Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

目に見えないけれど、今そこにいる

2023年07月16日 | 日記
私は今年の4月から7月まで、東京で週一回、夫の母校で神学基礎講座を受講しました。通学には栃木から東京へ片道3時間以上かかるため、それもフルタイムの仕事をしつつ難しいと思っていましたが、ふと、週一度夜なら、という思いに奮い起こされ、体を壊すことなく続けられたのは、神様の恵みだと感謝しています。そして、夜中に車で迎えにきてくれたりと協力してくれた夫に感謝したいと思います。クラスで神学生・聴講生の方々と共に学べたことが貴重な経験でした。これから先も更に学びつつ、キリストの福音を伝えていきたいと願います。 たくさんのことを凝縮して学び、課題も多く消化しきれていませんが、そのなかで、「自分が信じている神様はどういうお方なのか」ということの一つに、「目に見えないけれどもいつも一緒におられる神様」であることに深い理解が与えられる機会ともなりました。

今まで、礼拝や、祈り・賛美の集会等、教会には様々な集会に参加してきましたが、私はこれらすべてに主イエス様がそこにいて下さるということをいつも認識していたかどうかと、自分に問われたのです。教会はキリストを信じる人の集合体ですから、キリストの名のもとに集まるのが前提なのですが、それにも関わらず何か他のことに気を取られ、心が落ち着かずにこれらの集会に参加していた時はないだろうかと。イエス様はその人としての誕生の時から、「インマヌエル」(神は我々とともにおられるという意味)と呼ばれ、そして、私たちの罪を償うために十字架にかかって死なれました。そして、復活して弟子たちの前に現れた時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われて、天国へ戻られました。つまりイエス様は、今は天国におられても、同時に、地球上のあらゆる集会の中に「いる」ことが可能な、目に見えない、想像を超える神様であります。

私たちは目に見えるものしか認識できないし、理解できないため、目に見えないものを信じることに困難を覚えます。しかし、信仰が与えられると目に見えないキリストが「今、そこにいる」ことを信仰で受け止められるのは幸いです。またイエス様は十字架にかかられる前に、弟子たちに「父は、弁護者(聖霊のこと)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。・・・この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」*1と約束されました。この聖霊も見えませんが、信じる者の内側に住み、私たちの信仰を強め、励まし、目に見えない主イエス様の臨在を感じ、信じられるように助けてくださいます。

 さらに、「わたし」がこの地上にいながら、イエス様にあって共に「今」天にもいるという面があるということを、イエス様は言っておられます。「こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」*2、「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」*3。わたしたちは、自分が天にイエス様と共に神様の御前に今いることを見ることができないので、そのイメージがわかないかもしれません。しかし、見えないだけで今もこの状況はおきていて、同時に将来天にいるということが顕れることを待ち望むという面があります。これは個人という捉え方より、教会という集合体の一部として、つまりキリストが教会の頭であり、私たちがその体であるという表現がパウロによってなされているように、キリストの体の一部であるから、キリストがおられるところに自分も実はいるのだと、信仰で認識することが可能でしょう。ある牧師の方が、このことを若い時代に信仰問答*4を通して知り驚いたと話されていましたが、私も驚いています。そうだったのか!と。私は、いつも主と共にいるということをもっとリアリティーを持って、信じていきたいと思わされました。私の日常生活のすべてのことにおいて、キリストの臨在を意識し、神様の御心が何か、何を今をすべきか、何を言うことが言わないことがよいのかを聖霊が助け導いてくださることを体験できるように願い、主イエス様が困難な状況でも共に歩んで下さっていることを信じ、大きな励ましと慰めが与えられることを神様に感謝したいと思います。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)

*1 ヨハネによる福音書14:16-7
*2 ヨハネによる福音書14:2-3 「行って、あながたたのために場所を用意したら、戻ってき、あなたがたをわたしのもとに迎える、こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
1*3 ヨハネによる福音書17:24
*4 ハイデルベルク信仰問答 問49 参照

天国の前味わい

2023年07月04日 | 日記
 先日、益子教会で月一回の親子ゴスペル教室が開催された時、日本に宣教のため在住しているアメリカ人家族とアジア学院の学生(インドの方々)が参加してくれました。そのため、その日は英語の曲がメインでしたが、その一つは、「Hallelujah、Salvation and Glory」という曲を3パートに分かれてハーモニーで歌いました。すると、歌っている皆が一つになって、会堂が揺れ動くような、非常に力ある賛美となり、喜びにあふれて久しぶりに感動しました。賛美を歌うことでこれほど気持ちが高揚し、「神様が素晴らしい」という歌詞をゴスペルの曲調に乗せて高らかに歌うことができ、ああ、天国での礼拝、賛美(黙示録4章)はもしかしたらこんな感じなのかしらと、ふと思わされました。

 これは一時の感覚的なものと言われればそれまでですが、天国はどういうところなのかを考える助けになる体験です。天国というのは将来でなければ存在しないもの、現在においては経験出来ないものと思いがちです。つまり、それはこの体が死んでから行く場所であり、今現在は関係ないところであるとしがちで、聖書に天国がどうであるか詳しく記されていないのもあってイメージが難しい事柄です。イエス様は天の国は祝宴、婚礼の宴会として譬えで表現されていますが、また黙示録では荘厳なる都、新しいエルサレムとして描かれています。またイエス様は、神の国はあなたがたの間にあるとも言われましたし*1、人間が将来与えられる「復活した体」については、もはや婚姻関係もない、つまりこの世の人間関係はなく、皆が「天使のようになる」と言われています*2。これは死んだら天使になるという意味ではなく、「のように」という類比表現であり、また時間的な空間的な制限のない体、天国で生きられる体であろうとイメージすることができます。

 目に見えないキリストが私たちと共にいて下さるということは、この地上でだけでなく、天の国でも共にいる状態(それが完全になるのは将来ですが)であることを信じていきたいと願います。聖霊の働きにより心に平安を与えられ、この世の生活にあっても、天の国のことを考え、天の国を部分的でもこの世で味わえる、先取りできる行為につながればと願います。その行為の一つには礼拝であり、兄弟が互いに愛し合うということでしょう。天国での礼拝にちかいものを、普段の礼拝で少しでも神様に捧げられるように、リアリティを持ちたいと願います。すると、それが日常生活の、現実の厳しい局面、困難な状況になった時の励ましとなり、忍耐が与えられるからです。

 何事も忍耐するには希望が必要です。その希望とは、天の国における希望であり、それは「将来」だけでなく、「今」も、私はキリストにあって、自分は復活させられて天の父の前にいると、(イエス様は弟子たちに「こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。」ヨハネ14:2-4 と約束されました)、もっと信仰で認識できると、明確な希望となるでしょう。今、私はこの地上にいるので、自分が天にキリストとともにいる状態が見えません。下記のみ言葉にあるように、もしかしたらその状態は「キリストと共に神の内に隠されている」から見えないのであって、聖霊の働きで信仰においてこのことを認識し、そしてそれが将来現われることを待ち望んでいきたいと願います。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。」 コロサイ信徒への手紙3:1-4

*1 「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」ルカ17:21
*2 マタイによる福音書22:29-30イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

枝につながる

2023年06月11日 | 日記
  梅雨が始まる頃、我が家では毎年プランターで野菜を植えます。今年はアジア学院から分けて頂いた土に、きゅうり、とまと、ピーマンの苗を植えました。本当はぶどうやキュウイなどフルーツを育てられたらという願いもありますが、今の場所では難しく、野菜だけにしています。同じ土、同じ日の当たる場所におかれ、同じ幹になっているピーマンでも、サイズが大小あります。それでも幹につながっているかぎり、実はなっていきます。ほんの少しの野菜ですが、育てているといつも思い出す聖書の箇所があります。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

イエス様は、ご自分がぶどうの木で私たちはその枝であるとたとえられました。果物や野菜はその収穫まで枝につながっているから育ちます。つながっていれさえすれば、木から栄養が送られるからです。この「つながる」という原語は「とどまる」という意味もあり、他の訳では「とどまっていれば」となっています。では具体的にとどまるとはどういう意味なのでしょうか。イエス様はこうも言われました。

「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネによる福音書15:10)

と続いて、その掟とは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と。

 神様は愛を私たちに示すだけでなく、神様とイエス様と聖霊にあるつながり(とどまること)を、信じる者にもつなげてくださります。木が枝に栄養を送るようにつながらせて頂き、私たち自身が神様の愛の業に「参加する」ように招いてくださるのです。「招く」と表現したのは、それが強制的ではないからです。神様の愛につながっていれば、互いに愛せるように、愛が私たちの心に注がれるとも、パウロは言っています。それを可能にしてくれるのが聖霊であると。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 (ローマ5:3-5)

 神様の愛は自分の中で作り出せる愛ではないことを、社会における人間関係で「できない」と実感されているかもしれません。かくいう私は自己中心的であり、自分に敵対してくる相手を愛せない者です。

「わたしを離れてはあなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)

とイエス様は言われるように、離れた状態では何もできないのです。だからこそ私はイエス様につながり続けたいと思います。大きい実はならないかもしれませんが、枝である私はイエス様という幹(木)になんとかつながっていれば、きっと神様の愛を流していただいて、小さい実がなると期待したいと思います。神様の愛は、この交わり(つながり)を私たちが持っている限り、私の心に流されて、他者を愛せるようになる、つまり実を結ぶ*という希望を持って、祈り求めていきたいと思います。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネによる福音書15章5節)

*「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はあません。」ガラテヤ信徒への手紙5:22-23







「神の愛にとどまる」 ヨハネの手紙Ⅰ 4:11-16

2023年06月11日 | 日記
メッセージ 「神の愛にとどまる」 ヨハネの手紙Ⅰ 4:11-16

ヨハネの手紙では「神の愛」というトピックを何度か記しています。最初の箇所は2:7-11で互いに愛すること、つまり兄弟愛は神との交わりを持つことの証拠であること、そして2度目の3:10-14ではあなたがは神の子であり、神から生まれたので悪魔の子と区別され、将来御子が現れる時御子に似た者となるという望みがあり、この望みのゆえに正しい生活をし、兄弟を愛する、つまり互いに愛すると記しています。本日箇所4:7-16は3度目のところです。

 まずこの手紙では、いくつかの箇所で直前の4:1で「愛する者たち」と読者、つまりキリストを信じる信徒に語りかけています。この原語の直訳は「愛される人びと」("Beloved", NKJV 訳)です。この直訳のほうが実際の状況を現わしていると思います。神が私たちをまず愛している、人間は神に愛されている者だからです。4:10に 「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して」とあるように愛は神から発しているという 神の側の積極的愛が中心です。一方で、私たちが主体となって「誰かを愛する」という面もあり、そのことが今日の内容にも関わってきます。私たちは神様から恵みだけを受けていれば良い、あとは好き放題に何をしてもよいのでしょうか。愛は私たちが愛を神からうけて初めて、私たちが愛する主体となれるという人間の間の相互の愛の面が行為として現れます。またそれを可能にするのが、神様の霊、聖霊です。

13節にあるように神様が私たちにご自分の霊を分け与えて下さっているから、神様が私たちのうちに聖霊としてとどまって下さっていることです。これはイエスさまがヨハネによる福音書でもぶどうの木と枝のたとえで言われています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネ15:5)

では具体的にイエス様につながる、とどまるとはどういう意味でしょうか?神様は単に、「わたしはあなたを愛している」と聖書を通して示されるだけにとどまりません。実際、私たちの内に聖霊として住まわれて(とどまられて)、神様の業に私たち自身が「参加する」ことを望まれています。私たちは単に知識で、神は愛ですと捉えるだけにとどまらず、この世に生きる中で神の愛の業に参加していくようにと、神の霊がわたしたちひとりひとりに分け与えられていると記されています。私たちは傍観者ではなく、参加者として神様がご自分のこの世での業の中に招いてくださっているのです。

聖霊に関していえば、イエス様がこの世に来られる前までは、神の霊は一部のイスラエルの預言者や王たちにだけに分け与えられていました。また、イスラエルという国が神様によっておこされ、その幕屋や神殿という場所において、神様はご自身の栄光を現わされていました。しかしイスラエルが神様に背いたために、その栄光は神殿から去ってしまいましたのです。しかし再び、イエス様の人としての体に神様の栄光が戻ってきたと言えます。「この神殿を壊してみよ、3日で立て直す」(ヨハネ2:19)でイエス様が言われたのはご自身の体のことです。イエス様ご自身が神殿、神が住まわれ、栄光なのです。

「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(ヨハネ1:14)

そして、イエス様が十字架にかかり死んで3日後によみがえられた後、イエス様を信じる者に聖霊を送ると約束されました。ペンテコステの日に弟子たちは聖霊を受けて、力を受けたことは、使徒言行録に記され先日のペンテコステ礼拝でも私たちは学びました。ですから、私たちは聖霊を頂いて、内に住んでくださっている状態なので、パウロがいうように私たちの体は聖霊が宿って下さる神殿なのです。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 コリントの信徒への手紙Ⅰ6:19-20

しかも、この聖霊は一時的に私たちの内側に住む方ではないのです。私たちが聖霊がおられることを意識できなくとも、私の心の状態が悪いから、落ち込んでいるから、失敗したから聖霊が去るということはないです。なぜならイエス様はこう言われているからです。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」 ヨハネ14:15-16

この弁護者は聖霊のことで、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」神様がそうしてくださるのであって、私たちの状態は関係ないのです。もし、信仰が弱っても、聖霊は住み続けてくださいます。信じ続けるとは神に信頼し続けるということです。何を信頼するのかというのは、一つに、自分にはイエス様の高いレベルの互いに愛し合いなさいという掟が守ることができなくとも、お願いして、そうなりたいと願い続けること、委ねることではないでしょうか。だから、「私を愛しているならば私の掟を守る」と冒頭に言われており、それが信仰の証拠であります。そしてわたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。 15節「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」とあるように、イエス様が神の子であることを洗礼にて告白したように、公に証するものには神の霊はその人の内にとどまって、その人も神の内にとどまることになるとヨハネは、このことをはっきりと知ってほしい、意識してほしいと、手紙に記しているのではないでしょうか。

神の愛にとどまるとは、私たちがこの世の生活のなかで、神の御業に参与していくことです。私たちが自分の力でする必要はなく、内に住まわれる弁護者であり、助け主(英語ではヘルパーと訳されています)である聖霊が働かれることを信じましょう。神様は私たちの弱さ、罪を犯してしまうこともご存じです。しかし、そんな自分がいつまでも同じ状態ではないこと、つまり神様に委ねて、神の愛が注がれることを求め続け、兄弟を愛そうと目指し、罪を犯さなくなるように変えて下さる方であること、それが聖霊の働きで可能であることを信じて祈り続けましょう。

パウロは(ローマ8:2)で、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が罪と死の法則からあなたがたを解放したからです。」と記しています。私たちは生活のなかで罪を犯すことはまだあっても、すでに罪と死の縄目からは解放されているということを覚えている必要があります。イエス様によって命をもたらす霊の支配下にあるということで安心して、神様に委ねてよいのです。生きるとは神とともに生きることであります。

では神とともに生きる特徴は何でしょうか?希望があることです。それは聖霊の働きにより、満ち溢れ、喜びと平和で満たしてくださるとパウロも記しています。
    
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ15:13)

神様が希望の源であり、信仰が与えられている私たちは、喜びと平和、そして希望に満ちあふれるようにと、それが実現するようにと聖霊が一人ひとりに与えられているということはなんと感謝なことであり、励ましです。パウロはローマ信徒への手紙5:3-5で、なぜ希望があるのかを彼の神様の恵みによって生かされてきた経験をもとに具体的に記しています。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

神の愛が「聖霊によって」 注がれていると記されています。私たちはすでに、聖霊を分け与えられています。ですから、神の愛は注がれるのです。これによって、イエス様が言われる「互いに愛し合いなさい」が可能になってくるのという、希望があります。この希望をキリストにおけば、辛い状態が続いても、忍耐することができるからです。祈り続ければ、私たちの心も、相手の、状況もいつか変わるでしょう。この希望を持って、今週もそれぞれのおかれた場所において、神様の御業に参加していけるよう祈りつつ歩んで参りましょう。

(引用:新共同訳聖書)(引用 新共同訳聖書)



マンホールの修理

2023年05月14日 | 日記
 教会の入り口の横に花を植えました。水をやっていると、花壇のすぐ横にある下水のマンホールからの臭いに気が付きました。よく見てみると、マンホールの蓋はしまっていても、側面がかけていて、そこから土砂が常時入り込んでいるのです。先月も排水が詰まって業者にきてもらったのですが、これでは常時詰まることになります。修理費用はいったいどれくらいかかってしまうのかと懸念しつつその業者に連絡すると、まずは町役場に聞いてくださいと言われました。下水のマンホールは町の所有なので町が修理するということで、すぐに直してくれました。何に関しも所有者に管理責任と修復責任がありますが、それがどこからどこまでが実際の使用者に負担義務があるのかわからない場合があります。今回は費用が掛からず安堵しました。

 人がもし会社に属していれば、何か業務上で問題が生じたとき、個人の責任も問われるケースもありますが、基本は管理不行き届きであると会社の責任が問われます。フリーランスで仕事をしていると、自分の望むままに仕事ができ自由ですが、収入の面も、そのほかすべて自分で責任を負わねばらないという両面あります。何かに所属しているという状態は、助けがあるという安心感があるものです。

 下記はキリストの使徒パウロが記したみ言葉ですが、クリスチャンはもはや自分のために死ぬことも生きることもないという不思議な表現がされています。これは、キリストを信じた時から、新しい生き方、新しい命に移される、つまり主権が罪と死の支配からキリストへ移動するからと言えます。キリストを信じる前は、自分がこの命の所有者、生きるも死ぬも自分次第ということで、一生懸命なすべきことを自分の努力と力でしているものです。しかし実態は、常に罪と死の支配下にあります。人は死を克服できません。完璧に善にいきられる人間もいません。そして物事がうまくいかない時は行き詰ってしまいます。そして誰かからの助けが得られない場合、結局自分で責任をとるしかないのかと絶望的になるもしくは、考えないことにして現実逃避的なことで紛らわして生活するという二通りに分かれるかもしれません。いずれにしても、不安定であり心が真に休まることはないでしょう。

 しかし、自分は主のもの(神様のもの)であるということを信仰で受け取れると、自分自身の存在は神様の主権のもとにあり、保護され、またすべてを委ねられるという状態になれるのは幸いです。自分が神様に属していれば、人には期待できない状況でも、神様には望みをおくことができるという強さが与えられます。たとえ、自分が思うような助けが与えられなくとも、キリストを信じて委ねる者には万事が益になる*1方向に導いてくれるという安心感が与えられます。そして、そこには自由があり、縛りや強制がないのが世の中で何かに属している状態との違いです。私の魂と意思は存在します。しかし、私は、私を救ってくださったキリストを信じ、キリストのためにいきたいという自発的な思いで物事を判断し、行動していこうとし、強制ではないのです。もちろん、社会生活している中で、そう望んでもうまくいかない場合のほうが多いですが、私の心の内側に聖霊が住んで(「住む」というからには、物ではなく、人格的存在)、私の意思や思いに働きかけ、正しい選択へと導いてくれるのが更なる安心です。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」*2とイエス様が弟子たちに言われたように、わたしは決して見捨てられることなく、父なる神の愛のもとに安心して、その庇護の中にいられます。し、「自分の命だ、自分の人生だ」と思えば、自分でなんとかしなければなりませんが、自分はどこからきてどこへいくのかを知り、この人生は天におられる父なる神様のもとへいく途上であり、今もわたしたちは主なる神様のものであるという、このことに対する信仰を働かせれば、「祈って任せよう」と委ねられるでしょう。クリスチャンとはそういう者ではないでしょうか。この信仰を基盤にし、日々聖霊の導きにしたがって、歩んでいきたいと願います。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 」 コリント信徒への手紙1 14:7-9

*1 「神を愛する者たち、つまり、ご計画従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」 ローマ信徒への手紙8:28
*2 ヨハネによる福音書4:18