闇夜の烏の変な世界

とりあえず、何にでも興味持ちますw
日々、気になった事を日記感覚でアップしてみようかと。

明日は葬儀 お別れの時

2022-01-22 23:06:49 | 日記

明日はいよいよ母の葬儀です。

 

昨年、10月にグループホームへ入所した母。

痴呆症が悪化してたので頃合いと親戚が判断し、私も同意して家を出てもらった。

当日の朝は仕事で送り出せず、何も知らない母は出社する私に門のところで手を振ってくれていた。

実際に迎えに来た時は、兄弟に「聞いてない」とかなり怒っていたという…。

 

それでもコロナ禍で面会が規制されるなかで会った母は、髪の毛も衣服も整えられて元気そうだった。

施設の方によれば数名の仲の良い友達もできてるとの事。

 

それが11月のある日、職場で午前の業務を終えた私のスマホが鳴った。

「気分が悪いと言ってたが 嘔吐を繰り返すうちに吐血。これから緊急搬送します。」と。

 

職場から直に国立相模原病院に駆けつける。

母の腹部にはプックリと丸い出っ張りがあり、紫色に皮膚の下に何かが見える。

 

緊急を要するということでCTをとった結果、腸が腹膜を破って皮膚の下に出てきてるらしい。

 

母は中学生の時、私と同じで腹膜炎を患っている。

その時、お腹の中のウミを出すために腹部に複数の穴を開けてガーゼを突っ込んだ跡がある。


施設でもかなり便秘が酷かったらしいし、元気にチョロチョロ動き回っていたという。

推測だが、便秘で腸の内圧が高まってるところで腹膜の弱いところを突き破ってしまったのではないか、と。

 

母は腹膜炎の時、父親(お爺さん)が建設省にいたコネを使い、当時のGHQが緊急用にと持っていた「ペニシリン」を懇願して分けてもらったと聞いている。

まだ抗生物質の無い日本で、ごく初期にペニシリンを投与して助かった一人なのです。

 

施術は即日行われ、壊死しかけてる腸を切り取り、繋ぎ合わせる方法でおこなわれた。

その後は順調に回復、2週間後には歩行リハビリを始めるから上履きを用意してくださいと言われたくらい。

 

状況が変わったのはその一週間くらい後。

病院から電話が入った。

「酸素レベルが1/10程度になり危険な状態です。病院に来れますか、と。」

何が起こったのか判らなかった。

 

面会はコロナ禍のため一切不可だが、いつ心臓が止まっても不思議ではないのでと言われ 許可された。

病室での母は様々な機器がベッドの周りを仰々しく囲み、呼吸はしてるが眠ってるように反応しなかった。

その後、唾液やタンが肺の方に入って肺炎を起こしてる可能性が高いと言われ、後日のレントゲンでも肺が真っ白だと伝えられた。

 

それでも抗生物質の投与でゆるやかに回復してると言われ、年末に面会した時は酸素吸入器を外した翌日だったせいか、何か話そうとするのだが声が出ず 結局 何を伝えようとしたのかほとんど判らなかった。

幾つか話しかけるうち「退院したらお母さんが買ってたお茶の銘柄おしえてもらいたいな。自分で買ってるけどやっぱりおいしくないから」と言うと 「お茶?」と少し笑ったような顔で返答したのが印象的でした。

 

それから年が明けるまで特に病院から連絡は無し。

自分は元日以外は仕事の会社なので、普通に年末年始も仕事してました。

 

1月7日、また病院から電話が鳴った。

連絡が無いのは無事な証拠と勝手に思っていたが、事態は決して余談を許さない状況だったようです。

当日は久しぶりにドカッと雪が降り、意識レベルの下がった母に 「外見える? 雪が降ってるよ」と言うと精いっぱい頭の向きを変えて外の方を見て「雪?」と言った。

そのまま母は胸が苦しいのか 自分の胸を搔きむしる動作をしたのち 眠ってしまった。

同日、母の姉が駆け付け、前日に見舞いに来て会えなかった弟が移動中に引き返して面会してくれた。

 

私にとって 生きてる母を見たのはこれが最後になった。

 

 

1月16日夕刻、病院からまた電話が鳴った。

「お母さまが危険な状況です。息子様、親戚の方 急いで来れますか? もしかしたら間に合わないかもしれませんが急いで!」。

職場から病院へと急ぎ、病室に着くと測定器の表示は全て0になっていた。

母は眠るようにベッドで酸素マスクをしたまま動かない。

触れるとまだ温かい。

間に合わなかった。

 

暫く遅れて向かっていたお姉さんが到着 母が亡くなった事を伝えると大粒の涙を流していた。

 

結局、母は肺炎のため回復することなく亡くなってしまった。

PCR検査は陰性だったが、重症患者と同様に肺炎で一月近く苦しんでしまった。

無力感が半端無い。

 

その日のうちに病院の安置室に移され、母が入っていたくらしの友に連絡して来てくれた霊柩車で斎場へと運ばれた。

 

直ぐに葬儀の準備に入るも、亡くなる方がとても多くて焼き場(火葬場)が空いてないと苦戦する。

結局、ウチの宗派は友引でも葬儀可能という事で 友引で空いてる所に葬儀を入れたものの 一週間も待つ事に。

弟も焼き場が空いてないと一週間 ドライアイスで持たせたが まさか母まで同様に長く待たせることになるとは。

 

とりあえず斎場の霊安室に安置してもらい、葬儀の準備と連絡を親戚に手伝ってもらってすすめる。

 

そう始めて気付いたが、母のように高齢になると知人が亡くなってたり、病気で動けないというのが次々に出てくる。

基本的に親族のみのコンパクトな葬儀にしようとなった、コロナ禍で人を集めるのも考えてしまうので。

ところが、来ると思ってた親戚までが仕事で無理とか、オミクロン株を考えるとすみませんと次々に辞退。

結局 母の残ってる兄弟とその他数名の かなり寂しいお葬式になってしまった。

 

それでも母にとって最期の旅立の儀です。

喪主なんてやった事無いから明日はどうなるか全く見当がつきませんが、何とか無事に送り出せればと今は緊張しています。

 

今回は人が少ない事、お通夜をやらない等を考え、斎場には誰も泊まってない。

最後の晩を母一人で寝かしておくのは申し訳無いとおもいつつ、誰も泊まれる人がいない上、私もプレッシャーなのか物凄く疲れて体調が厳しいので、母には怒られるとおもうけど、自宅で明日の葬儀に備えさせて頂いてます。

ほんと、最後まで親不孝な息子です。

 

さて、母の身体が焼き場の扉をくぐってしまえば、いよいよ私は一人になります。

元々 ワガママで親に甘えて生きてきた私が今後どうなるか 自分の事ながら見もの です。

 

こんな精神状態だから考えてしまうのか 葬儀とは 故人最後の旅立のセレモニーなんだろうなって妙に実感してしまう。

 

日頃 宗教というものを 必要悪 だとか 昔の人が考えた都合良いシステム とか毛嫌いしがちな私です。

でも、こんな時だからこそ神さまだの仏さまだのを信じ、魂というものがあると願うのは罪なのでしょうね。

 

不肖な身ながら、頑張ります。