Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

収穫を期待する

2022年07月17日 | 日記
 我が家では、毎年夏野菜をプランターに植えています。きゅうり、なす、トマト、ピーマン。台風などで枝が倒れてうまく実を結ばなかった年もあり、その教訓により、今年は台風が来たときは軒下に移動し、難を逃れさせました。毎日、とまでは行きませんが、実がなっているかなと毎朝プランターを覗いては、少しずつ収穫し、その日の食卓で感謝して頂いています。プランターですので小さな家庭菜園ですが、生ごみを肥料に変えるコンポストというものを使い、その肥料を使って苗を植えています。りっぱに野菜が育っているのを見ると自然と笑顔がこぼれ、幸せな気分になります。

 一方、農家で苦労して育てた果物や野菜が、夜中に泥棒に盗まれてしまうという被害をニュースに聞くにつけ、農家の方々がどんなにショックだろうと心が痛みます。工場で生産される商品とは違って、商業的に作物を育てることは設備投資がかかるだけでなく、人が一つ一つ手を使って、土壌から準備し、苗を植え、毎日その生育状況を見て大切に育てるという工程が伴います。それが、一晩にして奪われてしまうのは悲しいことです。

 イエス様はたとえ話で、農作物の話をよく用いられました。実を結び、収穫するということを様々なことにたとえています。私たちは、神様の愛を受けて、自発的に良い実を結ぶように神様から期待されていると言えるでしょう。良い実とは心の状態のことで、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制*1の心と態度を持つことを「御霊の実を結ぶ」とたとえられています。私は自分の心の中を覗くと、これらの実がいつも結ばれていないことを本当に悲しく思います。ましてや、神様が「実を結んでいるかな?」と期待して見てみると、逆の状態(怒り、イライラした思い、敵意、不穏)を私の心の中に見出すと、どんなにがっかりするだろうと思わされます。仕事の忙しさ、大変さにかまけて、私の心は実を結べる状態になく、すさんでおり、なんとか根がつながっているぐらいの状態で、そんな自分が情けなく、恥ずかしく、もう神様の前に出られないと思ってしまうほどです。

 しかし、私がどんなにひどい状態であっても、実を結べないだめな者であっても、神様は見捨てない、愛のある方であることが私にとって大きな慰めであり、また悔い改めて、仕切りなおそうと前向きに一歩踏み出すための、励ましであります。実を結ぶためには、どんな状況であっても、神様のみことばに触れ、祈り、自分の心の思いを全て打ち明け、助けを求め、委ねていこうと思います。そして、いつか、収穫を期待している主が「実がなっているぞ!」と喜んで下さることを期待して、木であるイエス様*2につながり続け、枝である私の心に愛を流し下さるよう求め続けようと思います。

「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。」 マルコによる福音書12章1-2節

*1 「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節
*2「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 ヨハネによる福音書15章5節

「志を立てて下さる神」益子教会でのメッセージ 7/10 フィリピの信徒への手紙2:12-18

2022年07月10日 | 日記
 フィリピの信徒への手紙は、パウロが宣教のゆえに獄に入っていた時に書かれた手紙の一つです。特徴は「喜び」という言葉の数が多く、またフィリピの教会はパウロが伝道して建てられた教会の中でパウロが唯一金銭的に援助を受けた教会(フィリピ4:15,コリント2 11:7-9)です。パウロがこの手紙を書いた背景は、その贈り物に対する感謝の意を表すだけにとどまらず、フィリピの教会の人々への信仰生活における薦めと励まし、自分の現状報告記したとされます。それだけパウロとフィリピの教会の間に深い信頼関係があったのでしょう。本日はパウロのフィリピの信徒への勧めと励ましを通して、志を立てて下さる神と題して、学ばされたことを分かち合いたいと思います。

まず、本日の箇所の前の2:1-6をみてみますと、
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 」 フィリピの信徒への手紙2:1-5

とパウロは記しています。これは、フィリピの教会の中で、信徒同士の間で問題があったからこのような薦めをパウロがしていると思います。教会の姉妹の間で争いがあったことが4:2-3にはっきり書かれています。

「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。」 フィリピの信徒への手紙4:2-3

 エボディアとシンティケという婦人は福音のためにパウロと共に戦った、記されているほど熱心な信徒でした。理由はわかりませんが二人の間に争いがあったことがパウロに報告されていたようです。教会がどんなに奉仕活動が活発に行われ、規模が大きかったとしても、そのキリストの体である教会の一部が争っていると、それが次第に分裂へと発展し教会が無力となってしまう危険性があります。この二人だけでなく、現代の教会のすべての信徒に対する薦めであります。なぜなら、教会の中でありがちなことで、そして放っておいてはならないことであるからです。おそらく何かのことで意見が異なり、二人とも自分が正しいと思って争っていたのでしょう。だから、パウロは互いに自分の思いではなく、主において心を一つになろう、互いを尊重し合おうと彼女たちだけでなく、ほかの信徒の人たちが協力して、争っている二人を助けてくださいとお願いしています。

 2:6-11でキリストが神の子であるにもかかわらず、人となられ、十字架の死にいたるまで、神様に従順であったように、私たちもキリストにならい、謙遜で、他者を自分よりも優れた者と考え、相手のことに注意を払うようにパウロはすすめているからです。私たちは、常に自分自身は高慢なところはないか、人を見下していないだろうかとチェックし、他者を自分より優れた者と思い、謙遜に行動し、発言していこうと、意識する必要があることを示されます。

 つまり、主であるキリストに習うことが今日の箇所につながる文脈であります。12節で「従順でありなさい、恐れおののいて救いを達成しなさい」とあります。救いはキリストの十字架で完了していますから、ここは救いを得るために何か努力しなさいといっているのではありません。一方、救いは様々な局面があります。一度信じたら終わりではなく、信じ続けなければ信仰から脱落してしまいます。信じ続けるとは、キリストに従って生きることであります。キリストが十字架で贖ってくださったのは、私たちが信じて救われ、キリストのように内側が変えられていくことつまり、霊的成長が伴います。その霊的成長に努めなさいと言い換えられるでしょう。キリストに習い、神様に従順になろうと努め、自分の内側が互いに愛し合えるように変えられていくためです。それを意識し、従順であろうと努めることなしに、信じ続けることは難しいです。なぜならすぐに世の中に流されてしまうからです。「恐れおののき」とは恐怖ではなく、神であるキリストに対する恐れ、畏敬の念を持つことでしょう。自分が救われるために、キリストが人としてわざわざ生まれてこられたこと、御子キリストの命がかかっていること、その大きな犠牲の重大さと恵みを覚えれば、おのずと畏れとおののきを思えるでしょう。自分の感情やこの世的な考えに流され、高慢な発言や態度になりそうになったらストップをかけ、またなってしまったら悔い改めていきたいと思います。キリストに従順に習い続け、霊的に成長を生涯し続けることが、救いの達成に努めることになると思います。

 そして、今日のタイトルにある志をたたせるということですが、私たちは聖霊を頂いているので、神のみこころは何か、何を神が喜ばれるか、何をしたら悲しませるかを聖霊が示してくれる。そのようにして私たちの思いや願いが御心にそうように導き、「こうしよう」と望ませ、行わせてくださるのは神様であるとパウロは続いて記しています。「望ませ」が新改訳では「志を立てさせ」と訳されています。

「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。<新共同訳>
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」 <新改訳>   フィリピの信徒への手紙2章13節

 何か新しいことを始める時、人生における方向性を考える時、どのように決断をされるでしょうか?個人的な場合は、自分でこうしたいと思い、それを神様に祈って導きを求めて、行動に移されるでしょう。しかし、教会の活動において、つまりキリストの体である教会という共同体において何か始める場合は、独りではなくチームワークとなります。私たちの教会は、心を一つにして、同じ思いになっているでしょうか。新しい人が教会にきて、信仰に導かれるという願いは一致していると思います。しかしそのために教会が何かを始めようとするとき、様々な方法、意見がでてきます。お互いが「これは自分のアイデアだ、これがよいと思う」と主張しあうとうまくいかないでしょう。またチームワークで分担するとき、「なぜこの部分を自分がしなければならないのか」と不平を言う人がいたら、もしくは理屈をこねて、私はこれこれをしたくないと、主張しあったら、教会の働きはどうなるでしょうか?みな信仰をもって神様に対して熱心であっても、信徒同士の関係がぎくしゃくしてしまいます。しかし、神様の御心が、ある人もしくは教会のリーダーである牧師の心に、教会としての活動で、あることをしょうという志をおこさせたのなら、それは人間のアイデアではなく、神様から発し、実現に至らせてくださるのは神様であると信仰で受け止められるでしょうか。自分の思いは横に置き、教会がそう示されているのかどうか、祈って神様にそれがみこころかを牧師だけでなく教会のみなで祈り求める必要があります。何事も、まずは祈って、祈って、みことばから指針が与えられるまで、神様の導きを求める必要があると思います。神様のみこころにかなう祈りは聞かれるので、そのために道は開かれ、必要な人や物は与えられるでしょう。

 しかし人の思い付きで先にスタートしてしまうと、「神様これこれをしますから、祝福してください!」と自分が決めて、神様にバックアップしてもらうかのような祈りになってしまいます。すると、どちらか主なのでしょうか、どちらが従うほうなのでしょうか。パウロは、「(主である神様に対して)恐れおののいて」と記しているのは、主が誰なのかを認識する必要があるからです。

 この益子という地域におかれた教会は、地域の人々にどのような印象を与えているでしょうか。もし、地域の人との関係が悪かったら、輝くどころかつまづきとなり、悪い噂がたつでしょう。ですから私たちは、たとえば教会の周りの環境を整備する、有事の時には場所を提供して地域の人々に仕える等、神様に従って、喜んでしていきたいと思います。

 17-18節は今までの教会への勧めのことばから、少し文脈が変わっていて、パウロは自身の現状:死刑になる可能性を述べています。しかしパウロは自身が殉教しても、フィリピの教会の信徒たちも嘆き悲しむのでなく、ともに喜んでくださいと記しています。愛する兄弟姉妹や家族が殉教することほど、悲しい辛いことはないと思います。当時の迫害はむごたらしく、残酷な仕方で処刑されていきました。パウロはそれでも、ともに喜ぼうとすすめています。パウロは自身の殉教さえも、神のみこころとして、喜びをもって受け入れていたのでしょう。私たちはパウロほどの覚悟はもてないかもしれません。しかし、キリストはそれぞれの信仰の量りに応じて様々な状況に私たちを置き、「わたしにならって従順になりなさい」と問われていると思います。それは私たちの霊的に成長を願っておられるからです。

 おそらく、皆さんも今なしている活動の原点を振り返ってみると、神様が志を与えて下さったと思いあたることがあると思います。すべてのことが神様から発し、神様に帰る、そしてその責任も神様が負ってくださると思うと、自分がやっているという高ぶり、もしくは自分を不必要に責めること、不安になることから自由になれます。なぜなら、みことばで

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」 ローマ信徒への手紙11章36節
 
とあるように、今なしていること、それが仕事であれ、教会の奉仕であれすべてのことは神様から始まり、神様によって保たれ、神様へ向かっているので神様に栄光を返すことができます。すると、そこに「自分が」という思いは減らさせ、同時に神様が保ってくださるのだから、必要を満たしてくだり、今ないものは与えられると信じて求められます。

 私たちが教会のために祈り続け、礼拝を開催し続ければ必ず、神様が人を送って下さり、キリストの体としての教会が建てあがると希望を持ちましょう。私たちは今与えられているこの状況、健康、家族を神様からの恵みとして感謝し、つぶやかないで、すべては神様のおかげであると、謙遜な思いをもって、キリストの従順の姿勢から学び、これからも神様がわたしたちの内に働いて、御心のままに何かを望ませ、行わせてくださることを期待していきましょう、そして祈っていきましょう。

お祈りします。