Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

枝につながる

2023年06月11日 | 日記
  梅雨が始まる頃、我が家では毎年プランターで野菜を植えます。今年はアジア学院から分けて頂いた土に、きゅうり、とまと、ピーマンの苗を植えました。本当はぶどうやキュウイなどフルーツを育てられたらという願いもありますが、今の場所では難しく、野菜だけにしています。同じ土、同じ日の当たる場所におかれ、同じ幹になっているピーマンでも、サイズが大小あります。それでも幹につながっているかぎり、実はなっていきます。ほんの少しの野菜ですが、育てているといつも思い出す聖書の箇所があります。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」

イエス様は、ご自分がぶどうの木で私たちはその枝であるとたとえられました。果物や野菜はその収穫まで枝につながっているから育ちます。つながっていれさえすれば、木から栄養が送られるからです。この「つながる」という原語は「とどまる」という意味もあり、他の訳では「とどまっていれば」となっています。では具体的にとどまるとはどういう意味なのでしょうか。イエス様はこうも言われました。

「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネによる福音書15:10)

と続いて、その掟とは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と。

 神様は愛を私たちに示すだけでなく、神様とイエス様と聖霊にあるつながり(とどまること)を、信じる者にもつなげてくださります。木が枝に栄養を送るようにつながらせて頂き、私たち自身が神様の愛の業に「参加する」ように招いてくださるのです。「招く」と表現したのは、それが強制的ではないからです。神様の愛につながっていれば、互いに愛せるように、愛が私たちの心に注がれるとも、パウロは言っています。それを可能にしてくれるのが聖霊であると。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」 (ローマ5:3-5)

 神様の愛は自分の中で作り出せる愛ではないことを、社会における人間関係で「できない」と実感されているかもしれません。かくいう私は自己中心的であり、自分に敵対してくる相手を愛せない者です。

「わたしを離れてはあなたがたは何もできない」(ヨハネ15:5)

とイエス様は言われるように、離れた状態では何もできないのです。だからこそ私はイエス様につながり続けたいと思います。大きい実はならないかもしれませんが、枝である私はイエス様という幹(木)になんとかつながっていれば、きっと神様の愛を流していただいて、小さい実がなると期待したいと思います。神様の愛は、この交わり(つながり)を私たちが持っている限り、私の心に流されて、他者を愛せるようになる、つまり実を結ぶ*という希望を持って、祈り求めていきたいと思います。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネによる福音書15章5節)

*「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制です。これらを禁じる掟はあません。」ガラテヤ信徒への手紙5:22-23







「神の愛にとどまる」 ヨハネの手紙Ⅰ 4:11-16

2023年06月11日 | 日記
メッセージ 「神の愛にとどまる」 ヨハネの手紙Ⅰ 4:11-16

ヨハネの手紙では「神の愛」というトピックを何度か記しています。最初の箇所は2:7-11で互いに愛すること、つまり兄弟愛は神との交わりを持つことの証拠であること、そして2度目の3:10-14ではあなたがは神の子であり、神から生まれたので悪魔の子と区別され、将来御子が現れる時御子に似た者となるという望みがあり、この望みのゆえに正しい生活をし、兄弟を愛する、つまり互いに愛すると記しています。本日箇所4:7-16は3度目のところです。

 まずこの手紙では、いくつかの箇所で直前の4:1で「愛する者たち」と読者、つまりキリストを信じる信徒に語りかけています。この原語の直訳は「愛される人びと」("Beloved", NKJV 訳)です。この直訳のほうが実際の状況を現わしていると思います。神が私たちをまず愛している、人間は神に愛されている者だからです。4:10に 「わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して」とあるように愛は神から発しているという 神の側の積極的愛が中心です。一方で、私たちが主体となって「誰かを愛する」という面もあり、そのことが今日の内容にも関わってきます。私たちは神様から恵みだけを受けていれば良い、あとは好き放題に何をしてもよいのでしょうか。愛は私たちが愛を神からうけて初めて、私たちが愛する主体となれるという人間の間の相互の愛の面が行為として現れます。またそれを可能にするのが、神様の霊、聖霊です。

13節にあるように神様が私たちにご自分の霊を分け与えて下さっているから、神様が私たちのうちに聖霊としてとどまって下さっていることです。これはイエスさまがヨハネによる福音書でもぶどうの木と枝のたとえで言われています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」 (ヨハネ15:5)

では具体的にイエス様につながる、とどまるとはどういう意味でしょうか?神様は単に、「わたしはあなたを愛している」と聖書を通して示されるだけにとどまりません。実際、私たちの内に聖霊として住まわれて(とどまられて)、神様の業に私たち自身が「参加する」ことを望まれています。私たちは単に知識で、神は愛ですと捉えるだけにとどまらず、この世に生きる中で神の愛の業に参加していくようにと、神の霊がわたしたちひとりひとりに分け与えられていると記されています。私たちは傍観者ではなく、参加者として神様がご自分のこの世での業の中に招いてくださっているのです。

聖霊に関していえば、イエス様がこの世に来られる前までは、神の霊は一部のイスラエルの預言者や王たちにだけに分け与えられていました。また、イスラエルという国が神様によっておこされ、その幕屋や神殿という場所において、神様はご自身の栄光を現わされていました。しかしイスラエルが神様に背いたために、その栄光は神殿から去ってしまいましたのです。しかし再び、イエス様の人としての体に神様の栄光が戻ってきたと言えます。「この神殿を壊してみよ、3日で立て直す」(ヨハネ2:19)でイエス様が言われたのはご自身の体のことです。イエス様ご自身が神殿、神が住まわれ、栄光なのです。

「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(ヨハネ1:14)

そして、イエス様が十字架にかかり死んで3日後によみがえられた後、イエス様を信じる者に聖霊を送ると約束されました。ペンテコステの日に弟子たちは聖霊を受けて、力を受けたことは、使徒言行録に記され先日のペンテコステ礼拝でも私たちは学びました。ですから、私たちは聖霊を頂いて、内に住んでくださっている状態なので、パウロがいうように私たちの体は聖霊が宿って下さる神殿なのです。

「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」 コリントの信徒への手紙Ⅰ6:19-20

しかも、この聖霊は一時的に私たちの内側に住む方ではないのです。私たちが聖霊がおられることを意識できなくとも、私の心の状態が悪いから、落ち込んでいるから、失敗したから聖霊が去るということはないです。なぜならイエス様はこう言われているからです。

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」 ヨハネ14:15-16

この弁護者は聖霊のことで、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」神様がそうしてくださるのであって、私たちの状態は関係ないのです。もし、信仰が弱っても、聖霊は住み続けてくださいます。信じ続けるとは神に信頼し続けるということです。何を信頼するのかというのは、一つに、自分にはイエス様の高いレベルの互いに愛し合いなさいという掟が守ることができなくとも、お願いして、そうなりたいと願い続けること、委ねることではないでしょうか。だから、「私を愛しているならば私の掟を守る」と冒頭に言われており、それが信仰の証拠であります。そしてわたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。 15節「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」とあるように、イエス様が神の子であることを洗礼にて告白したように、公に証するものには神の霊はその人の内にとどまって、その人も神の内にとどまることになるとヨハネは、このことをはっきりと知ってほしい、意識してほしいと、手紙に記しているのではないでしょうか。

神の愛にとどまるとは、私たちがこの世の生活のなかで、神の御業に参与していくことです。私たちが自分の力でする必要はなく、内に住まわれる弁護者であり、助け主(英語ではヘルパーと訳されています)である聖霊が働かれることを信じましょう。神様は私たちの弱さ、罪を犯してしまうこともご存じです。しかし、そんな自分がいつまでも同じ状態ではないこと、つまり神様に委ねて、神の愛が注がれることを求め続け、兄弟を愛そうと目指し、罪を犯さなくなるように変えて下さる方であること、それが聖霊の働きで可能であることを信じて祈り続けましょう。

パウロは(ローマ8:2)で、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が罪と死の法則からあなたがたを解放したからです。」と記しています。私たちは生活のなかで罪を犯すことはまだあっても、すでに罪と死の縄目からは解放されているということを覚えている必要があります。イエス様によって命をもたらす霊の支配下にあるということで安心して、神様に委ねてよいのです。生きるとは神とともに生きることであります。

では神とともに生きる特徴は何でしょうか?希望があることです。それは聖霊の働きにより、満ち溢れ、喜びと平和で満たしてくださるとパウロも記しています。
    
「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ15:13)

神様が希望の源であり、信仰が与えられている私たちは、喜びと平和、そして希望に満ちあふれるようにと、それが実現するようにと聖霊が一人ひとりに与えられているということはなんと感謝なことであり、励ましです。パウロはローマ信徒への手紙5:3-5で、なぜ希望があるのかを彼の神様の恵みによって生かされてきた経験をもとに具体的に記しています。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

神の愛が「聖霊によって」 注がれていると記されています。私たちはすでに、聖霊を分け与えられています。ですから、神の愛は注がれるのです。これによって、イエス様が言われる「互いに愛し合いなさい」が可能になってくるのという、希望があります。この希望をキリストにおけば、辛い状態が続いても、忍耐することができるからです。祈り続ければ、私たちの心も、相手の、状況もいつか変わるでしょう。この希望を持って、今週もそれぞれのおかれた場所において、神様の御業に参加していけるよう祈りつつ歩んで参りましょう。

(引用:新共同訳聖書)(引用 新共同訳聖書)