしょうか。「これこれをすれば、大丈夫」「これこれをしないと、成功しません」と、行いの有無でその人の価値が決められてしまう。また、元来は人を守るために作られた法律も、いつのまにかて形骸化し、人の命が、人の尊厳が損なわれても、法律順守が優先されしまうこともあります。様々な情報が飛び交い、何が良いことなのか見極めるのが難しい時代です。よって自分で自分の心を強くし、何かをすることで、自分を守らなければならない社会であり、それが出来ない弱い人々は自信をなくす、卑屈になる、ある人は心を病んでしまいます。
 しかし、キリストのもたらす世界では、この世と異なり、その人がした事、しなかった事でその人の価値は決められませんし、何かの行いが救いの条件ではありません。あえていうなら、キリストを信じるだけです。もし、神に認められるために、何か条件をつけたとしても、それを完璧にできる人間はいない、だから無条件で与えられるのがキリストによる救い、恵みです。神の恵みとは、「受けるのにふさわしくないものが、神の一方的な好意により与えられるプレゼント」のことを言います。通常プレゼントをもらえるのは、誕生日、お祝い、お礼等、何かもらえる理由があります。しかし、神様の与える恵みは、その人がプレゼントをもらえる理由もなく、かえって受ける資格がない、ふさわしくないくとも、人である限り全ての人に与えられようとしています。その最大の恵というのが、イエス・キリストご自身です。
 その神様からの最大の恵:キリストを受け取れば(信じれば)、さらに恵に恵みが加えられます。なぜなら、今迄、当たり前に思っていたことや、自分の才能、能力、家族、自分で得た地位、資産さえも、神様が恵みとして与えて下さったことだと思えて、神様に感謝できるように変えられるからです。すると、傲慢だった自分に気がつき、謙遜にさせられます。一方元来謙遜な方は、自分のおかげではなく「皆様のおかげ」だと言われるでしょう。それはそれで良い考えですが、神様の恵を知る者にとっては「皆様のおかげ」ではなく、全て「神様のおかげ」です。つまりその「皆様」から与えられる支援、助けさえも、神様がそのような人々を周りに置いて下さった、神様の恵みと考えるからです。このようにして、恵みがわかると全ての見方も変わり、恵が増し加えられ、様々な状況に対しても、神様が支えて下さるという信頼感が与えられ、心が強められます。
 キリストを信じる時は、自分がふさわしくない、資格がない者だと気がついた時です。なぜなら、自分が結構いけてると思う人は、「自分自身で充分足りてます、キリストに赦してもらう罪もないし、自分の人生、自分次第だ」と考え、キリストの救いは必要としないからです。恩恵は受けたいけど、自分の罪を認めたくない。神にコントロールされたくない、自分で生きる!、そのように強く生きられる人は自分の意志である程度強くなれますが、限界があるでしょう。もしかしたら、そんな強い人でもあることが起こって、自分の限界を感じた時が、キリストを求めるチャンスかもしれません。実は信じられること自体も、神様の恵だからです*2。私は、一人でも多くの人が、シンプルに、キリストという神の恵を受け取られ、恵みによって心を強くされてほしいと願います。日々神様に感謝し、キリストにあって周りの人々にも感謝しつつ。。。

「さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。 」ヘブライ人への手紙13章9節

*1 「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲しむように、彼のためにいたく悲しむ。」ゼカリヤ書12章10節
*2 「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」エペソ人への手紙2章8節
(引用、口語訳聖書)