国道5号線の余市郡仁木町と岩内郡共和町の境界に、稲穂峠と
いう峠があります。現在は、稲穂トンネルというトンネルが通っています。
そんな、仁木町側のトンネルの入り口のすぐ脇(右側)に、こんな歌碑があります。
「松浦武四郎翁記念碑」
(余市郡共和町大江)
「岩を切 木を伐 草を刈そけて みちひらけし 山のとかけも」
昨日の記事の主人公の松浦武四郎は、函館奉行より
蝦夷地山川地理取調方の命を受けて、安政4(1857)年 旧暦の5月14日
巡検の際に岩内方面からこの稲穂峠を越えて余市へ向かいました。
新しく出来た、この道の出来栄えをこの一首にしたそうです。
この道は古くはアイヌの人たちが岩内から余市への道として使っていたそうです。現在もですが、この道は峠で天候が変わることが多いです。
アイヌの人たちはイナウ(木幣)を捧げて無事を祈ったので「稲穂峠」と呼ばれる
ようになったそうです。
碑の右側には、滝が流れています。
「まつらの滝」?
武四郎もこの滝の水で喉を潤したのでしょうか?
そして碑の左側には、武四郎のよき理解者であった開拓使判官であった
島義勇(しまよしたけ)の詩碑もあります。
明治2(1869)年 旧暦10月8日に、開拓使札幌本府建設の為に、部下40数名と
稲穂峠を越えようとした際に、険路と風雪に難渋して夜になってしまいました。
困り果てていた時に、迎えに来た里人の炬火に大いに喜んだそうです。
この峠越えの苦難と、里人の温情を漢詩にして残したものだそうです。
何度となく、この前を通っていたのですが、先月SLを撮影しに行った時、
気づいて撮影してきました。
峠道でまがりくねっているので前しか見てませんし、トンネルのすぐ脇
なので気づかないですよね・・・
昨日の記事の主人公の松浦武四郎は、函館奉行より
蝦夷地山川地理取調方の命を受けて、安政4(1857)年 旧暦の5月14日
巡検の際に岩内方面からこの稲穂峠を越えて余市へ向かいました。
新しく出来た、この道の出来栄えをこの一首にしたそうです。
この道は古くはアイヌの人たちが岩内から余市への道として使っていたそうです。現在もですが、この道は峠で天候が変わることが多いです。
アイヌの人たちはイナウ(木幣)を捧げて無事を祈ったので「稲穂峠」と呼ばれる
ようになったそうです。
碑の右側には、滝が流れています。
「まつらの滝」?
武四郎もこの滝の水で喉を潤したのでしょうか?
そして碑の左側には、武四郎のよき理解者であった開拓使判官であった
島義勇(しまよしたけ)の詩碑もあります。
明治2(1869)年 旧暦10月8日に、開拓使札幌本府建設の為に、部下40数名と
稲穂峠を越えようとした際に、険路と風雪に難渋して夜になってしまいました。
困り果てていた時に、迎えに来た里人の炬火に大いに喜んだそうです。
この峠越えの苦難と、里人の温情を漢詩にして残したものだそうです。
何度となく、この前を通っていたのですが、先月SLを撮影しに行った時、
気づいて撮影してきました。
峠道でまがりくねっているので前しか見てませんし、トンネルのすぐ脇
なので気づかないですよね・・・