梅雨が始まる頃、我が家では毎年プランターで野菜を植えます。今年はアジア学院から分けて頂いた土に、きゅうり、とまと、ピーマンの苗を植えました。本当はぶどうやキュウイなどフルーツを育てられたらという願いもありますが、今の場所では難しく、野菜だけにしています。同じ土、同じ日の当たる場所におかれ、同じ幹になっているピーマンでも、サイズが大小あります。それでも幹につながっているかぎり、実はなっていきます。ほんの少しの野菜ですが、育てているといつも思い出す聖書の箇所があります。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
イエス様は、ご自分がぶどうの木で私たちはその枝であるとたとえられました。果物や野菜はその収穫まで枝につながっているから育ちます。つながっていれさえすれば、木から栄養が送られるからです。この「つながる」という原語は「とどまる」という意味もあり、他の訳では「とどまっていれば」となっています。では具体的にとどまるとはどういう意味なのでしょうか。イエス様はこうも言われました。
「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネによる福音書15:10)
と続いて、その掟とは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と。
神様は愛を私たちに示すだけでなく、神様とイエス様と聖霊にあるつながり(とどまること)を、信じる者にもつなげてくださります。木が枝に栄養を送るようにつながらせて頂き、私たち自身が神様の愛の業に「参加する」ように招いてくださるのです。「招く」と表現したのは、それが強制的ではないからです。神様の愛につながっていれば、互いに愛せるように、愛が私たちの心に注がれるとも、パウロは言っています。それを可能にしてくれるのが聖霊であると。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 (ローマ5:3-5)
神様の愛は自分の中で作り出せる愛ではないことを、社会における人間関係で「できない」と実感されているかもしれません。かくいう私は自己中心的であり、自分に敵対してくる相手を愛せない者です。
「わたしを離れてはあなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)
とイエス様は言われるように、離れた状態では何もできないのです。だからこそ私はイエス様につながり続けたいと思います。大きい実はならないかもしれませんが、枝である私はイエス様という幹(木)になんとかつながっていれば、きっと神様の愛を流していただいて、小さい実がなると期待したいと思います。神様の愛は、この交わり(つながり)を私たちが持っている限り、私の心に流されて、他者を愛せるようになる、つまり実を結ぶ*という希望を持って、祈り求めていきたいと思います。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネによる福音書15章5節)
*「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はあません。」ガラテヤ信徒への手紙5:22-23
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」
イエス様は、ご自分がぶどうの木で私たちはその枝であるとたとえられました。果物や野菜はその収穫まで枝につながっているから育ちます。つながっていれさえすれば、木から栄養が送られるからです。この「つながる」という原語は「とどまる」という意味もあり、他の訳では「とどまっていれば」となっています。では具体的にとどまるとはどういう意味なのでしょうか。イエス様はこうも言われました。
「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネによる福音書15:10)
と続いて、その掟とは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と。
神様は愛を私たちに示すだけでなく、神様とイエス様と聖霊にあるつながり(とどまること)を、信じる者にもつなげてくださります。木が枝に栄養を送るようにつながらせて頂き、私たち自身が神様の愛の業に「参加する」ように招いてくださるのです。「招く」と表現したのは、それが強制的ではないからです。神様の愛につながっていれば、互いに愛せるように、愛が私たちの心に注がれるとも、パウロは言っています。それを可能にしてくれるのが聖霊であると。
「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 (ローマ5:3-5)
神様の愛は自分の中で作り出せる愛ではないことを、社会における人間関係で「できない」と実感されているかもしれません。かくいう私は自己中心的であり、自分に敵対してくる相手を愛せない者です。
「わたしを離れてはあなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)
とイエス様は言われるように、離れた状態では何もできないのです。だからこそ私はイエス様につながり続けたいと思います。大きい実はならないかもしれませんが、枝である私はイエス様という幹(木)になんとかつながっていれば、きっと神様の愛を流していただいて、小さい実がなると期待したいと思います。神様の愛は、この交わり(つながり)を私たちが持っている限り、私の心に流されて、他者を愛せるようになる、つまり実を結ぶ*という希望を持って、祈り求めていきたいと思います。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネによる福音書15章5節)
*「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はあません。」ガラテヤ信徒への手紙5:22-23