狼さんと羊さん

写真付きで札幌の日記や乗り物の趣味を書くならgooブログ

ガラ~ンと・・・北口地下歩道

2007-07-31 21:58:34 | 札幌発


   札幌駅北口のバス乗り場・タクシー乗り場の地下は
        一般有料駐車場になっています。

       
  その駐車場を取り囲むように、地下歩道と言う名の通路があります。


        
        
           札幌駅の北口には・・・

 札幌第一合同庁舎(開発局や法務局・財務局などが入る行政施設)
 札幌エルプラザ(男女共同参画センター他3施設が入るオフィスビル)
 D'グラフォート札幌ステーションタワー (北海道一の高層マンション)
    などがあり、南口ほどではありませんが、利用者は多いと思うのですが・・・。
 
      ちょっと興味があり、地下へと降りると・・・。

     
     
     
       ガラ~ンとしています。 ↑ 夕方に撮影

     地下歩道も・・・ガラ~~~ン 
     

   なぜか、札幌の姉妹都市の紹介コーナーがあります。
     
 こんなに人通りが少ないんじゃ、誰も気づかないと思いますが・・・



   以前にも紹介した、北1条通の地下通路と同じ臭いがしますね・・・。

  姉妹都市コーナーがあると言うことは、札幌市が造ったようですね。



  こんな、都心の真ん中なのに、人が少なくて 超~!穴場
      お昼のお弁当をゆっくり食べれますね

      って、いいサボリ場になりそうですね・・・


  
 私はまじめに働きますよ~っ! 明日から8月ですね・・・。

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屯田兵の父の家

2007-07-28 22:55:13 | 札幌・歴史探訪


  先日紹介した、サッポロファクトリーの東側に明治時代に建てられた元・住宅が
 あります。

      旧永山武四郎邸 (きゅう ながやまたけしろう てい)
         (札幌市中央区北2条東6丁目)
      
      

  永山武四郎は、天宝8(1837)年4月24日に薩摩国鹿児島郡薬師馬場町に
 (現・鹿児島県鹿児島市薬師)薩摩藩士の四男として生まれました。
 戊辰戦争や西南戦争にも従軍した軍人です。明治5(1872)年に開拓史に出仕し
 屯田兵の設置に尽力した人物です。

         

 屯田事務局長・北海道庁長官・屯田兵司令官・第7師団師団長を務め、陸軍中将
 まで昇進しました。
  この間、北海道の開拓、産業の発展に努め、特に炭鉱の開発や鉄道の延長等
 に努めました。
  退役後は、貴族院議員を務めましたが、武四郎が67歳の明治37(1904)年に
 議会出席の為に上京中に倒れ、同年5月27日に亡くなったそうです。



   この建物は、明治13(1880)年頃に建築されたらしいです。
 
     個人宅なので公的な記録が残っていないそうで・・・。
       
       

  敷地については、明治10(1877)年に、今の北3条通りと北2条通りをまたぐ
 975坪を、当時のお金で35円70銭で購入したという記録が残っています。
   ちなみに、明治8年の陸海軍の曹長の月給が30円という記録が残っています。
      これから推測すると、当時の庶民の月給は10~15円前後でしょうね。


  建築当時は、南側部分(現存)と北側に家族や使用人の部屋、台所や風呂場が
 あったそうですが、現在北側には2階建ての白い洋館が建っています。

      
  この白い建物は、明治44(1911)年に遺族から土地・建物を譲り受けた
 三菱合資会社が、昭和12(1937)年頃に社員寮として建設したものです。

  この白い洋館を、旧永山武四郎邸として紹介している写真がありますが・・・
 間違いですのでご注意を。 昭和に建てられた建物ですので。

  昭和60(1985)年に、当時の三菱鉱業セメント(株)より、土地・建物はすべて
 札幌市に寄贈されました。

  その後、この辺り一帯は「永山記念公園」として整備されました。
     
     


 内部は、以前にも紹介した清華亭のように、和洋折衷なつくりになっています。
           
      
      

     こちらは、新館(旧三菱鉱業セメント寮)の内部です。
      
      



   病床で永山武四郎は

「わしは屯田兵達に、『お前達は北海道の土になれ、わしも北海道の土になる』

と言ってきた。ここで死ぬわけにはいかぬ。わしは、札幌に帰ってから死ぬ。」

   と言ったそうです。

          遺言通り、葬儀は札幌で行われました。
 遺骨は札幌の豊平墓地に埋葬されました。その後、昭和57(1982)年からは
 里塚霊園に眠っています。

   
  屯田兵の育ての親として生きた永山武四郎は
   北海道を心から愛した人物なのですね。

  

    交通アクセス

 
 地下鉄 東西線 バスセンター前  8番出口より 徒歩10分

 中央バス 環88 サッポロビール・ファクトリー線 もしくは
        環3  苗穂線  に 「札幌駅前」(東急百貨店南側)より乗車
   「北3条東7丁目」バス停  下車 徒歩3分

   観覧時間  9:00~16:00      入場料無料
    休館日  12/29~1/3

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格闘の痕 バッタ塚

2007-07-24 21:52:18 | 札幌・歴史探訪


      札幌もかなり暑くなってきました。

  札幌の隣町にある、小樽のドリームビーチには多くの人が海水浴に出かけます。
       

 そんな、ドリームビーチへ抜ける道に 「手稲山口バッタ塚」 まで○○○m と
 看板が出ています。

     どんなところか、行ってみました。

           「手稲山口バッタ塚」
         (札幌市手稲区手稲山口324番地)
       

 明治13年に十勝地方で大発生したトノサマバッタの大群。わずか1週間で
 札幌近郊の月寒村(現・札幌市豊平区月寒)にまで飛来したそうです。
  バッタの大群の襲来になすすべが無かったそうです。
 この年の収穫は例年の10分の2程だったそうで、開拓使も卵が孵化したら
 来年の農作物被害は目に見えていると、対策に乗り出すのですが・・・。

   この山口地区では、明治15・16年に被害を被ったそうです。
 農作物は全滅し、バッタ退治に近隣の漁夫まで駆り出されたそうです。

  あまりの被害に札幌市街では、屯田兵が藻岩山の山頂から大砲を
 撃って雨乞いをしたそうです。
  その甲斐あってか、翌年の明治17年は多雨で、バッタの生育が阻まれ
  4年連続して続いたバッタとの戦いは終わりましたが、冷害で不作だった
  そうです。
        

  「映画・北の零年」にも描かれていた状況をイメージしていただければと。 
      (映画では、トノサマバッタではなく、イナゴですが) 

       
 手稲山口のバッタ塚は、卵を含んだ土を剥ぎ取り、成虫と一緒に砂地に
畝状に並べてその上に泥を盛り上げたそうです。
       

 このような畝が100条ほどあったそうですが、この土地の一部が札幌市に
寄贈されて、昭和43(1968)年に、バッタ塚の碑が建立されました。
       

  昭和53(1978)年8月21日  札幌市指定文化財の指定を受けました。



  山口の地名ですが、この地に入植した山口県人の方々にちなんでいます。

  大正時代から、山口地区ではすいかの生産が行われていて、ここ山口で
 生産されるスイカは「山口スイカ」と呼ばれていました。
  現在は「サッポロスイカ」と呼ばれていて、札幌の特産品のひとつです。



   開拓の苦労と格闘の痕を感じさせる、海に程近いバッタ塚です。

 

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枕木の駅 東山駅

2007-07-23 22:31:40 | Train&Station

 
 いままで、ローカル線の駅を紹介してきましたが、この駅は・・・キテます

    周りは・・・緑一色。冬だと、白一色になることでしょう。

            「東山駅」 (ひがしやまえき)
       
            茅部郡森町駒ケ岳    地図はこちら


  昭和18(1943)年に信号所として設置され、昭和24(1949)年には仮乗降所となり
 昭和62(1987)年3月31日に駅に昇格しました。 函館本線の駅です。


   駅は、この踏切の脇にある小道を100mほど進んだところにあります。
      

        最近、鉄パイプの柵が出来たようです。
      

           サビサビの階段と手すり。
       

            ホームはなんと、枕木
      

  単線上にホームがあり、列車2両が停車できるかどうか?という長さしか
 ありません。

     そして、上り下り合わせて、8本しか停車しません。
                  
  駅舎と言いますか、待合所もありませんし、すぐ近くに家もありません。

      ちなみに東山駅から函館駅までの大人普通運賃は・・・810円。
         札幌市内の駅までは・・・4930円です。

       
  東山駅と言う名前の駅は、奈良県生駒市・京都府京都市・岡山県岡山市
 にもあるそうですが、この東山駅は・・・秘境にある駅ですね・・・。


        そんな秘境な駅からは、駒ケ岳が見えます。
      
  
   スーパー北斗も駒ケ岳を背に、東山駅を駆け抜けて行きます。
     


  こんな駅の目の前に家を建てたら・・・田舎暮らしが楽しめそうですね

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桑園のお地蔵様

2007-07-21 20:16:12 | 札幌・歴史探訪


 石山通(西11丁目通)と、JRの高架の脇にお地蔵さんが鎮座しています。
     

          「桑園延命地蔵尊」
          札幌市中央区北6条西10丁目 地図はこちら
     
          
 なぜ、ここにお地蔵様が祭られているかといいますと、鉄道に由来します。


  以前にも取り上げましたが、石炭を小樽まで輸送する目的で、明治13(1880)年
 札幌~小樽間に鉄道が敷設されました。
  この鉄道(現・函館本線)は、ここ桑園地区を横切る形で建設されました。

   現在は、民家やマンション・ビルなどがびっちりと建っていますが、その昔は
 ヨシや大木が密生していて、その中をカーブしながら線路が敷かれたので、
 とても見通しが悪く、踏切事故が多発していたそうです。
  特に、北7条西11丁目の踏切では、鉄道死亡事故が多発して「魔の踏切」
 呼ばれていたそうです。

     昭和2年までに、死者は364人にも上ったそうです。
     
      ↑ 現在の北7条西11丁目付近

  大正15年、地元の方たちが死者の供養と魔除けの為に、地蔵尊を建てる
 為の組織「北門倶楽部」を結成しました。
      

  関東方面の地蔵尊を調べたところ、大型のもので1.7m程で通常はそれより
 小型の地蔵尊であることから、日本一大きい石仏像を製作することになりました。

  制作は、札幌で天才的な石工師と言われていた阿部独海(あべどっかい)に
 依頼しました。
 
  昭和2(1927)年8月全長2.6m、重さ3.5tもある桑園延命地蔵尊
 無事に建立することができました。
     

 地蔵尊の加護があったのか次第に事故が少なくなり、昭和63(1988)年11月
鉄道開通108年目にして鉄道が高架化され、鉄道事故の問題もようやく解消
されました。


 鉄道が高架化された今でも、毎年7月24日には、地蔵尊への感謝と死者
の供養、地域の交通安全のために慰霊法要が行われています。

  かつての線路跡は、「札幌桑園停車場緑道線」という、遊歩道が整備され
 通勤・通学にも使われています。
     

   行き交う人の交通安全も願っているのですね・・・。

   
私も、お参りをして自らの交通安全を願ってきました。
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(*^-^*)(*^-^*)