Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

シュトーレン(ドイツのクリスマスケーキ)

2020年12月06日 | 日記
 クリスマスにクリスマスケーキを食べることは、クリスマスの意味を知らない日本人にとっても、日本の文化の一部となっています。先日、私たちも知り合いの息子さん夫婦が開いている洋菓子店で、クリスマスケーキを予約しました。最近日本では、パン屋さん、洋菓子店でシュトーレンというケーキを見かけるようになりました。シュトーレンとは、ドイツで伝統的にクリスマスの時期に食べられる、ドライフルーツとナッツが入ったフルーツケーキです。このケーキは粉砂糖で真っ白に覆われた楕円形で、イエス・キリストが赤ちゃんとして生まれた時にくるんだ、おくるみをイメージしているそうです。このケーキは、クリスマスの当日に食べるものではなく、待降節といって、クリスマスにむけて4週間前から教会はクリスマスの準備期間を持ちますが、その時期にクリスマスが来ることを楽しみにして、少しづつスライスして食べます。

 この待降節(アドベント:「到来」という意味)は、イエス・キリストが人となって2千年前に生まれたその誕生日を喜び祝うための準備期間をいいますが、もう一つのことを準備する期間でもあります。それは、第二の到来、主イエス・キリストが再びこの世に来られること(再臨)を覚えて、それに備えていく時でもあります。

 キリストがもう一度来られることについて、イエス様が弟子達に幾つかたとえ話で話されていたことが聖書に記されています。10人の乙女のたとえ、遠くへ旅に出かけた主人と家を任された僕たちのたとえ等、どれも共通している点は予告なく「突然来る」ということです。つまり、いつ来るかという予測は誰もできないし、知らないので、いつキリストが来られても良いように、日ごろから心を準備しておきなさいという警告でもあります。これは、あれから2千年もたち、結局、キリストの再臨はない、裁きもないとたかをくくって、神様を恐れず好き放題なことをしている人たちへの警告です。しかし、神様にとって、1日は千年、千年間は1日という長さで*1、時間の感覚は人と異なります。

 イエス様の弟子ペテロは、この再臨の際に起こると記される天変地異、つまりすべてのものが崩れてなくなる、この世の終わりの現象に触れ、「このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほどきよい生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」*2と言っています。大切なことは、いつ来るかと予測することや、この世の終わりだと恐れることではなく、神さまを信じ、清い生き方をして、キリストの再び来られることをを待ち望むことだと言っています。今日の下記の箇所は、別の弟子ヨハネもこの再臨に望みを持つ者は「キリストがきよくあられるように、自分をきよくします。」 と記しています。
 
 キリストの再臨における望みとは、最後の審判において、キリストを信じて生きそして死んだ者たちは、復活と永遠の命を与えられ、先に復活して天で生きておられるキリストと共にいつまでも生きる者とされることです。神様は、イエス・キリストを通して、私たち人間がこの最後の裁きを恐れなくてもよいように、救いの道を用意してくださいました。神の子でイエス様は私たちの罪のために十字架に架かられて、その罰を負ってくれてたので、この最後の裁きの時に、キリストを信じる信仰により、責められることがないのです。たとえ、完璧なクリスチャンとして歩めなくとも、失敗があり、何度か神様を悲しませることをしたとしても、信仰さえ持ち続け、悔い改めて、神様にすがっていけば、キリストによって私たちは正しいとみなして頂けることは、なんと幸いなことでしょうか。ですから、世の終わりのキリストの再臨と、そこで起る最後の審判は恐ろしいものではなく、救いの完成の時だとなり、待ち望むことができます。

 日常生活の中で、心を清く保つのは努力がいります。なぜなら、まだ心ではキリストを信じて内側が聖霊が住み、新しくされていても、いまだこの肉体を持っている状態で生きているので、外側から入る情報、環境、過去の記憶等にかなり影響されます。影響されにくくするには、なるべく心に悪い影響を与える情報や環境を避けることです。また、仮にそうしたとしても、ふいに、過去の映画等で見た怖い映像やある人に対する苦い思いがフラッシュバックしたり、マスコミに操作されて必要以上に恐怖心を煽られたりすることが起こります。私は牧師たちに教えられたことは、道を歩いていて、自然に入ってきてしまう誘惑の映像や、相手を悪い言葉でけなしたり、下ネタでゲラゲラ笑っているTV番組が待合室のTVで放映されていたら、「2度見」をせず、その場を立ち去ればよいと。つまり、何かに反応してぱっとわいて出た悪い思いを、そのまま心の思いのなかで進めないことでストップできます。そのままにしておくと、思いはどんどん広がっていきますから、私は思いがわいた時に神様に瞬間的に祈ります、「この思いを消してください」と。すると、感謝なことに消えていくので、それに捕らわれることなく、心が汚されることを防げます。

 信仰を持って、長年教会へ行っていても、いまだに私はこんなやりとりを神様と心の中でしなくてはならない、なかなか清くなれない者です。しかし、アドベントの時期だけに限らず、普段の生活の中でも、キリストが来られることを待ち望み、心を聖霊によって徐々に清めていただき、準備していきたいと願います。

「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストがきよくあられるように、自分をきよくします。 」 第一ヨハネの手紙1章2-3節

*1「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。 」第一ペテロの手紙3章8節
*2 第一ペテロの手紙3章12節(新改訳)