Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

どこへ問題を持っていくか

2020年06月21日 | 日記
 クリスチャンといえども、この世に生きている限り病気にもなり、危機的状況にもあい、それらによって生じる恐れや心配からフリーなわけではありません。私は小心者なので、聖書のみことばでどんなにたくさんの神様のよる保障や守りの約束が書かれていて、知っていても、何かが起こりますと瞬間的に恐れが生じますし、頭でクルクル色々考えてしまいがちです。しかし、その後、この感情を引きずらずに、心を平安に保てるという方法が神様により与えられているのは感謝です。

 古代イスラエルの預言者、モーセは奴隷状態にあったイスラエルの民をエジプトから脱出させるというミッションを神様から託され、多くの神様による奇跡を通して、なんとかエジプトから脱出、神様が彼らに与えると約束された土地に向かって出発しました。ところが、常識ではあり得ないような奇跡的な方法で、危機的状況から神様に救い出されたことをどんなに経験しても、民はいつもことある毎にリーダーのモーセに不平を言います。こんな苦い水飲めない、エジプトの生活のほうがましだった等。民は何度も何度もモーセに不平不満をぶちまけ、酷い時にはモーセを殺そうとまでします。モーセは神様から選ばれた偉大な信仰者でありましたが、彼も人間ですから弱さもありますし、謙虚な人だったと書かれていますので、リーダーとして権力を振りかざすタイプではありませんでした。

 このような状況で彼がいつも取っていた態度は、下記の聖書の箇所にあるように、人々に何か言うのでもなく、何かするのでもなく、まず神様の前に問題を持って行き「神様はこの民はこうこう~です。助けてください!」と叫びます。すると、いつもすぐに神様は解決策を与えて下さる様子が聖書に記されています。時にはモーセは、忍耐が限界に達し、民の前に怒りを表してしまったこともあります。それでも神様は彼の訴えを聞き、助けて下さいました。残念ながら、たった一度それをしたことで、彼は約束の地へ入ることは許されなかったという、神様の厳しさもあったことは事実です。

 今迄、誰かから脅しのツイッターや、E-mail、電話などにより恐れを経験したことがありますか?そんな時は、古代イスラエルのヒゼキヤ王も、当時の強力なアッシリア帝国による侵略の脅しを受けた時、神様の神殿にのぼっていってその報告書を神様の前に広げて、助けを祈ったように、神様に問題を持っていきたいと思います。そうすれば、まず心が恐れに支配されないよう守られ、また自分に危害を加えようとする者から守られるでしょう。

「ときに、民はモーセにつぶやいて言った、『わたしたちは何を飲むのですか』。モーセは主に叫んだ。主は彼に一本の木を示されたので、それを水に投げ入れると、水は甘くなった。」 出エジプト記15章24-25節

*「ヒゼキヤは使者の手から手紙を受け取ってそれを読み、主の宮にのぼっていって、主の前にそれをひろげ、主に祈って言った」イザヤ書37章14-15節

親に倣う子供

2020年06月14日 | 日記
 良好な親子関係を持つ人はとても恵まれています。そのような人は、自分を愛し、育ててくれた親を幼い時から見ているので、子供として愛されることを経験として知っており、自分が親になった時にそれに倣おうとするでしょう。一方で、愛を与えられ、守ってくれるはずの親から、虐げられ、最悪の場合には死に至ってしまう、もしくは生きていてもそのトラウマを抱えながら成人していく子供たちがいることは、悲しく、心痛むことです。そしてそのような親たちは、自身も子供の時に親から虐待されていることが多く、その結果どのように子供を愛してよいのかわからないという、不の連鎖の結果が現代社会で生じています。

 どの親であっても、人間ですから完璧ではないし、親になる心の余裕がない人もいます。また、虐待はされていなかったとしても、自分の親を尊敬できない人もいるでしょう。子供は成長するにつれ、親の欠点がだんだん見えるようになり、それにイライラしてマイナスの感情を親にぶつけることもあるでしょう。しかし、ある時気がつきます、それは鏡を見るように、自分も親と似たような欠点を実はもっていることを。そうなると、遺伝だから仕方がないとか、そのように育てられたから今の自分は仕方がないんだと開き直る人もいれば、反面教師といって、こうはならないようにしようと気をつける人もいます。いずれにしても、親との関係がぎくしゃくしたまま月日が過ぎていくのは悲しいことです。しかし、もう一つの良い道もあります。

 聖書では「あなたの父と母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」*1とあります。そこには「良い親の場合のみ敬え」という特記事項はありません。どんな親であろうと、親であるというその事実だけで、敬う存在とあるのです。なぜなら、自分の存在は親無くしてはこの世に命が与えられていないし、それも神様が与えた命だからです。親としての権威は、神からであり、子は親に従うようにと聖書では一貫して記されています。もちろん、親が不法なことをしろと命令したら、従う必要はないのです。神様は親に対しても「父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。」*2と言われており、主(神様)の薫陶と訓戒によって育てるのであって、自分の気ままな感情に基づいて、子に対する権利を振りかざして暴力をふってはならないし、不法なことを子供に命令することは主の訓戒に反します。つまり、親も子も第一に神様に従うことで、親子関係の秩序が保たれるわけです。

 「敬うなんて無理。」という人は、何かしら親に傷つけられて赦せない、もしくは自分ではなく他者にした親の行為が赦せない等、感情的には無理かもしれません。しかし、すべてを可能にすることができる神様にお願いすれば、いつか心の傷は癒され、好きにはなれなくとも親を赦せる日が来る、つまり、親が変わらなくとも、自分の側が寛容に変えられるということがあります。それは神様によって変えられるのです。

 人間の親は完全ではないけれども、私たちを創られた神様は完璧な親であり、完璧な愛をもって一人一人を子供として愛していることを知って、信じてほしいと願い、忍耐して待っておられます。もし、そのことを信じられれば、たとえ親の愛を知らない環境に育った人でも、聖書で記されている父なる神様の愛を知ることができ、倣うべき親のモデルが与えられます。下記の聖書箇所は、神様の子供として私たち一人一人がどれ程愛されているかが記されています。神様がどれ程わたしたちを愛しているかは、神さまの一人子、イエス・キリストの命を犠牲にしてまで、私たち人間を救おうとされたということに表されています。いったい、誰が他人の罪をつぐなうために、自分の子どもを身代わりに死刑という処罰を受けさせるでしょうか。神様はそれをして下さいました。私たち人間も神様が創られた神様の愛する子供で、その子供たちを滅びから救うために、神であるご自分の子、キリストの命を神様は犠牲にされました。

 また、父なる神様に従った子なるイエス・キリストを通して、彼の父なる神への従順と具体的にどのように人が互いに愛しあうかのモデルも示されています。その父なる神様とキリストを信じて、その愛を受け止められると、負の連鎖をする必要がなくなり、愛のうちに歩もうと心が強くされ、そして神様と共に困難な人生を歩んでいけるでしょう。そして、親を含めた他者を赦せるようになると、同時に自分の心の傷が癒され、神様の愛のうちに少しづつ心が平安に変えられていくはずです。もちろん、素晴らしい、尊敬できる親を持つ方々もたくさんいますし、そういう人は自分が受けた愛を自分の子や他者にも分け与えようという人徳が自然に身についているかもしれません。しかし、どんな優れた人でも、神様の愛を知らなければ限界があるでしょう。そのことに気がついた時、謙遜になって、自分には愛のないことを認め、神様の愛が与えらえれるよう、祈り求めたいと思います。
 
「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。 」 エフェソ信徒への手紙5章1-2節

*1 出エジプト記 20章12節
*2 エフェソ信徒への手紙 6章4節

ガラス越しの面会

2020年06月13日 | 日記
 先日、夫と一緒に高齢者施設に入っておられる教会の信徒の方に面会に行く機会がありました。面会も事前に予約し、当日は大きな移動可能なガラスのつい立がその方と私たちの間にしきりとなっておかれ、面会時間も15分以内でした。その方の元気なご様子を伺えて安心しましたが、あらため、”With コロナ”の時代の面会方式なのだと思わされました。それでも、実際お会いできるのでネットによるリモート面会よりはベターだと思います。

 ”「解決」はできなくとも「解消」はできる”という日めくりカレンダーの言葉が目に留まりました。ガン哲学を専門とされる樋野先生というお医者さんが書いた本*の言葉ですが、このお医者さんはガンにかかった方とその家族に寄り添うために、執筆活動やセミナー、またこのような方々が自由に話しをし、それを傾聴するスタッフがいる「がんカフェ」を全国に広めた人です。多く方が彼の本のことばに励まされ、またそのカフェに行くことで”With 病”という、いわゆる完治しなくともがんを抱えながらも前向きに生きていく勇気と励ましを得たことでしょう。

 彼が言うように、多くの問題は完全に解決できないかもしれません。しかし、今社会で多くの人々が、未解決状態において、困難な状況で色々工夫され、開発して商売を続けたりして少しづつ解消している人がいると思います。一方で、長年続けてきたことを止めなければならない人もいるかもしれませんが、それでも別の道が開かれるはずです。人生において、未解決状態であっても、前進が可能だと思うのです。

 時に、問題があまりにも大きく、長期的だと、何が根本的問題なのか、また何が今必要なのかもわからなくなることもあります。言葉に表せないということがあると思います。今朝読んだ下記の聖書の箇所に、私は再び励まされました。クリスチャンが持っている希望の一つに、そのような自分の混沌とした心の状態で、どう祈ったらいいかさえも、いや祈る気持ちの余裕がない祈れない時でさえも、代わりに心の中におられる、神様が与えてくれた聖霊(御霊)が、かわりに神様に祈ってくれるというのです。それも、自分の視点でしか問題の解決、解消方法が見えない場合も、それを超えた神様の計画、み旨にかなうように、代わりに祈ってくれるというのは、大きな安心感を与えられます。自分が祈れない時さえも、自分が知らないところですでに、聖霊がとりなしの祈りをしてくれているという、大きな神様への感謝とその懐の深い愛を覚えます。

 日々、色々なことが同時進行でおこり、対応したことないことを経験する度に、頭が回らない、結果ミスをするなど、自分の能力のなさに落ち込むことがあり、その最中には祈っている余裕もないというのが現実です。それでも、トイレに行った時、廊下を歩いている時など、時間を見つけて神様と会話をして、仕切り直していければと願いつつ、神様から頂く日々の恵に感謝して過ごしていきたいと励まされます。
 
 「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」ローマ信徒への手紙8章26-27節

*「人生を変える言葉の処方箋」、樋野 興夫著、いのちこことば社フォレストブック発行

「もしかすると、この時のため」と思えること

2020年06月07日 | 日記
 「選タクシー」というドラマの再放送を見ています。このタクシーはタイムマシーンでもあり、もう一度その時点に戻ってやり直したいという過去の地点に戻れるという内容です。大概、過去に戻っても、今度は別の問題が生じてドタバタ劇となるという、とてもコミカルなドラマで、私は毎回ゲラゲラ笑いながら見ています。

 生きていると、良いこともあれば悪いと思えることもあります。嬉しい時、悲しい時、辛い時、恐れを感じる時。良いことは楽しいことはそのまま受け入れられますが、例えば、自分の愛する子を突然病気・事故で失ってしまう悲しみ、今のように見えないウイルスがいつ自分の体内に入り、重篤になるのではないかという恐れ、孤独にさいなまれる辛さ、人にいじめられたり傷つけられたりする経験。。。誰でもその渦中にある時、「これはいい経験だ!」などど、肯定的にとらえることは難しいでしょう。私は20代の時アメリカに留学・就労したことがありますが、それは人生で辛い時期となり、無駄だったと思えました。出来れば過去に戻り、アメリカに留学せず、もう一つの選択肢:日本で福祉の専門学校に行く道を選んでいれば、もっと幸せな人生だっただろう、こんなに失うものが大きくなかったのにと、悔やむことが以前はありました。しかし、いくら悔やんでも、選タクシーに乗って過去に戻ることは出来ないのです。

 聖書には、過去が変えられた話は記されておらず、逆にその過去が意外な良いことに生かされたり、用いられたりする話がいくつか記されています。例えば、ヨセフという男性は、10代の時、他の兄弟たちに妬まれて、エジプトに奴隷として売られてしまいます。そのエジプトでも冤罪で牢に入れられたり、辛いことばかりでしたが神様への信仰は持ち続けます。牢に入っている時に出逢った人を通して、エジプトの王様からヨセフの知恵と夢を解き明かす能力を買われ、エジプトの総理大臣を任されることになったのです。これは、その地帯全体に酷い飢饉が起こる前のことで、神様はヨセフを通して、エジプトだけでなく、その周辺の国々の人々も穀物が手に入れられるよう計られました。これはヨセフが30歳になった時のことで、彼は10代で奴隷として売られた時に、自分がこのような役割を担うためだったとは想像できなかったでしょう。下記の聖書の箇所は、ヨセフの兄達へのヨセフの言葉であり、これも、この時のためだったのです。

 神様は一人一人の人生にその人にしかない計画を持っておられますが、一方で人には自由意志があり、自分で様々な分岐点で選択をしていき、その結果が必ずしも喜ばしいことばかりでなかったり、失敗を刈り取らねばならないこともおこります。神様はそれらを無駄なこととせず、私たちの想像しなかったような意外なことに役立てられたり、ああ、あのことがあったのも、この時につながるのだと思えるような展開に、神様が軌道修正をして導いて下さります。

 キリストを信じる信仰が与えられてからは、後ろ向きな考えをすることが少なくなりました。してしまったこと、おこってしまったことをくよくよ思い返さずに、今後は自分の思いではなく、「神様はどう考えられるかな」という思考回路にもっていくように努め、迷った時は答えを求めて祈り、苦しい時には助けを求めて祈り、物事を選択していくようになりました。それは、神様という方は私が何をしようと、しまいと、神様の計画通りに私が動かなくとも、それでも神様は私をそのまま受け入れ、罪を犯せば赦し、愛して下さっているという安心感が与えられているからです。私への責めも恥も、全てキリストが十字架で負って、代わりに死んで下さったのですから。

 ちなみに、日本に帰国してしばらくしてから福祉の専門学校に行く機会に導かれ、仕事も与えられました。そして、アメリカに住んでいた時に得た様々な経験、多くの人との出会いは私にとって貴重な宝となり、これらが相まって今の自分があることを、神様に心から感謝しています。

「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。 」創世記50章20節