Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

移民、難民の受け入れについて

2021年08月22日 | 日記
 最近のニュースで日本国の外国人寄留者に対する扱いについての問題が取り上げられるようになりました。また、先日、日本在住のイラン人の方から、日本の難民問題について、またマスコミに全く放映されていないイラン国での深刻なコロナ感染状況について話を聞く機会があり、非常に考えさせられました。もちろん、これらの問題は今始まったこではなく、マスコミに取り上げられていなかっただけで、以前から日本は海外からの難民の受入が他国と比較して非常に少ないという統計は発表されていました。日本国民の意識の中に、難民イコール治安が悪化するというステレオタイプがあり、内戦等で政治的に祖国を追われざるを得ない、困っている人々を助けようという思いには中々いきつかないのでしょう。

 一方、日本国民であっても犯罪をする人はいますし、外国人を違法に雇用し犯罪に利用しているその親玉は日本人であり、ネットを使って国外から日本に侵入してきているハッカー集団等が活動しているという現実があります。そのような現実を鑑みれば、治安悪化があるから難民を受け入れないというのはあまりにも狭い、非国際協力的考え方だと私は思います。日本という国は、グローバル化を経済、利益の面だけで他国にて拡大し続けてきた一方、メンタル的には全く鎖国を続けていた時代と変わっていないのではないでしょうか。もちろん、歴史的に移民で出来上がっているアメリカのようにはいきませんが、今の時代、もう少し難民を迎え入れる制度・体制を構築していく必要が政府にはあり、また国民側も共通理解を得られるよう、視野が広がっていければと願います。

 聖書には、移民(外国人寄留者)の扱いについて記されているところがいくつかあり*1、そこには、民族を超えた、人間すべてを大切に思い、愛して下さる神様の思いが示されています。例えば「隣人を愛しなさい」という律法があったとしても、「隣人」の定義が個々人異なったらどうでしょう。はるか海の向こうの外国人は隣人なのでしょうか?難民を受け入れるべきだと思ったり、普通の生活場面で外国人と接する場合に親切にしようと思えるには、個々人の行いの動機、またはその行いに導く法律があると思います。イエス様はユダヤ人として生まれましたが、その神様が与えた規律、教えを厳格に守り、「自分は神の前に正しい」と思っているユダヤ人たちに対して、たとえ話を用いて、この「『隣人』とはだれですか?」と問いました。当時のユダヤ人にとっては、隣人とは同胞で、自分と関係が良好な人だけでした。しかし、イエス様的に隣人とは、自分と同じ民族や近所の人、知人だけではなく、究極的には仲が悪い人もそのカテゴリーに入ります。なぜなら、神様の御子であるイエス様にとって、人間は皆同じ愛する対象であり、イエス様は人種や性別、国籍、身分はもちろん、犯罪を犯す人・犯さない善良市民(?)等とわけ隔てをなさらない方だからです。

 私はこのイエス様から、こんな自分であるのに関わらず、愛され、大切にされていることを信じ、感謝して、この世での生活を天国という最終目的地にいくまでの寄留者として、キリストの愛に倣って生きていこうと思っています*2。こんな自分とは、今迄神様を知らず逆らってきた人生を歩んできた者であっても、キリストが代わりに十字架で私の罰を負って下さったから、全て赦されていること、そして信じた後も失敗も多く、信仰が弱い者であることです。私は神様に良くして頂いても、目に見えない霊的な神様にお返しができません。神様は私たちにお金は要求しません。キリストを信じるだけです。しかし、私としては何もできなくともせめて その神様の愛に応答し、目に見える自分の目の前の人々に対して、下記のみことば「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエス様のことばに出来るだけ従いたいという思いが与えられています。
 私たちがこの世の生活で困難な状況であっても、自分に敵対する人が周りにいても、今もキリストは助け、導いて下さっていることを信頼し、全て委ね、不安にならずに生きていけることは幸いだと感謝しています。この神様の計り知れない愛を受け取れたからこそ、隣人の定義をイエス様的にまで広げ、愛を広げていければと願います。私は大きいことはできません。まずは、今自分が接する周りの人々、何人であっても、自分にかみついてくるような人であっても、神様からその愛を心に注いでいただき、時には忍耐しつつ、親切にできればと努めようと思います。

さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」 ルカによる福音書10章36-37節 (新共同訳聖書)

*1 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で 寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。」出エジ プト記22章21-22節
 「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手か ら救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、 無実の人の血を流してはならない。」(エレミヤ書22章3節)(新共同訳聖書)


*2 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。 」ヘブル人への手紙11章13節 (口語訳聖書)

大谷石

2021年08月15日 | 日記
 私が住んでいる益子教会の建物は、一階の部分の外壁が大谷石という、栃木県大谷町付近一帯で採掘される石材で造られています。私は個人的に大谷石の存在を栃木に引っ越すまで知らなかったのですが、先日、大谷石資料館に行く機会がありました。その資料館は、地下の採掘場跡からなっていて、夏でも12℃という涼しさです。その採掘場は地下深く、またとても広い空間が広がっており、以前どのように採掘していたかの説明と展示がされています。暗い空間に、ところどころライトアップがなされていて、あたかも古代エジプトの遺跡に見えるような錯覚を覚えるほど、幻想的な場所でした。大谷石が使われ始めたのは6-7世紀に遡り、1960年代迄は手作業で石を切り出していたそうで、暗い地下に働き続けていた労働者の方の苦労を思いました。大谷石で出来ている建物は、夏でも涼しく、昔から穀物や食物の倉庫(石蔵)として用いられ、栃木県のあちらこちらで、今でも大谷石で出来た倉を見かけます。大谷石は比較的柔らかく加工しやすい石材でありますが、耐震性、耐火性は強いとのこと。西洋諸国と異なり、日本のほとんどの建築が木造でしたので、昔から石材の建物が日本でもあったというのは以外でした。
 
 石材といえば、古代イスラエル国のソロモン王が建てた神殿も石で建築されていました。その神殿の建築についての詳細が聖書に記されていますが、その時の様子について下記のような記録があります。
 
「神殿の建築は、石切り場でよく準備された石を用いて行われたので、建築中の神殿では、槌、つるはし、その他、鉄の道具の音は全く聞こえなかった。 」 第一列王記6章7節
 
この「よく準備された」という形容詞の原語は「シャーレーム」が使われているそうですが、「自然なままの」、あるいは「完全な」という意味があるそうです。そして、「平和」を意味するそうです。神殿の建築現場では、すでによそでカットされた石材を組み立てるだけでしたので、石を切る時の大きな音がしていなかったということでしょう。もちろん、多少石を組み上げていく上で音がしていたとは想像しますが、それでも現場にこのような静けさがあったということは不思議です。神様が臨在する聖なる場所、神様を礼拝するための場所にふさわしいことだなと改めて思わされました。

 石や岩というのは聖書的にも意味があり、神様を石や岩として譬えられます。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」*1の「隅の親石」というのがキリストを指し、イエス様ご自身がこの聖書の箇所を下記のように引用しています。この時代の建築において、土台となる隅の親石は基礎部分において重要でしたが、にも関わらず、この譬えでは神殿を建築している当事者がそれと認識できず、「この石はどこの部分なのだろう」と捨ててしまったとあります。その当事者はユダヤ人であり、彼らにはメシア(救い主)が与えられることを昔から預言者を通して示されていましたが、いざイエス様が来られてもメシヤだと認めず、十字架に架けてしまうことが示されています。そしてイエス様の救いは、ユダヤ人以外の民族へ与えられるということを比喩で預言しています。そのおかげで、日本人である私も、現代でイエス様を信じることが出来ているわけです。また、ユダヤ人であっても、キリストをメシヤだと信じれば救われます。

 使徒パウロが、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。 」*2と記しているように、キリストを信じる信徒が神の神殿であるという根拠は、何人であっても、誰であっても、イエス様を救い主として信じた者はイエス様という基礎の上に一体となり、神の宮として建て上げられているからであり、神の霊(聖霊)が私たちの内に住んでおられるからです。これは、神様がなぜそのように図られたのかが私たちにはわからないので、私たちの目には不思議に見えるわけです。

 私たちは「自然なまま」で、ありのままで恵によって救われましたが、そしてイエス様を信じる信仰によって、少しづつ「完全」に内側が変えられていく石となっていきたいと思います。聖霊の業によって、私たちはよく準備された石となって、キリストの体、神様の神殿の一部に組み入れられ、愛の実を結ぶ神の民になりたいと。一夜にして出来ることではないですが、日々祈りつつ、キリストに委ねていきたいと願います。

 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、/わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 マタイによる福音書 21章44節 (新共同訳聖書)

*1 詩編118編22-23節
*2 第一コリント信徒への手紙3章16節

グラディエーター(剣闘士)

2021年08月03日 | 日記
  この数年間で、東京は多くの改修工事、新設工事が行われてきたのは、2020オリンピックのためで、円形競技場やその他の競技の為の新しい建設物が東京の新しい情景を創り出しています。円形競技場の由来は、古代ローマ帝国の時代に遡り、もともとはスポーツ観戦の場ではなく、剣闘士が殺し合いを行い、観客がそれを見るという娯楽を提供する場所でした。映画「グラディエーター」を観た方は想像がつくと思いますが、なんとも残酷な娯楽です。しかし、人々はそれを良しとし、政治的にはそのような娯楽を提供することで人々の帝国に対する不満を解消させるための道具としていたと言われます。また、オリンピックの時期だということで、これに関する記事があり、目にとまりました。「剣闘士:殺し合いのイメージは誤解だった」という説を古代の壁画、歴史的一部の文献から、あたかもそれが現代のスポーツのように審判がいて殺すまでに至らないケースもあったとか、剣闘士訓練施設で大切に育成されていたとあり、しまいには「剣闘士は勇敢に戦い、時には命を落とす、男らしさや美徳の象徴にほからならなかった」と書かれていました。どんなに悪を美化しても、歴史的事実であり、もし美化された内容通りであったのならば、皇帝によって廃止されることなく、今も続いてるはずです。

 先日、この悪しき習慣であった剣闘士を終わらせるきっかけとなったのが、キリスト教の修道士であったことを知りました。この娯楽は、ローマ皇帝により5世紀初頭に禁止令が出され、最終的に競技場を閉鎖されるまで7世紀頃まで密かに続けられていたそうです。テレマクスという修道士 は、ある時、このむごたらしい剣闘士の戦いを止めようとして円形競技場に入りました。すると、観客が逆上し石を投げつけて彼を殺してしまったという事件が発生し、それをきっかけとして、当時ローマ帝国はキリスト教が国教となっていたので、皇帝により禁止令が出されたそうです。テレマクス修道士の命が犠牲となってこの悪しき娯楽は終焉しました。 

 古代から、ある人々は人と人とが殺されて倒されるまでの戦いを観て興奮し、ストレスを解消するという本質を持っているのではないかと思います。なぜなら現代では、剣闘士の代わりに、バーチャルのゲーム上で同じことが行われているからです。IT技術が進化すれば進化する程、この戦って相手を殺し、ポイントをゲットして「やった!」と興奮する、ある種の満足感を得る娯楽が拡大し、人々の心を知らぬ間に蝕んて行くことを私は懸念しています。「ただのゲームではないか」と言われます。実際に人に命が失われなくとも、ゲーム上で「殺す」という精神的構造を、なんの良心の呵責なく続け、心が麻痺していくのに気がつかないのでしょうか。そして、世界的に行われている、現代のバーチャルの殺し合いゲームという娯楽を、誰が命をかけて終焉させることが出来るのでしょうか。

 私は、人はどんなに高尚な立派な人でも、心に暗い部分、罪悪という部分を個人差や程度はあれ持っていると思います。それが良心で抑えられていればいいのですが、「魔がさした」と言われる様に、やってはならないことをしてしまう、酷いことを心で思ってしまうということを誰もが経験しているはずです。そんな私たちの罪の部分から解放し、赦し、そして罪を犯さないように、愛の心を持てるように変えることが出来るお方が、イエス・キリストしかいないと信じます。神の子であるイエス様は、私たちを救うために、ご自分の命を十字架上で犠牲にされました。修道士テレマクスは、キリストの愛に生きて、自分が殺される危険があろうとも、とにかく剣闘士を止めさせようと競技場に入っていったのだと私は思います。また、神様はイエス様のこの犠牲により私たちを救って下さるだけでなく、イエス様を信じて生きる、新しい生き方において生きる希望が与えられることが、幸いであり、この不確実な先行きが不透明な時代において、特に、私たちには必要ではないかと思います。一人でも多くの方々が、なぜ自分が今生きているのかを真剣に考え、それを求めた時、神様を見いだせるはずです。使徒パウロは、キリスト教の神様を全く知らない、ギリシャ時代の多神教を信じるアテネの人々に、真の神様を伝えようとして宣べ伝えた内容が、下記の聖書の箇所です。私は、日々、このコロナ禍にあって、苦しんでいる人々、人生で悩んでいる人々が、このような聖書のことばに触れる機会がネット上でもあって、求めて、キリストを知って、幸せになってほしいと祈っております。神様は私たち一人一人から遠く離れておられる存在ではなく、見えなくとも近くにはおられ、一人一人をケアして下さる優しいお方であることを知ってほしいと。

「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」使徒言行録17章26-27節
 
*「ナショナルジオグラフィック」日本版8月号「グラディエーター熱狂の舞台裏」