Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

ヤギのやっくん@道の駅 益子

2021年06月29日 | 日記
 「あの小屋は何だろう?」益子町にある道の駅は、緑豊かな水田が広がる場所に建てられたおしゃれな設計の建物ですが、この4月からその横に小さな小屋が建てられました。毎日その横を通勤で通り、気になっていたところ、ある日そこに一匹のヤギが登場しました。おそらく観光客、特に子ども連れの家族がヤギと触れ合うために飼うことになったのでしょう。隣の市のリス村から連れてこられたそうです。先日、二人でそのヤギを見に行きました。確かに人にとっては動物の存在はかわいいし、癒し系なのですが、一匹でぽつんと客寄せのために置かれ、寂しそうだなというのが正直な感想です。せめてつがいで置いてほしいと願います。このヤギは「やっくん」という名前がつけられています。かわいそうに、人を突かないよう、角もおられていました。

 「スケープゴート」という言葉は日本語にもなっていますが、「身代わり」「生贄(いけにえ)」などの意味合いを持つ、聖書由来の用語です。政治家が、「秘書がやった」と言って、責任を秘書にかぶせ、刑事責任を負わせたり、遂には自殺に追いやるということがあります。まさに秘書はスケープゴートにされたと言えます。また、その時代の政府の不平や憎悪を他にそらすため、ある人々、ある民族がスケープゴートとして罪や責任をかぶせられ、迫害されてきたというたくさんのケースが歴史的にも見られます。ひどい話ですが、人間が古来からしてきたことです。

 動物たちには申し訳ないのですが、かれらはいつも人間の犠牲になります。聖書に、祭司が古代イスラエルの民の罪を贖うために、動物を犠牲にして毎年儀式をしていたことが記されています。その一つが贖罪(しょくざい)の山羊という儀式で、これがスケープゴートの由来です。「祭司は二頭の山羊の為にくじを引き、一つのくじは神の為に、一つのくじはアザゼルの為とする」*1(アザゼルとは『完全に除去する』という意味)とあり、やぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々の悪と罪をその上に告白して、これをやぎの頭にのせて、荒野に放ちます。また、過越しの祭りでは、小羊を屠ります。その過越しの時に屠られる小羊はまさに、イエス・キリストの十字架を示す型であると言われます。洗礼者ヨハネがイエス様のことを「見よ、世の罪を取り除く、神の小羊」*2と人々に言ったように、小羊も同様に人の罪のために犠牲になっていました。事実、イエス様が十字架にかかり死なれたと同時刻に、エルサレムの神殿では過越しの小羊を屠る儀式が行われていました。

 これらの動物の犠牲により、人がその罪を動物に負わせますが、それ自体で罪を除くことができず、しかも罪から解放されないまま、人は罪をくり返し犯すので、この儀式を何度も行わなければならないのですが、下記の聖書の箇所にあるようにイエス様は神の子であるので、たった一回の犠牲で全ての人の罪を背負えるように、またすべての罪に対する赦しが与えられるように神様が計画して下さったのです。キリストは、全ての民を永遠に罪から救われるアザゼルのやぎでもあり、過越しの小羊であり、しかも罪の除去だけでなく、人類を罪から救い、その救いを信じた者を天国に招き、永遠の命を与えて下さるメシヤ(救い主)であると、聖書は記しています。

 人はどんなに他人に罪を負わせたとしても、心の底では自分の罪や悪を自覚しており、それがいつか暴かれて責められるのではないかという負い目や恐れを持ち続けなければならず、その罪責感を他者に負わせることは不可能です。そして、赦されているという安堵感も与えられません。しかし、イエス様の十字架はそれを取り除くことができ、赦され、心に平安が与えられます。また自分が赦されて、神様がイエス様の命を犠牲にしてまで、愛してくれているということを受け取れると、他者に対しても柔和な心が与えられ始めます。私は、キリストを信じる信仰が与えられても、他者に対する柔和な心が充分に、品性としてまだ備わっていないのが正直なところです。ひとりでも多くの方が、キリストの愛によって罪責感や恐れ、トラウマから解放されることを祈りつつ、私自信もキリストの柔和な心を与えてください、と日々祈り、全ての人と平和を保ちたいと願っています。

 「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」ヘブル人への手紙9章11-12節

*1 レビ記16章1-22
*2 ヨハネによる福音書1章29節
*1 レビ記16章1-22
*2 ヨハネによる福音書1章29節

SDGs 持続可能な。。。

2021年06月13日 | 日記
 最近メディアでもSDGs 持続可能な開発目標(Susutainable Development Goals)のことが取り上げられるようになってきました。SDGsは2015年9月の国連サミットで採択されたもので、国連加盟193か国が2030年までに達成するべく掲げた目標です。世界規模で貧困をなくす、持続可能なエネルギーを開発する、不平等をなくすなど 17の目標(ゴール)を掲げています。日本でも二酸化炭素の排出量を減らすという具体的目標数値をかかげているのもこれと関連していて、個々人のレベルでエネルギーの使い方や、環境のためになる、小さいことから始めようと推奨されています。

 「バナナはなぜ安いのか?」高校生の時、この問いを投げかけられましたが、私はこの問いを通して考えなければならない問題を理解できませんでした。逆に、ミッション系の学校のキリスト教の授業の中で、先生が聖書の話をしないで、なぜこの話題を取り上げたのかがわかりませんでした。安いイコールお得。私たちは自分の財布が得すれば、なぜ安いのか迄考えません。しかし、フィリピンの人達が超低賃金で、その当時は子どもが働いていたから、人件費が安く抑えられてバナナの価格が安いという現実がある、つまり開発途上国の人々が先進国企業により搾取されているという犠牲の上に「バナナは安い」のです。私はこのことに問題意識をもったのはもっと後になってからで、「持続可能な開発」という言葉は、アジア・アフリカの開発途上国の開発の為のことばとして30年位前に学んだコンセプトでした。そのころは未だ先進国と称する西欧諸国が植民地時代のアジア・アフリカ諸国との関係をひきづっている物の見方、社会構造があり、この問題を国連等が主導になって取り組んでいくのは不可能なように思えました。しかし、30年近くたって、SDGsが全ての地球上の国が、同じ目標に向かうというアジェンダとなり、少しは前進しているのかもしれません。

 一方、SDGs達成のためには、人が互いを尊重し、利益中心ではなく、国境を越えて互いに助け合おうという思い、自然を大切にしようという共通の認識が必要でありますが、個々人の価値基準が異なるのでその道は容易なことではないと思います。しかし、もし17項目の中の一つにもある 「正義や平和」を、キリストにあって皆が共有できれば実現可能ではないかと思います。なぜなら神様が人にしてほしいことは、神を信じ、人間同士互いに愛し合いなさい*1ということにつきるからです。見えない神を信じ、愛するということは、神様の命令(言い換えれば、私たちにしてほしいこと)を守ることだと聖書にあり、その命令は難しいことではないとあります。*2

 神様は人と人が居住できる地球を創った時、それらを全て見て「極めて良かった」と言われたと下記の聖書に記されています。なぜ「極めて良かった」人と地球が今のようになってしまったのかは、最初の人間アダムとイブが、神様の命令を守らず、神様から独立して、自分達で善悪を決めようかのごとく、食べてはならないと言われた善悪の木を食べてしまったからです。それ以降人は創造主である神様を知らないで生まれ、誰かが教えない限り、神様の存在を知らず、信じず、己の利益のために人を傷つけ、自然を破壊・操作してきているのではないでしょうか。そうなる以前は、人は神様と自由にコミュニケーションができ、無垢に神様に全て委ねて平和な生活を自然と調和しつつ、エデンの園の中で送っていたので、心には神様との平和、自然との調和があったはずです。もしかしたら、人の潜在意識の中には、初めに神様が創造された、自然と調和していた世界、平和あ人間関係への渇望があるのではないかと思います。

 たとえ今の状態が楽園ではなくとも、キリストを信じることで、この世に生きながら神様との間に平和があり、神様に全てを委ね平安な気持ちが与えられ、神様の与えて下さるその恵みに感謝して日々過ごすことが可能と信じられること、これは、なんと幸いなことでしょうか。私は、全てを神様に頼り、委ねることができる特別な恩恵を”SDG” (Special Dependency on God)と勝手ですが思いつきました。私はキリストにあるSDGをいつも心に留め、神様に感謝し、結果的に国連が掲げる17項目にも少しでも生活の中で実践していければと願います。

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」 創世記1章31節

*1「「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 」マタイによる福音書22章36-40節
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」ヨハネによる福音書15章12節
*2「神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。」第一ヨハネの手紙5章3節