Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

能動的と受動的

2021年07月24日 | 日記
 梅雨が明け、猛暑の時期となりました。今年は我が家で、プランターになす、きゅうり、トマト、ピーマンの苗を植え、少しですがしばらくの間収穫を楽しむことができました。近所の方もこれらの小さな野菜の成長を見ていて下さり、そのことで会話をかわし、少しだけですがお裾分けできたり、毎日実がなるのを楽しみにしていました。ところが、折しも、熱海に土石流を引き起こした線状降水帯の大雨の時に、これらの野菜は風と大雨で根ごと倒されてしまいました。急いで修復したのですが、それ以来元気がなくなり、水をあげても実がならなくなり、厳しい太陽に照らされて涸れてきてしまいました。とても悲しくなりました。来年は、大雨が降るときには、軒下に移動するなどして野菜を守らなければならないと思います。このように、植物は自然のままではうまく成長せず、損なわれてしまうことがあり、実を結ぶことは簡単ではないことを毎年失敗しながら、試行錯誤しています。

 私が小さな野菜を惜しんでいる一方、今年の自然災害、特に洪水の被害は日本だけでなく世界各地でもニュースで報道されており、多くの方々の命が失われていることは心痛みます。聖書に、小さな木が枯れたことを惜しむ人と、12万の人々の命を惜しむ神様のストーリーがヨナ書という書簡に記されていることを思い起こします。ちょっとわがままなヨナという預言者は、自分に日陰を作ってくれていたトウゴマの木が一夜にして涸れてしまい、翌朝太陽がヨナの頭上に照りつけ、暑くてぐったりすると、「生きているよりも、死ぬ方がましです。」と神様に文句を言いました。すると、神様はヨナに「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。お前は…一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」*1と言われました。
 
 そもそも、ヨナは神様から「ニネベに行け」と命令されていましたが、自国を苦しめていた残虐な国アッシリアへ行くことを拒み、結果船の旅の途中、大魚に呑まれて生死をさまよい、神様に悔い改めて、ニネベの岸に吐き出されます。ヨナは、ニネベの人々が神様からのメッセージを聞いて悔い改め、救われてほしくなかったのです。案の定、ニネベの人々は、ヨナの簡単なメッセージで悔い改めてしまったのです。私たちは、目の前の小さなイベントにがっかりし、文句を言ったり、ましてや残虐に人を殺す者を「赦せない」と思ってしまうのが正直な感情でしょう。ヨナは私の自己中心的な態度、また自分の正義感にもとづく他者にたいする裁きの心を現しているようで、ヨナを責められません。

 しかし、神様は私たちとは全く異なり、どんな人に対しても、滅びて欲しくないと救いの手を差し出す方であり、慈悲深く、情け深い方だと聖書を読んでいて思わされます。そのような神様にキリストを通して救って頂いた私は、今でもヨナ的であり、他者に対していつも慈悲深くなく、冷たい人間だなと自分をみると落ち込みます。しかし、それでも、いや、それだからどうしたらいいのかと考えると、不完全で、実を結んでいなくともイエス・キリストにつながり続けることだと下記のみ言葉を通して示されました。つながるには、私が「つながろう」という自分の意志、いつもそう出来なくともそう努めようとしつづける決意が前提であり、それは能動的に私のなすべき責任です。ただ棚から牡丹餅状態で何もしないのでなく、自分の思いをキリストにつながらせようという意志を持ち続ける必要があります。そして、自分をイエス様につなげて頂いた後はお任せする、つまり受動的に栄養を流していただけることになります。私自身が栄養を造らずとも、イエス様が流して下さる栄養をもって、時間がかかっても実を結んでいけるのではないでしょうか。イエス様の側からすると、「わたしもあなたがたにつながっている」というのは、私たちがまず、イエス様を受け入れて、イエス様を私にコネクトさせてはじめて、イエス様が私につながっていてくださり、木が枝に養分を送るように、キリストの力を、愛の性質を私に送ってくれるわけです。

 キリストにある愛の実、たとえば喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制*2を、自分の素の性質で結ぶことは私にはなかなか出来ません。しかし、私が生活の中で与えられる希望の一つは、こんな自分でもイエス様につながり続ければ、いつかは実を結び、周りの人々にキリストの愛を示せるように変えられていくということです。主体的、能動的にイエス様につながっていようと、日々み言葉を読んで、思いめぐらし、後は受動的にキリストの愛を流して頂き、それが自分から溢れ出て外へ流れ出ますように、祈りたいと思います。

 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」ヨハネによる福音書15章4節  (聖書引用、新共同訳)

*1 ヨナ書4章9-10節
*2 ガラテヤ信徒への手紙5章22-23

パレスチナ問題

2021年07月11日 | 日記
 先日、テレビの番組で「パレスチナ紛争はなぜ起きているのか?」という内容が放映されていました。そのゲストの方々のコメントから推測すると、多くの日本人はパレスチナ問題についてあまり知らないし、エルサレムがどこにあるかさえしらないかもしれないと気がつきました。それは、日本とイスラエルはなんらかの関係があったとしても、そのことがクローズアップされていないからでしょう。その解説者は、パレスチナ紛争は「誰の土地か?」でアラブ人とユダヤ人が争っているとし、ユダヤ人にとっては「この土地は神様が我々に与えると約束した土地だ」と主張していると述べていました。

 また、アラブ人の中には、イスラエルと共存していこうという穏健派(東ヨルダン地区)と、ユダヤ人を必ず追い出すというガザ地区の過激派(ハマス)があり、何時も先制攻撃でロケットをイスラエルに打ち込んで、反撃をイスラエルから受けます。その結果民間人もまき沿いになり、「イスラエルの攻撃で子どもたちが殺された!」と世界にニュース発信し、同情を買い、同時にアラブ人の同胞たちへ、自分達過激派の存在意義をアピールしていると解説されていました。軍事的にハマスとイスラエル軍のレベルは、野球で言えば少年草野球チームと大リーグのチーム程差があると。ニュースだけを見ている人々は、「イスラエルは民間人を殺すなんて酷い」という印象を持ち、そもそもなぜそのような結果になっているかを知らないで、イスラエルだけを批判することになります。もちろん、軍事的にも政治的にも、全てイスラエルのしていることが正しいとは思いません。少なくとも、イスラエル国内にも、パレスチナ問題に関して穏健派と強硬派の政党もいて、実際やられたらやりかえしていて、平和的解決には至っていません。

 日本人は「ご先祖代々からの土地」として、特に地方では大切に守っている方が多いと思います。しかし、行政が道路を拡張するため、その先祖代々の土地を手放さなくてはならない場合もありますが、決して売らない所有者もいます。今、益子で農道だった道が両側の水田の部分が売られて、広い道路に工事がなされています。おそらく、益子駅とその周辺からちょっと離れた益子の道の駅につながる道を広げたいということで工事がなされていると推測しますが、農業を営む方々にとっては土地を手放すという犠牲が伴います。しかし、その広げられた道路の間に、新しい道路と道路の間に、細長く水田が残っている部分があります。そこは、なぜかは知りませんが、その部分だけ、所有者は土地を売らずに通して、協議の結果、そこを避けたまっすぐではない道路になったのだと思います。私はそこを見ると、パレスチナ問題を思い出します。(いささか飛躍しすぎ)

 誰でも、自分たちの持っているものを次の世代に残したいと思うものでしょう。それは良いことであります。しかしどんなに良いことも、そこに欲がからむと争いを引き起こします。私たちキリストを信じる者は、地上での土地は寄留の地であり、天国で、永遠に相続する場所が与えられることが、聖書にユダヤ人だけでなく、全てのキリストを信じる者に約束されていると信じています。ですから、あまり地上の所有に関してこだわらないよう、争わないよう、下記のみことばように、使徒パウロも聖書で勧めています。地上のことには、たとえ損することがあったとしても、なるべく最低限に関わり、その分、上にあるものにいつも心を留めたいと心がけたいと思います。上にあるものとは、キリストに関わること、つまり天の父なる神様の御心にそったことでしょう。そのためには、日々み言葉に触れ、み言葉を生活の中で適用していくことに心を配りたいと願います。また、日本人であっても信仰の目でみるとイスラエルは非常に自分達と関係のある国であり、現代においてこの国で起きていることが聖書に記されている事と直結するという、重要な国です。神様のご計画で起こされたイスラエル人(ユダヤ人)という民族、そして彼らに約束された祝福*が、イエス・キリストを通して全ての人におよぶという聖書の約束を信じる時、現実の歴史で起こってきたことが聖書の預言と重なって行き、また今後起こりそうなことも、ぼんやりとですが予想がつきます。すると不確かなことに対する恐れ、思い煩いが薄れていき、その分、神様に対する感謝、満ち足りた思いが与えられ、幸いです。

 かくいう私は日々、突発的なことが起き(仕事の性質上仕方がないのですが)、その対応に追われたり、思うように行かないことばかりで、計画したことも本当に成し遂げられるのかどうかも不明と、あくせくしているような者です。それでも、神様に助けを求め、計画したことも全て、どうなるかは神様に委ねて、神様の御心にそった一日一日を過ごしたいと祈り求めて行きたいと思います。

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」コロサイ信徒への手紙3章1-2節


*創世記12章 1-3節「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にしあなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」