Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

マンホールの修理

2023年05月14日 | 日記
 教会の入り口の横に花を植えました。水をやっていると、花壇のすぐ横にある下水のマンホールからの臭いに気が付きました。よく見てみると、マンホールの蓋はしまっていても、側面がかけていて、そこから土砂が常時入り込んでいるのです。先月も排水が詰まって業者にきてもらったのですが、これでは常時詰まることになります。修理費用はいったいどれくらいかかってしまうのかと懸念しつつその業者に連絡すると、まずは町役場に聞いてくださいと言われました。下水のマンホールは町の所有なので町が修理するということで、すぐに直してくれました。何に関しも所有者に管理責任と修復責任がありますが、それがどこからどこまでが実際の使用者に負担義務があるのかわからない場合があります。今回は費用が掛からず安堵しました。

 人がもし会社に属していれば、何か業務上で問題が生じたとき、個人の責任も問われるケースもありますが、基本は管理不行き届きであると会社の責任が問われます。フリーランスで仕事をしていると、自分の望むままに仕事ができ自由ですが、収入の面も、そのほかすべて自分で責任を負わねばらないという両面あります。何かに所属しているという状態は、助けがあるという安心感があるものです。

 下記はキリストの使徒パウロが記したみ言葉ですが、クリスチャンはもはや自分のために死ぬことも生きることもないという不思議な表現がされています。これは、キリストを信じた時から、新しい生き方、新しい命に移される、つまり主権が罪と死の支配からキリストへ移動するからと言えます。キリストを信じる前は、自分がこの命の所有者、生きるも死ぬも自分次第ということで、一生懸命なすべきことを自分の努力と力でしているものです。しかし実態は、常に罪と死の支配下にあります。人は死を克服できません。完璧に善にいきられる人間もいません。そして物事がうまくいかない時は行き詰ってしまいます。そして誰かからの助けが得られない場合、結局自分で責任をとるしかないのかと絶望的になるもしくは、考えないことにして現実逃避的なことで紛らわして生活するという二通りに分かれるかもしれません。いずれにしても、不安定であり心が真に休まることはないでしょう。

 しかし、自分は主のもの(神様のもの)であるということを信仰で受け取れると、自分自身の存在は神様の主権のもとにあり、保護され、またすべてを委ねられるという状態になれるのは幸いです。自分が神様に属していれば、人には期待できない状況でも、神様には望みをおくことができるという強さが与えられます。たとえ、自分が思うような助けが与えられなくとも、キリストを信じて委ねる者には万事が益になる*1方向に導いてくれるという安心感が与えられます。そして、そこには自由があり、縛りや強制がないのが世の中で何かに属している状態との違いです。私の魂と意思は存在します。しかし、私は、私を救ってくださったキリストを信じ、キリストのためにいきたいという自発的な思いで物事を判断し、行動していこうとし、強制ではないのです。もちろん、社会生活している中で、そう望んでもうまくいかない場合のほうが多いですが、私の心の内側に聖霊が住んで(「住む」というからには、物ではなく、人格的存在)、私の意思や思いに働きかけ、正しい選択へと導いてくれるのが更なる安心です。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」*2とイエス様が弟子たちに言われたように、わたしは決して見捨てられることなく、父なる神の愛のもとに安心して、その庇護の中にいられます。し、「自分の命だ、自分の人生だ」と思えば、自分でなんとかしなければなりませんが、自分はどこからきてどこへいくのかを知り、この人生は天におられる父なる神様のもとへいく途上であり、今もわたしたちは主なる神様のものであるという、このことに対する信仰を働かせれば、「祈って任せよう」と委ねられるでしょう。クリスチャンとはそういう者ではないでしょうか。この信仰を基盤にし、日々聖霊の導きにしたがって、歩んでいきたいと願います。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 」 コリント信徒への手紙1 14:7-9

*1 「神を愛する者たち、つまり、ご計画従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、私たちは知っています。」 ローマ信徒への手紙8:28
*2 ヨハネによる福音書4:18


すべての人々のために祈る 礼拝メッセージ

2023年05月14日 | 日記
本日は、「すべての人々のために祈る」と題して テモテへの手紙Ⅰよりメッセージをさせていただきます。
まずテモテとはだれかということについて説明いたします。使徒パウロがルステラという町に伝道旅行に立ち寄った時に、ギリシャ人の父とキリスト信徒でユダヤ人の母とを両親に持つテモテを弟子として、一緒に伝道旅行に連れていくことにしたと使徒言行録に記されています(使徒16:1~3)。テモテは、パウロが宣教旅行の同労者として信頼し、また小アジアの教会の牧会を任した人で、彼はパウロの最後に至るまで忠実にパウロと信仰の交わりを持っていたようです。パウロは自分が訪問できないテサロニケの町へ、代わりに「キリストの福音のために働く神の協力者テモテ」として派遣したり(テサロニケⅠ3:1-3)、パウロが記したとされる6つの手紙の共同の差出人として、テモテの名が記され(テサロニケⅠ、Ⅱ、コリントⅡ、ピリピ、コロサイ、ピレモン)、無名の著者によるヘブライ人への手紙の結びには「わたしたちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。」とあり、彼もキリストの福音のために牢獄に入れられていたようです。テモテはパウロの代理として、小アジアの教会の責任ある指導的地位についていた弟子で、下記のみことばのようにパウロに励まされていました。
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「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」テモテⅡ4:5

そのテモテ宛にパウロがどのように教会を牧会していくかを手紙で記しそのなかで、まず第一の勧めとして記されているのが、すべての人々のために祈ることです。他者のために祈ること(執り成しの祈りと言われます)が、そのことが祈る私たち自身にとっても良いことであり、そのことを神様が喜ばれることであると記されています。

すべての人々のために祈りなさいとあり、続いて「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。」 では具体的に、何を王や高官といって現代でいう政治家達のために祈るのでしょうか。自分の属する国のために良い政治をするように祈ること、世界を視野に入れた場合、今でしたら、ある国が他国へ武力を持って侵略している場合、その政治家が侵略をやめるように祈ることなど、祈ることはたくさんあります。しかし、各国民が自国の利益のために祈ると、他国の利益を損なうという利害関係が生じる場合、神様はどの国の利害を優先されるのでしょうか。世界の平和は、各国の利害が対立すると成り立たず、それを国連やG7や首脳会議で話し合いで解決しようと試みてきています。また国内においても、権利の主張は立場が違えば異なり、たとえば高所得のAさんの要求は、低所得Bさんにとっては不利益になる、また男女によって、こうしほしいという要望の違いがあり、ジェンダー平等が今問題としてあげられています。高齢者のために国政が税金を使えば、若い世代のための政策がおろそかになり、結果出生率が下がり少子化となります。つまり立場が異なると要求が異なりますが、限られた財源ですべての人が豊かになる政治の実現は困難です。社会でだれかが犠牲になってしまう。すべての人が一斉に神様に自分のために祈るとどうなるでしょうか。

このように具体的な政策レベルで政治家のために祈るということももちろん必要ですが、まずは彼らが救われること、悔い改めて、真理を知ることを祈ることが大切であります。なぜなら、神様がそう望んでおられるからです。「すべての人々」と言ったら、私たちから見ての悪い人も含まれます。神様は悪人が死ぬのを喜ばず、悔い改めることを喜ぶとエゼキエル書に記されているからです。

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「むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」エゼキエル書33:10

そして、この神様の御心をもとに、神様はご計画を立てられました。すべての人が救われるようにと、イエス・キリストがすべての人の贖いとして、ご自身を十字架で献げられたからです。

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「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」  マタイ20:28

とイエス様が言われたことはまさにこのことです。イエス様が私たちの罪の贖いとして、代わりに十字架でご自身を捧げてくださるという、神様の救いの業がなされたのは、すべての人が立ち返って、イエス様を信じることを神様が望まれているからであって、信じないで滅んでしまうことを望んでおられないからです。そこまでして、この世(世とは人類全体)を神様は愛してくださっているということは下記のみことばが示す通りです。

プロジェクター
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 」 ヨハネによる福音書3:16-17

政治家たちが、御子イエス様を信じ、救われることに関しては人間同士の利害関係につながりません。信仰が与えられた政治家は、もちろんその人だけが政策の決定権があるわけではないのですが、おのずとキリストの教えを念頭に政治的決断をし、周りに影響力を及ぼすはずです。ましてや、その国のトップの政治家が悔い改めれば、例えば侵略戦争をしていたら、辞めることが可能でしょう。パウロが、テモテという教会のリーダーに、教会というコミュニティで何を祈っていくか、すべての人の救いのために祈る、特に政治家たちの救いのためにまずは祈っていこうという勧めは、現代に生きる私たちには共通に示されていると思います。神の言葉は生きていて、過去にだけ当てはまるものではないからです。政治家たちが救われれば、結果的に、人々が「常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活」を送れる社会的状況に変わっていけるでしょう。すべての人が救われることを祈ること、これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることであるからです。

私たちは、社会的には小さな弱い立場であるかもしれません。しかし、憐みと恵により信仰を先に与えられたものとして、まだキリストの福音を知らない多くの人々、それも政治家も自分の国以外の人々、自分の嫌いな人々を含むすべての人という、神様の視点をいつも覚えて、その人たちのために祈ることはできます。そして私たちの祈りの力ではなく、祈りを聞いてくださる神様に力があり、全世界を治めることができる神様に期待して、すぐに聞かれなくても祈り続けることが大切だと思います。そして、神様のキリストを通してすでにしてくださった救いの御業をどんな時でも、今の状況が悪くとも、感謝することを覚えているかどうかがここで問われているのではないでしょうか。この執り成しの祈りは、牧師・教師だけではなく、すべての信徒、つまり教会全体に神が望んでおられることです。

直接、福音を相手に語れなくとも、執り成しの祈りはいつでも、誰に対しても出来るからです。福音の伝え方にはその人に置かれた立場、状況に応じて様々な方法があるでしょう。皆が皆、口で告げ知らせられなくとも、行いと態度でもキリストの愛を示すこともできます。それには「争わず、寛容で、すべての人にこころから 優しく接する」ことも含め、2節の「信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活」をそれが完璧にできなくともそう心掛けていれば、未信者の人に「あの人はこんなひどい状況であっても、なぜ落ち着いていられるのか?」と良い意味での疑問を持たせ、実際に「なぜ?」聞かれた時に、自分の信仰を証するチャンスとなります。

ある会社の経営者が、バブルの崩壊後、倒産の危機となり、日々ストレスと心配で眠ず、精神的に参っていました。その会社の役員でクリスチャンの人が財務を担当し、資金繰りや銀行との交渉を担当していたのですが、こんな状況であってもその人は普通に仕事を続けていました。そこで、経営者がその役員に「あなたはなぜこんな状況で平気でいられるのか?」と尋ねると、「わたしはクリスチャンですから、神様にお任せしています」と一言答えると、「わたしのために、祈ってください」とその経営者が言ったそうです。

こうように、社会生活の中で、ピンチの時の平穏な態度はキリストに習うものであり、神が喜ばれることであり、そして人に良い証となり、福音を伝えるチャンスにもなるわけです。この経営者がこの後どうなったかはわかりません。ただ私たちすることは、福音の種まきであり、そのあとのことは神様にお任せしてよいのです。

私たちの自分の性格や力で「信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活」をしようと思っても、限界を感じ、出来ない自分にストレスを感じてしまいます。たとえできていなくとも、私たちが霊的に成長していくよう、神様は忍耐を持って、私たちを支え導いてくださるお方です。そして、5節にあるようにイエス様が神様と私たちとの唯一の仲介者でおられ、私たちの祈りをとりなして下さります。イエス様のおかげで、すでに神様との和解が与えられるという救いの恵みについては、いつでも感謝できることですし、私たちの行いの有無、信仰の強弱でその救いは取り消されることはありません。現実的に、世の中的にも先行きが見えず、不安な要素に目を留めると心配になります。また人間関係の修復も容易なことではありません。しかし、私たちは大きな励ましと慰めのみことばが与えられています。

「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。 8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。 」コリント信徒への手紙1 14:7-9

私たちは主のものです。つまり主なる神様の守りのなかに置かれていています。もし、「自分の命だ、自分の人生だ」と思えば、自分でなんとかしなければなりませんが、わたしたちは主のものであるという、このことに対する信仰を働かせれば、先ほどの例話のように、「祈ってお任せしよう」と委ねられるでしょう。クリスチャンとはそういう者ではないでしょうか。その信仰を基盤にすると、自分のためだけでなく、他者のためすべての人のために祈ろうと導かれます。そのことが神の御前に良いこと、喜ばれることであります。ですから日々みことばの糧を心に蓄え、聖霊が私たちの心に働きかけてくださるよう意識して求め、日々神様に祈っていきましょう。

親子関係

2023年05月03日 | 日記
 今年は、花々の開花が1-2週間早まる程、早い春の訪れとなりました。先日、藤の花で有名なあしかがフラワーパークというところへ母を連れて行く機会があり、雨でしたが、長時間の歩行が難しくなってきた母を夫が車いすに乗せて園内を周り、壮大な藤棚の美しさに母も驚き、喜んでいました。もっと若い時から、両親をあちこちへ連れていけばよかったと今頃悔やまれます。一方、親というのは、子である私が旅行に連れていかなくとも、優秀でなくとも、親の期待に添わない人生を歩んだとしても、親のほうから見捨てることがなく、忍耐を持って見守り、必要な時に助けてくれます。なぜなら、親だからです。個人差はあっても親は子を愛し、大切に思う。子は親を頼る。このような親子関係つまり血縁は切れない強い絆です。「縁を切る」と言われますが、実際親子関係は変えられない事実であり、連絡を絶つことはできても親子という縁は切れません。

 聖書の神様は人間の親子関係のように、私たち人間と人格的な関係を持とうとされていることが記されています。その顕著な表現が「父なる神」です。実際、神に人間のような性別があるのか?というと、ないはずです。性別というのは被造物が持つ性質で、すべての創造主である神は性別を超越された存在であるはずだからです。しかしイエス様も「父よ」と天の父なる神様を呼び、イエス様は「子なるキリスト」と記され、父と子という関係で記されていますから、私たちは聖書が記すとおりに理解し、信じています。一方で、神様を現わすときに母性的な表現の箇所も聖書にはいくつかあり、下記のみことばがそうです。母がその子を忘れないように(忘れることはありえるがと、人間の弱さ、限界も示したうえで)、わたし(主、神様)はあなたを忘れることは決してないと。そして、子供は親を信頼し、従い、尊敬するという面があります。このように、神様を信じるということは、最高で完璧な親がいたとしたら、その親との親子関係を持つことにたとえられるのではないでしょうか。

「関係」には双方向的なコミュニケーションと体験が伴います。私は「父なる神様」と祈る時、「神様は私を守り、導き、愛してくださる方」という思いを前提に祈ります。そして、その祈りが聞かれることで、「ああ本当に、神様は生きていて、働かれている」と実感できることは幸いです。まだ、私が祈ってないことでも「最善の道に導いてくださっていた」と、後から振り返ってわかることもあります。つまり、私の信仰の状態にかかわらず、祈る祈らないにかかわらず、いつも私をケアし、配慮していてくれるという安心感が与えられていることは感謝です。

 私たちの社会では悲しいことに、親からの愛を受けることができずに、自身の子をどう愛してよいかわからず傷つけてしまうという、「負の連鎖」をひきずる親子関係が現実にあります。しかし、たとえ自分の親が良い親でなくて、親子関係でトラウマがある人であっても、最高の父である天の父なる神様がいることをその御子イエス・キリストを通して知り、その神を信頼することが誰でも可能です。一人でも多くの方が、この神様の愛を知って、癒されてほしいと願います。その神様を「知る」ためには、聖霊が知ろうと求める人の理性に、心に働きかけ、一人一人と親しい関係を持とうと望んでおられるキリストを、そして神様を「知る」、「体験する」ように導かれるはずです。シオンは言う。

主はわたしを見捨てられた
わたしの主はわたしを忘れられた、と。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
たとえ、女たちが忘れようとも
わたしがあなたを忘れることは決してない。」 イザヤ書49:14-15

(引用 新共同訳聖書)