Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

喜びに励まされて

2021年11月28日 | 日記
 社会福祉の学校時代の友人たちと数年ぶりに会いました。私は地方に在住していて首都圏には出ていく機会が少なく、またコロナもあってしばらく集まることができませんでしたが、久しぶりに会って、近況を報告しあい楽しいひと時を過ごせました。5年も過ぎれば何かしら変わりはあります。転職、病気、家族との別れ等、それぞれの人生で大変なことがあり、今の職場でも人間関係、制度上の問題と決してお気楽な状況ではありません。しかし、ともに分かち合うことで、お互い励まされ「また頑張ろうね」とそれぞれ帰途につき、感謝でした。

 一方、日本は他国に比べてかなり安全であり、コロナも一時抑えられているようですが、世界では政治的に不安定で家を追われてる人々、さらなるコロナ感染拡大の波が来ており、病気に苦しんでいる人々もいて、また自分たちがいつ感染するのかという不安を持ちつつ、経済もどうなるかと先行きは不透明です。日本もいつ感染拡大により非常事態宣言になるかはわからず、ニュースを通して耳に入る専門家たちの予測により、恐れや不安が沸き起こってきます。一時的に励まされても、不安材料は常につきまとうという社会状況であります。

 下記の聖書のみことばは使徒パウロがフィリピという市に住む信徒あてに書いた手紙の内容ですが、パウロ自身はこの手紙をキリストの宣教のゆえに、迫害され獄中で書いています。ですから、状況的にはとても喜べない、逆に劣悪で、いつ殺されるか、またいつ釈放されるかわからない絶望的状況でした。にもかかわらず、彼が失望せず、かえって他者を励ませる手紙を書けるほど喜んでいられたのはなぜでしょうか。それは彼のキリストを信じ続ける信仰だと思います。
パウロは、私たちの今おかれている「状況において」喜びなさいと言っていません。「主において」常に喜びなさいといっています。社会情勢がどんなに悪くとも、どんなに落ち込んでいても、常に喜べることがクリスチャンにはあるはずです。それは自分がキリストによって罪の赦しが与えられ、救われて、神様との間に和解が与えられていること、それによる平安が与えられているという、恵みにおいて喜べるということでしょう。この救いの喜びを思い出す時、今自分が決して喜べるような状況にない時、辛い時も励まされます。主が共にいてくださるという信仰を働かせることによって、前向きに物事をとらえ、また疲れて力が失われていても起き上がれます。もし信仰が働かないほど、落ち込んでいるのであれば、「わたしどもの信仰を増してください 」*とイエス様の弟子たちがお願いしたように、祈って信仰を増してくださいと願い求めることができます。信仰を持ち続けるには、自分の意志や力だけでは限界があります。しかし、信仰さえも増し加えてくださる神様が共にいてくださるというのは、何にも勝る、変わらない励ましであります。また、ともに祈ってくれる仲間が教会にはいることは、目に見える励ましでもあります。

 最近、日々の疲れがたまって朝起きるのが辛いと思うことが日々あります。今月は特に通常のルーティンの上に、研修や面接で遠方にでかけたり、課題提出があったりと時間がとられ、何のためにこれらをしなくてはならないのかと投げ出したくなり、イライラしそうになったこともありました。そんな時、いつもこの信仰の原点に戻り、キリストに従って生きるという本来の位置に自分の心を戻せることは幸いです。状況の左右されず、神様のすでに私にしてくださったこと、またこれからも与えられる恵みに感謝し、日々過ごしていきたいと思います。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」フィリピ信徒への手紙4章4節

*ルカによる福音書17章5節

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」フィリピ信徒への手紙4章4節


絶対的信頼

2021年11月14日 | 日記
 先日、久しぶりにハプニングがあり、冷や汗をかいたことがありました。その日、今まで在宅で何時間もかけて準備してきた研修の、しかもその集合研修日の当日に栃木から東京まで電車で向かう際、途中到着が間に合わないという状況がおこり「ああ、もうだめだ!神様助けてください!と祈りました。一方で、「間に合わなかったら、それはこの研修の修了・資格保持ができなくとも、私の将来の方向には差し支えないのかもしれない。自分の計画が通らなくても、神様にゆだねよう」と、ふと冷静に思いました。そして待っている間に夫に電話し窮状を訴えると「大丈夫、間に合うよ、祈っているから」と励まされ、その後なんとかタクシー乗り場まで走り込み、会場の受付に開始3分前に到着。無事に研修が受けられほっとし、感謝でした。次回は前の日から東京の実家に泊まることにします。

 いちいち夫に電話しなくとも自分一人やればよいのですが、何か起こったときは夫に助けを求められること、特にその場で祈ってもらえることは心強く、幸いです。しかし、夫が人間である限り、物理的に体は一つしかないし、空間的にいつも共にいるわけではなく、また助けたくても助けられない状況がある、つまり限界があることは承知しています。結局、独りで立ち向かわなければならないという状況は必ずあり、独身でも既婚でも、皆同じだと思います。

 私は今まで、神様により多くの危険から守られ、助けられてきました。日本でもどこにいてもそうですが、特にアメリカで独りで生活していた時は、いま振り返ると「よく、無事だったなあ」と思うほど、無茶をしていたと思うことがあります。アメリカでは一部の一般人が銃をどこでも持ち歩いているという点で、怖い面があります。治安の悪いフィラデルフィア中心部やニューヨークで、タクシーも乗れず夜中に路面電車や地下鉄で帰宅したこともあり、また危機的状況の中で誰からも助けが得られず、自分独りで対応せざるを得ないこともありました。しかし、どんな時も神様が共にいて下さったから、独りではない、神様が守っていてくれるという信仰が与えられ、実際安全が保たれ、本当に感謝であり、またこれからもどんな状況になろうとも、神様がいるから大丈夫だという絶対的信頼を持てます。

 使徒パウロは当時、私たちが想像も及ばないほど多くの危険や困難な目に会い、それでもキリストの福音を伝えるために、ローマで殉教するまで宣教活動をしていたことが聖書にしるされています。下記のみことばのように、彼の実体験を伴う神様への信頼はとても重みがあり、このことを信じるすべての人に、この神様の愛が及ぶということが記されています。死でさえも、私たちを神様の愛から引き離すことはできません。ただ、私たちがこの信仰を持ち続ける必要はあります。信仰とは、神様に対する絶対的信頼であるとも言えます。世の中に絶対というものはないですし、相対的なことばかりですが、神様に関しては絶対という形容詞を使えます。信仰もプレゼントですから、まだ信じられないという思いであれば、求めれば不思議と与えられます。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。 」(ローマの信徒への手紙15章13節)とあるように、この信仰によって、状況に左右されない救いの喜びと平安が私たち一人ひとりの心を日々満たすように、祈っていきたいと思います。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。 」 ローマ信徒への手紙8章38-39節

足元に注意 Watch your step

2021年11月07日 | 日記
 先日、福島県にある安達太良山に夫婦で登山に行ってきました。往復約5時間のコースとなりへとへとになりましたが、天候にも恵まれ、自然のすばらしさ、紅葉の美しさを満喫し感謝でした。しかし、途中、山の頂上が見えたときに私は大はしゃぎで写真を撮ろうとカメラを手に取り一歩踏み出すと、つまづいて転倒。カメラを構えていて、足元を注意しなかったのです。カメラを持っていたので両手を付けず、右手上腕から転びました。一瞬「あっ、骨が折れたか!?」との思いがよぎるほどの痛みが走りました。幸い打撲ですみ、痛みをこらえながら少し自重して、残りの登山を続けられました。登山に限らず何事もそうですが、足元を見ないで歩くとつまづきます。基本的なことですが、他のことに気をとられていると忘れてしまいがちなことです。痛い目にあって学ばされ、また今回骨折しないですんだことを神様に感謝いたしました。
 日々の歩みの中で様々なことを同時進行させていくと、気持もあせり、私は特に二つ三つのことを同時にすると片方に気を取られ、もう片方のことにミスが生じたりしがちです。ですから、どんなに忙しくても手を止めて一つのことに集中し、終わらせてからもう一つのことに進めるようにと気を付けています。それでも、時々失敗し、落ち込みます。足元に注意。自分がいま立っているところはどこか、目的のための自分の立ち位置を確認しないと、気が付くと、本来あるべき姿を見失うことがあるのです。
 私は多くのことについて、信仰の視点からどうあるべきかを考えるようにしています。例えば、今なぜ働いているのか、なぜ勉強しているのか、なぜ益子という地に住んでいるのか、今なぜ家事を効率的にする工夫をしなければならないのか等々、これらすべてには同じ目的と計画があります。しかし、一つ一つの忙しさや期日、大変さに気を取られて目先のことに目が行き、目的の焦点がづれてしまうことがあります。そこで、もう一度聖書の言葉を読み、祈り、聖霊の導きにより心の中で、「なぜ慌てるのか、あせるのか、何のためにこのことをしているのか、優先順位は何か」とふと気が付かされ、焦点を戻しています。私の目的は、生きている限り、主キリストに従って歩むこと、キリストの救いの福音を人々に機会があるごとに証ししていくことです。今の生活の中の小さなことすべてがこの目的と関連があり、そのために益となり、手段として必要なのです。私はおおざっぱな性格で、なかなか細かく気配りが持てず、間抜けで、愚かなものですから、下記のパウロの言葉は耳が痛いです。
 さらに大事なことは、生活の中のすべてのことに神様への感謝を忘れずにいることだと思います。日々、神様から与えられる恵み、例えば食べるものを感謝し、登山をした時はその自然の美しさに感謝し、すべてのことに対して主キリストにあって感謝し、生かされていることを喜ぶことができます。この感謝と喜びがないと、目的達成のためにひたすら走ることばかりで、生活がギスギスし、燃え尽きてしまいます。どんなに気を付けていても、焦点がづれることもあり、また失敗もあるでしょう。そんな弱い愚かな私さえも、神様は見捨てず、寛容に、愛を持って見守り、正しい方向へと導いてくださることに慰めと励ましが与えられています。

「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。・・・そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。 」  エフェソ信徒への手紙5章15-17、20節