Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

水に浸る楽しさ

2019年06月30日 | 日記
 先日、久しぶりに市営プールで泳ぎました。通常私は好んで泳がないのですが、折しもアクアビクス初級のクラスが開催されていたので、それに出るついでに少しコースを泳ぎました。私は潜水している間が好きです。潜水といっても、泳ぎ出す時に壁を蹴って、その反動で潜水し、そして浮かび上がって泳ぎだすまでの短い間のことですが、水から出る瞬間がなんとも言えない爽快感があり、特に折り返すときは、すでに25m泳いで疲れているのて、次の25mへ泳ぎだすまで水中で呼吸を整え、体を思い切り前へストレッチできるからです。昔、スキューバダイビングをかじったことがありますが、水の中というのは一種神秘的な世界です。

 キリスト教ではバプテスマ(洗礼)という儀式があり、キリストを信じると決めた人が、皆の前でその信仰を表明するために行うものです。もともとは、川や湖で体全部を一瞬静めて、すぐに上がるというやり方でしたが、その後、歴史の中で宗派によってそのやり方は様々となり、例えば、私の母は利根川上流でザブント体を浸して受けたそうですが、私は教会堂の中で水を少し頭にかけるというやりかたで受けました。バプテスマはラテン語の”バプティゾー”から来ていて、「浸る」という意味だそうで、その点で本当は私も水の中に浸り、ザバッと水から出る瞬間を味わいたかったのですが、形式にこだわる必要はなく、洗礼を受けること自体に意義があるのでよしとしています。

 洗礼は古い自分のお葬式と新しい自分の誕生日とよく例えられます。キリストを信じることで、信じる前の古い自分は水の中で一度死に、水から上がった時に新しく生まれることを象徴しています。イエス・キリストは「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができない」*1と、言われました。つまり、人として生まれてきたままでは天国へ行けないということです。新しく生まれるというのは、もう一度母親のお腹のなかに入って出てくるということではなく、キリストを救い主として信じて、新しい命が与えられることです。これは心の中の変化のため見た目は変わらなくても、内側が信仰をもつことで新しくなり、今迄と異なる生き方をしていくということです。新しく生まれた私は、もはや自分のために生きるのではなく、神様のために喜んで生きたいという思いに変えられていきます。神様が何を喜ばれるかというと、実を結んでいくことです。

 実を結ぶとは、私の言動がキリストのようになっていくこと、具体的には愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制 *2を周りの人に表すことです。私が愛を示していければ、周りの人が「ああ、あの人が信じている神様がそのような方だからか。キリストはすばらしいね」と私ではなく、神様に栄光が返されるためです。それが新しく生きる私の目的となり、その目的のためには、神様は願いを叶えて下さるという約束があり、自分の力や性格によってできなくても、神様が助けて下さるというのが大きな励ましです。実を結べるようになるには時間がかかります。たとえ時間がかかっても、新しい命にあって、聖書のことばから学びつつ、キリストに倣い日々実を結べるように過ごしていきたいと思わされます。


「あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。 」 ヨハネによる福音書15章8節



*1「イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 」ヨハネによる福音書3章3節
*2 ガラテヤ人への手紙 5章22-23節

茶臼岳登山

2019年06月27日 | 日記
「これから、山へ行くぞ山へ。」朝の一仕事を終えて家に戻ってきた夫の第一声。前から、茶臼岳を登ろうと計画をしていたので、後は天候とお休みの日程次第でしたが、「え?今から?」、。と服を着替えてすぐに出発。その日、那須連山は雲で覆われていましたが、幸い雨は降らず、かえって日差しが強くないので快適でした。登山口に車を止め、いざ歩き出しましたが、最初から石段の斜面を登るコースで、息が切れて足取りが重く、これから約3時間のコースを達成できるのかと自信がありませんでした。しかし、途中緩やかな道もあり、そこで息を整えられて、美しい新緑の山々と、硫黄が所々吹き出す岩だらけの斜面をじっくり見る余裕もあり、しばし感動に浸りました。山の尾根から少しだけ除く青空に、鳥のさえずりがだけが響きわたり、風で運ばれる冷んやりとした雲が、私たちの体を撫でていきました。お昼の休憩を峰の茶屋で取り、後半は急な岩だらけの斜面を登り、ようやく茶臼岳山頂へ。登山はハードなスポーツですが、頂上に着いた時や、後ろを振り返り今迄登ってきた道を見下ろせた時の達成感は、なんとも言えません。私達のようなビギナーから、熟練した登山家まで、登山は多くの人を魅了します。

 同じ登山をするのでも、非常に暗い、悲痛な気持でしなければならなかった人がいます。それは聖書に出てくる、アブラハムという、イスラエル人の先祖です。彼は神様から言われて、モリヤ山を息子と登らねばなりませんでした。その目的は、登山を楽しむためでも、旅行のためでもなく、なんと、大切な一人息子イサクを山で、神様に捧げなさいという命令のためでした。この子は、アブラハムが75歳の時に神様が子を与えると、そして彼の子孫を大いに祝福すると約束された、100歳の時にようやく与えられた子でした。3日かけての険しい登山の目的は、山頂で息子を手にかけること。アブラハムの苦悩は想像を絶します。しかし、アブラハムは寸前まで青年の息子にそのことを告げずに、「捧げものの羊はどこにあるんですか?」と聞かれても、「息子よ、神様が用意してくださるんだよ」と答えています。彼は、「実はこれはこういう結末となる」と知らなくても、とにかく神様は約束したのだからと、イサクはたとえ死んでも生きかえるだろうと信じて命令に従おうとしました。そして、実際、神様はアブラハムを試みてこう命令されたのであって、山の上でイサクを捧げることなく、神様が代わりに用意した羊を捧げたというストーリーです。

 ある人は、いくら命令に従うか試すにしても、あまりにも神は残酷ではないかと言います。しかし、これは後に、神ご自身が残酷な犠牲を払ってくださることを示す型なのです。神が自分の独り子である、イエス・キリストを十字架を、つまり、このイサクの代わりに捧げられた羊はイエス・キリストを示しています。人の罪は、誰かが代わりに命をもって贖わなければならない程、神の前に重く、深刻です。神様は、誰一人として、人間を犠牲にしたくない、だから自分の子(神の子)を犠牲にされた、そこまでして人間を救いたかった、この大きな神様の愛が、このイサクを捧げる試練を通して示されてます。さらに、死んで終わりではなく、イエス様は神様が復活させますが、そのイエス様の復活が示すことは、私たちも、この神様の救いの計画を信じて、悔い改め、イエス様を救い主として受け入れれば、新しい命が与えられるということなのです。

 アブラハムのケースから、目に見えない神を信じ、また確証されたものがはっきりと示されていなくても、神に委ねて一歩踏み出すと、想定外な道が開かれ、やはり神は生きていて働いてくださっていると感謝する。この繰り返しにより、私たちの信仰は成長させられるのだと思います。そのために、神様は聖書を通して、たくさんの救いの約束を与えて下さっています。この世がどんなに暗くとも、不条理なことばかりでも、その約束には希望の光があります。その光に照らされ、時にかなった神様の助けと、日々与えられる恵に感謝し、ゴールに向かって一歩一歩、歩んで行けたらと、祈り求めます。


「信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。 」 へブル人へ手紙11章17-19節

一緒に歩く

2019年06月21日 | 日記
 ご高齢の方と共に歩く際は、歩くペースを相手に合わせ、色々気を遣う必要があります。このことは他人に対してだと覚えているのですが、身内に対してだとつい忘れてしまいがちです。少し前に、私は母と共に電車とバスで初めての場所へ行こうとした時、駅でバス停を探さねばなりませんでした。私はちょっと先に歩いてそのバス停の場所まで行き、確認して戻ろうとすると、母の姿が見えません。驚いて駅のロータリーを探しましたが、どこにもいない。さほど広い場所ではなく、見通しも良いので、ついてくるものかと思ったのです。携帯をならしても出ない。するとまもなく、駅の改札に向かう階段から母が下りてきました。母は私の姿を見失い、私が階段を上がっていったと思って、上に行ったのでした。一緒に目的地に向かうには、時間がかかっても、乗り遅れそうになったとしても相手のペースに合わせて歩かなければと反省させられます。

 聖書には「神と共に歩く」という表現が、クリスチャン生き方としてよく使われています。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。 」*1、「主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」*2 具体的に、「神と共に歩く」とはどういう意味なのでしょうか。ここで記されているように、不正なことをせず、慈しみの心を他者に持ち、謙遜な思いと態度で日常生活を過ごす、つまりキリスト・イエスに倣って日々歩むということだと思います。

 しかし私たち人間は、このような神の基準には到底達しえません。それでも神様の愛を受け、感謝し、神様のなさることが人にとってベストだと同意するからこそ*3、一緒に歩んで行きたいと願い、そう求めるうのではないでしょうか。自分の力や性格でキリストのように出来なくても、祈って神様からその愛を注いで頂き、出来る力を与えてもらう、素直な心に変えてもらうことは可能なはずです。

 「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」*4 イエス・キリストの歩まれたように歩もうとする人は、神のうちにとどまり続ける、つまり神様と繋がっている状況においてそれが可能となります。ブドウの枝がその木に繋がっていさえすれば、栄養分が送られ、実を結べるように。いつも、イエス様に繋がっていられるよう、日々祈り求めていきたいと思います。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 」ヨハネ福音書15章5節


*1 コロサイ人へ手の手紙2章6節
*2 ミカ書6章8節
*3「二人のものは、同意していないのに、一緒に歩くだろうか」アモス書3章3節
*4 第一ヨハネの手紙2章6節

平和の願いを込めた折り鶴

2019年06月14日 | 日記
 先日、一年間の日本での駐在を終えて帰国する、インド人家族の送別会を開くため教会に有志で集まりました。食事を共にしながらとても和やかな会となりましたが、最後に夫が「折り鶴をみんなでおりましょう」と提案しました。このインド人の方々は折り紙自体を見るのが初めてで、それを用いて鶴を作ることにとても驚いていました。折り鶴は、日本では平和のシンボルとされているとも説明し、皆で作った折り鶴を日本の記念として彼らにプレゼントしました。

 アメリカ合衆国の元大統領のオバマ氏が、2016年5月に広島平和記念資料館を訪れた際、4羽の折り鶴を持参し、2羽を広島の子ども達へ渡し、もう2羽を記帳台に置いたそうです。おそらく、日本の文化を配慮した上での平和を祈願して行った行為だと察します。その3年後、現在の大統領が国賓として来日しましたが、その際自衛隊に高額な兵器を売りつける交渉がなされたとのことです。折り鶴と兵器。同じ一国の大統領が携えて来るものとして、なんと対照的でしょうか。

 シャローム。これはイスラエル人が「こんにちは」・「さようなら」の挨拶として、日常的に交わされていることばで、ヘブライ語で”平和”を意味することばです。イエス・キリストも弟子たちを伝道旅行に送り出す際に、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。」*1 と指示されました。つまり、イスラエル民族は、昔から挨拶のことばに、相手の平和を願う祈りが込められているようです。これは、この民族が祝福、恵み、平和というのは神様が与えるものだということを知っていて、それを互いに願うという、宗教的背景からきているのでしょう。

 自分の愛する肉親を、ナチの強制収容所で殺され、自身だけは奇跡的に収容所から生きて出られたコーリン・テン・ブームというオランダ人の女性がいました。彼女は戦後、その信仰により、キリストが与える愛を持つ人として、元収容所の看守を赦すことができたという証を彼女の自伝*2 より知りました。最初、彼女の目の前にその元看守が現れた時、怒りの感情、赦せない心が沸き起こったそうですが、不思議に神の愛が注がれて、その元看守に握手の手を差しだし、赦せたそうです。これは彼女の意志の力ではなく、キリストによる平和が恵みとして与えられたから可能だったのでしょう。このように、キリストを信じる信仰により、敵対していた関係が和解の関係へと奇跡的に変えられていくという証が世界中で起きていて、それを聞くにつけ、個々人の平和は可能なのだと励まされ、慰められます。

 人は誰でも平和・平安を願う心を持っているはずです。しかし、互いの利害が相反したり、大切な人の命を奪われると、争う状況や相手を赦せなくなります。この社会で生きている限り、いつも平和な心を自分の意志だけで保ち続けることは限界があるのではないでしょうか。 しかし各々がキリストを通して与えられる平和があるようにと、互に祈りあえれば、きっと平和が実現すると私は信じます。なぜなら、キリストこそが平和であり、十字架の死によって、まず人が神と和解できるようにして下さり、その平和が、コーリーのように、人同士の平和に及んでいくことが可能だからです。相手を赦せると、自身の心に平安がもたらされるという、キリストの平和を経験する人が増えていくことを願いつつ。
                                                                        
「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。 」  コロサイ人への手紙3章13-15節


*1 マタイによる福音書10章12節
*2 Corrie ten Boom,"The hiding place",日本語訳「わたしの隠れ場」,いのちのことば社

映画「僕はイエス様が嫌い」を見て

2019年06月10日 | 日記
 2019年の5月末から劇場公開となった邦画「僕はイエス様が嫌い」を観ました。この映画はサン・セバスティアン国際映画祭で、最優秀新人監督賞を史上最年少で受賞した実力のある監督の作品でしたので、期待して劇場に足を運びました。あらましは、おじいちゃんが亡くなり、雪深い地方で独り暮らしとなったおばあちゃんと一緒に暮らすため、両親と東京から引っ越して来た小学生が主人公。この小学校はキリスト教系の学校のため毎日礼拝が行われており、彼はいつもキリスト教の神様(イエス様)にお祈りするという環境に戸惑いを感じつつも、友達も出来、次第に慣れていきます。ある日、目の前に小さなイエス様が現れ、願いを叶えてくれるという経験をし、イエス様の存在を信じるようになりますが、その後、思いがけない悲劇が起こります。

とても良い映画だと思いましたが、最後の場面をどう受けとめるか、この映画のテーマは何かは、個々人の想像・解釈に任せるように出来ているようでした。その鍵の一つは、映画のエンディングの讃美歌の歌詞:

♪主イエスとともに 歩きましょう いつも
 うれしい時も 悲しい時も
  歩きましょう どこまでも ♪

にあるのではないかと思いましたが、実際この歌詞を聞いていた人はどれだけいたのかとも思いました。夫は映画の最初と最後に出てくるシーン「障子に開ける穴がポイントでは?」と言いました。私が「その穴は何なの?」と聞くと、「ーーーーじゃないかな」(これから観る方に先入観を与えないために)と夫の意見。人それぞれに解釈ができる映画で、興味深かったです。

聖書では、神を見た人はひとりもいないと記されています。神の幻を見た人々、神のイメージを見た人々、神の現れを見た人々はいますが、完全な神を見た人はひとりもいない、もし直に見たら生きていられないというのです*。イエス様が2千年前に地上に人となって現れましたが、この状態は神でも人でもあり、天にいる状態の神としては人の前に現れていないからでしょう。つまりキリスト教の信仰とは、この映画のような目に見えるイエス様が出てきて、お祈りしたことを叶えてくれる神様を信じることではないのです。むしろ、下記の聖書の箇所が示すように、見えないけれどもその存在を信じ、また自分の願いがその通りに叶えられなくても、祈りは必ず聞かれていて、神様に事の沙汰を任せるのがベストだという確証を得ていることではないでしょうか。

一般的に、目に見えるものしか信じられないという方が多いと思います。一方で、例えば「心」は目に見えないものですが、「心」の存在を前提として人は生きていて、どの民族にもどの時代にも言葉の表し方が異なっても「心」の概念を持っています。この映画の讃美歌のように、嬉しい時、願い通りになる時だけ見えて、ともに歩いてくれるイエス様を信じるのではなく、悲しい時、イエス様なんかいないじゃないか!と絶望のうちにいる時も、見えなくても共に歩いてくれていたことを信じることが信仰ではないかと、そのような信仰が与えられ、希望を持って、イエス様に感謝して日々生活をしていきたいと、この映画を観て思わされました。

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 」ヘブル人への手紙11章1節

*「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」出エジプト記33章20節