Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

アジア学院サンデー

2021年10月29日 | 日記
 10月末、コロナ禍のため延期となっていたアジア学院サンデーを益子教会でようやく開催することができました。アジア学院サンデーとは、那須塩原市にあるアジア学院(農村指導者養成専門学校)の留学生達を教会の日曜礼拝に招き、礼拝メッセージと彼らの国の状況を分かち合って頂き、アジア学院の働きを理解し、支援するというプログラムです。私たちが西那須野教会に在籍していた頃は月に一度開催され、毎回アジアやアフリカの彼らの出身国の様子を知り、交流をする機会がありましたが、益子教会では今回初めての開催となりました。残念なことに、今年は海外からの留学生はコロナ禍によりビザが下りず、学生はすでに日本に在住だったギニア人の方と3名の日本人だけとなり、今回そのギニア人の方との日本人学生の2名と宣教師ご夫妻の参加でした。

 アジア学院の留学生は、クリスチャンだけでなく、イスラム教徒や特定の信仰を持たない方々もいますが、このアジア学院サンデーの時は宗教や信条に関わらず、学生たちは皆で参加しています。この日本人の学生は、アジア学院での共同生活は全てにおいて初めての経験・生活様式で、最初は慣れるのに大変だったと話していました。彼はアジア学院に入学した動機を分かち合ってくれましたが、今迄、すでに出来上がっている安くておいしいファーストフードや弁当をコンビニ、スーパーで買って食べていた生活から、自分達で一から種を蒔き、収穫し、家畜を飼い、料理し、無駄なく再利用するという循環型の生活スタイルへと変わったこと、今問題となっているフードロスもなく、自然と調和した生活を送ることができ、貴重な経験だと言われていました。このように今ある大量消費社会のひずみに気付き、環境と調和し、自然界と共存していくには、何がよいことかを考え、取り組んで行こうという人が増えていけば、徐々に社会も地球も変わっていくのではないかと思わされました。

 約一年振りに、感染対策をしながらも社会は通常営業に戻りつつあります。コロナ前のように、夜中まで飲んで食べて騒ぐことにが制限された経験を通して、人々は何か学んだことはあったのだろうかと思わされます。非常事態が起こるということは、負の側面だけでなく、今迄当たり前に思っていたことを、今一度、この生活スタイルは良いことなのだろうかと考え直すプラスの機会でもあると思います。需要以上の大量食品がスーパーに並ぶこと、エネルギーを大量消費する24時間営業の店、深夜営業の飲食店が必要なのかという生活の中での問いから、そもそも何のために生きているのだろうという精神的な問いに至る迄、一人一人が流されずに、考える良い機会だと思います。しかし、その機会を見逃して、再び自分の快楽、遊興をストレスの解消と称して、以前と同じことを続けてしまう人もいるかもしれません。人の欲や深いもので、制御し難いものです。

 アジア学院のようにストレスがあまりないように思える平和的な環境であっても、それでも一人一人が向き合わなければならない心の課題があると思います。人間的努力と思いだけで、恒常的に楽しく、満足できるということには限界があるでしょう。私は、お金はありませんが、どんな状況にも満足できる心とキリストの愛による喜びを与えてくれる存在:イエス・キリストを信じる信仰があたえられて、本当に幸いだと思います。日々、色々なことがあっても、平安の内に戻れるところがあるからです。大切な人を失って悲しみのふちにいる人、仕事を失って途方にくれる人、生きている意味があるのかと希望がない人。。そのようなマイナスの局面にいる時こそ、神様を求め、そしてキリストを信じる信仰に導かれるチャンスだと思います。そのチャンスを逃さず、神様を信じて、心が豊かにされ、困難な状況に立ち向かえる力が人々に与えられるように、祈りたいと思います。聖書の言葉に触れる機会はネット上でも、教会でも、今の時代求めれば与えられます。探せば、見つかれります。門をたたけば、開かれます。イエス様がそう約束されたからです。求める対象は、モノや人、金ではなく、神ご自身です。「神に」何かを求めるのではなく「神を」求める。 冒頭のみことばは、そのことを言っているのではないでしょうか。

 「 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜さがせ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 すべて求める者ものは得、捜す者ものは見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」 マタイによる福音書7章7-8節

いちじくの木を見て、目を覚ます

2021年10月10日 | 日記
 私は時差ボケの時以外はいつでもすぐ眠れます。しかし、起きていなければならない時に、それが一方的に講義を聞いたり、本を読んだリすると眠くなってしまいます。若い時、日曜の礼拝に出ていても、大変申し訳ないのですが、お話しが始まると眠くなり、横に座っている母に脇腹をつつかれたものです。勉強しなければならない時も、いつも机の上にうつぶせに短時間ですが意識を失ったように寝てしまい、こんな勉強不足で今迄よく、受験勉強や様々なコースを修了できたなと思います。振り返ると、自分の能力以上のことをせざるを得ない状態で、全て神様の助けがなければやり遂げるころはできなかったと思います。

 今回この年になって再び働きながら学ぼうという志が与えられています。最終的に、この道を行くことを神様が背中を押して下さっていると、冒頭のみことばを通して示されて、意気込みはあります。しかし、いざ仕事から帰宅し、色々終えていざ本を読もうと思うと、たった1分で眠くなり寝ています。夜が眠いなら、朝方早く起きてと試みましたが、これもダメでした。やはり、休みの日の昼間しか集中できないのですが時間が足りません。カフェインは全く聞きません。どうしたら目を覚ましていられるか、またただ目を覚ますだけでなく、読んだ内容が多少なりとも頭に残るための集中力が必要です。この数週間で、すでに挫折状態です。

 先日イチジクの実を頂きました。イチジクの実は柔らかく、ほんのり甘くとてもおいしいです。イチジクはイスラエルの地域でたくさん取れる果物なので、聖書の中でたとえ話としてよく出てきます。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる・・・しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」*1 ここで、人の子とはイエス様ご自身を意味し、またこの世の終末はいつ来るのかという事に関し、そのタイミングは誰もわからないし、突然来るものだが、その前兆はこういうことが起こるから、その前兆が起きてきたらそろそろ来るなと心の準備をしておきなさい、言い換えれば「目を覚まして祈っていなさい」と言われています。日常生活の忙しさで、すぐにこの緊張感を忘れるので、いちじくを見て思い出すきっかけとなるというのは、生活の中のものを用いた譬え話の効用であると感謝しています。

 寝ている暇はないのです。しかし寝なければ健康を害してやるべきことさえも出来なくなってしまいます。この健康を害さない程度になすべきことをこなし、また、イエス様が言われたように「霊的に」目をいつも覚ましていなければならないとは、軟弱で怠け者の私にはとてもハードルは高いように思えます。また、いくら私が今後の計画を立てたとしても、その前に終末が来るかもしれない。それはそれで良いとして、下記のみことばを心に留め

 「あなたの業を主にゆだねれば 計らうことは固く立つ。*2
 「人間の心は自分の道を計画する。 主が一歩一歩を備えてくださる。」*3

心に与えられたことを神様に委ねて、一歩一歩進んで行けば、神様が道を備えて下さると信じて、自分を奮い立たせることにしました。大地震もいつくるかわかりませんし、コロナ禍のような予想外のことがこれからおこるかもしれませんから、思ったとおりにことが進まないのが、ある意味普通なのかもしれません。たとえ、身体的には寝てしまって志したことがうまくいかなくとも、みことばをいつも心に留め、常に祈り、目を覚ましていられるように神様に助けて頂きたいと願います。

「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピの信徒への手紙2章13節  

*1 ルカによる福音書21章29-36節
*2  箴言 16篇3節
*3 箴言 16篇:9節  (聖書引用 新共同訳聖書)