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札幌のホップ園を辿る その1

2023-07-30 21:10:38 | 札幌・歴史探訪

   例の如く、googleマップを眺めていたところ偶然発見してしまいました。

  
      画面中央に 「サッポロビールホップ園跡地」との表示が。
        (札幌市豊平区西岡3条8丁目13) 


  サッポロビールのホップは札幌で生産していたんだ!と思って調べてみると・・・。
         国内では岩手県が最大の生産地だそうです。

 
  この場所は一体何なんだ?と思い、図書館で調べた内容を元に現地で取った写真を交えて
        札幌のホップ園の歴史を辿ってみたいと思います。


    日本における、ホップ栽培の歴史は開拓使が始まりです。
  きっかけとなったのが開拓使のお雇い外国人のトーマス・アセンチルが明治4(1871)年に地質調査で訪れていた
  岩内町堀株川の河畔で野生のホップを発見したことでした。アセンチルは北海道がホップ栽培の最適地で国内の
  ビール醸造にも使え、輸出できるほどの収穫が見込まれると当時の開拓使長官・黒田清隆に提言します。この提言
  もあり、大麦とホップの自給を前提に開拓使麦酒醸造所(現・サッポロビール)が作られることになります。
   明治5年、開拓使は札幌周辺の野生ホップを横浜の外国人経営の醸造所へ送り、試験製造を依頼しますが採取の
  時期が遅く、乾燥も天日で行われた為、変色して使い物になりませんでした。

   園芸技師であったお雇い外国人のルイス・ボーマーは、札幌官園および東京官園で外来園芸植物の導入や栽培
  指導に当たった人物です。ボーマーはイギリスからホップの苗を調達しますが、明治8年8月に日本に到着した時に
  苗はすべて腐っていました。赤道を経由しての苗の輸入は困難と判断し、ヨーロッパからは種でアメリカからは苗
  で輸入することにしました。
   
   札幌葎花園(ホップえん)を設けて自給する計画を立て、明治10年にアメリカ種23,308本・ドイツ種100本の苗を
  アメリカから輸入して、ひとまず東京官園に移植しました。

   札幌ホップ園は、現在の道庁正門前・北2条西3丁目~北3条西3丁目付近に明治10年4月に圃場が設けられ
  広さ5500坪(1万8,183㎡)でした。
        

      
              明治14年頃の札幌の地図
       資料には道庁正門前・小樽通の東側(現・札幌駅前通り)との記載あり

 
   既に別途入手してあったアメリカ種644本・ドイツ種201本を5月上旬に植え付けし、6月には東京官園のアメリカ種
  の一部500本を植え付けたが、時期を失した為に12本を残して全部枯れてしまいました。
   東京官園に植え付けた苗が無事に活着して、11年5月に札幌ホップ園に移植できたのは、アメリカ種23,308本中
  6,777本・ドイツ種が100本中70本でした。

   明治12年には最初のホップ園の周辺に第2~第4のホップ園を増設し、合計面積は1万4,265坪(4万7,160㎡)となり
  明治14年に
北海道産ホップで開拓使麦酒醸造所のビール生産の全需要量を賄う程になりました。

   (明治9年に操業した開拓使麦酒醸造所ですが、当初はドイツ産ホップを輸入して醸造されました)
 
   ホップの苗の移植に苦心した開拓使のホップ園ですが、明治15年2月に開拓使が廃止されホップ園は農商務省農業
  事務所に移管されました。明治18年に札幌育種場と合併され、明治19年に札幌ホップ園は廃止されます。

        
        
             現在の道庁正門前・北2条西3丁目~北3条西3丁目付近 

       今となっては、miredoやsitatte sapporoなどの商業ビルが立ち並ぶ札幌の中心部にホップ園があったとは。


  追記

   明治4(1871)年9月に設置された開拓使の東京官園ですが、青山南町の第1号地(3万7千坪)、青山北町の第2号地
 (5万坪)、麻布新笄町の第3号地(4万7千坪)からなり、明治8年3月東京農事試験所と改称されます。
   主に、1号・2号官園は植物、3号官園は牧場として使用されました。

  1号官園は現在の、青山学院大学青山キャンパスとなっています。2号官園は現在、国際連合大学や旧こどもの城付近
  となっています。

           
      まさかの青学のキャンパスでその昔、ホップが栽培されていたとは・・・またもやびっくり!


    つづく

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ギザギザの市境界を訪ねて

2023-07-27 20:54:00 | 札幌・歴史探訪
   石狩市札幌市北区の境界線発寒川(はっさむがわ)を挟んでギザギザに入り組んでいます。



      両市の境界線が約6kmに渡って、川岸を跨いで行ったり来たりしています。
    
 
   左 大正5(1916)年 の地図  ・ 右  現在の地図          今昔マップ 0n the web より


  古い地図に描かれているように、発寒川は平地を流れる川本来の性質で、ぐにゃぐにゃと蛇行していました。
 しかし洪水対策のための河川改修工事が行なわれ、まっすぐな流れに変わりました。

  地図の境界線は、蛇行していた時代に発寒川に沿って決められたものです。

   このぐにゃぐにゃ部分で立ち入りが自由に出来そうな場所がありました。


         東屯田川遊水地(ひがしとんでんがわゆうすいち)

          (札幌市北区屯田町1058)


  東屯田川と発寒川の合流点に2つの池があります。「遊水地」というのは雨が沢山降って河川の水位が
 上がった時に川の水の一部を流入させるための池で、東屯田川遊水地は地形を利用した自然の遊水地です。
  パークゴルフ場や野鳥観察デッキがあります。


   
                 第二遊水地


    
          パークゴルフ場


  
     パークゴルフ場のBコース No.3コースは発寒川を挟んで飛び出した部分、石狩市に属します。
    地図上(行政区画上)は石狩市に属しますが、札幌市が管理をする公園(土地)です(笑)


    
             発寒川(はっさむがわ)


   

   
     発寒6号橋の上より  川幅がありますが、流れは緩やかな川です。

   
                  第一遊水地

             アオサギが羽を休めていました


   
   駐車場に隣接して、尾ヶ瀬トレーニングセンターというばんえい競馬の元調教師(2019年11月引退)の
  厩舎があります。道路からポニーが牧草を食んでいるところが見えました。
 

   野鳥観察ポイントとして有名な場所だそうです。今度は望遠レンズを持参して再訪問してみたいと思います。



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二つのふくい

2023-07-25 22:55:12 | 札幌・歴史探訪

  おまけ  札幌市内にはふくいと呼ぶ地名が2か所あります。

  札幌市東区の福移(ふくい)
は…


  福移地域は明治15(1882)年、木野束氏を筆頭とする旧福岡藩黒田家士族40余戸が入植したのが
 始まりで士族たちは「北海道移住開墾社」を組織するなど、少しずつ開墾を進めていき、明治25年
 には63戸、明治31年ごろには140戸、人口600人を数えるようになりました。
  しかし、明治31年、37年に起きた石狩川の大洪水が、この開拓地を徹底的に痛めつけ多くの
 農民が村を離れていきました。また、石狩川の治水対策によって蛇行した流れを直線化したこと
 により水没した農地もあります。


  福移という地名の由来ですが、明治17(1884)年、福岡藩士の高崎国丸氏を教師に迎えて寺小屋教育
 が始まり、明治25年には、小さな掘っ立て小屋を篠路教育所の仮分教場に昇格。
  高崎氏が、福岡の「福」、移住の「移」をとって「福移分教場」と命名。
 後に、これが定着して、「福移」の地名になったそうです。

 福移分教場は、大正3年、石狩川治水工事のため、現在地に校舎移転となり、今の福移学園に至っています。
福移が正式な字名となったのは昭和12年で、それまでの篠路村字当別太は、篠路村字福移に地名変更。
この辺は「中当別太」から「中福移」と呼ばれるようになりました。昭和30年には、札幌市と篠路村の合併で
篠路町福移に。
 昭和47年、札幌市が政令指定都市に移行する時に中福移地区は北区と東区に分割、東区では中沼町の一部となり
現在に至っています。
 
  

  「福移」の地名が付く 札幌市立義務教育学校 福移学園(旧福移小・中学校)の所在地は東区中沼240番地




               天文台があるのですか!
 (口径35cm反射望遠鏡で旧西岡天文台から平成20年に移設されたそうです)


              福移神社
              (東区中沼町238番地)


   御祭神   天照大神・大己貴命・少彦名命・倉稲魂命・埴安姫命
          篠路神社の境外末社です。


                 境内には

         昭和6年9月15日建立の福移開拓五十年碑



       昭和56年9月15日建立の 福移開拓百年碑


  福移開拓の歴史は、厳しい自然との闘い、特に「水との闘い」であったといっても過言
 ではありません。
 困難の連続であったこの地の開拓も、築前魂で乗り切って、現在まで農業を続けている家もあります。


                                                                                                                                                   札幌市東区ホームページより




     札幌市西区にも(福井)(ふくい)という場所があります


 こちらは、明治19(1886)年に伊藤太治兵衛や鈴木善兵衛ら最初の移住者が入植します。

 彼らは福井県出身であったため、この地も「福井」と名づけられた。

  彼ら開拓者たちは水田耕作を志したものの、農業用水が不足したため、炭焼きや造材運搬に従事して糊口をしのいで
 いたが、発寒川を水源とする本格的な用水路が完成しました。

  昭和17(1942)年には字名改正が実施されたが、「福井」という地名はそのまま採用となりました。

     
       福井の地名が入る、札幌福井郵便局 (札幌市西区福井3丁目1-35)
 
     
               開拓記念地蔵尊 (西区福井7丁目14)

  碑の背面には
 「明治三十三年福井地区 開拓記念地蔵尊として祀る 平成五年五月 山崎友彦氏建立」と刻まれています。



  東区の福移は福岡県からの移住者に因み
           西区の福移は福井県からの移住者に因んでいました。





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酪農団地

2023-07-19 21:02:34 | 札幌・歴史探訪

    現在の札幌の漁師については前回の記事の通りですが、酪農家については把握されています。


   札幌市内の酪農家は7戸(育成専門農家を含む)で、北区篠路、屯田地区、東区中沼、手稲区前田などで
  主に乳用牛を飼育しています(肉用牛専業農家は1戸)。
   この他に、農業専門学校や大学等の研究機関計3戸で、生乳を出荷しています。
                              (令和3年2月1日現在 札幌市役所HPより)


     北区篠路町福移にある篠路破砕工場の前に、こんなバス停があります。
    
              「酪農団地」
      
   
                  こんな看板も
    

             現在、酪農家が2戸営農しています。

    

  この酪農団地、札幌市が市街地で酪農を営む人達を近郊に誘導して団地化し、生産効率の良い酪農経営を図ることを
 目的に進められ、福移地区には当初4戸が移転したそうです(昭和62年頃)。

  
  札幌市が進める、市の周りを緑で包むグリーンベルト構想のグリーンベルト地帯に酪農団地を配置しようとしたそうです。
 米の減反で牧草地になっている土地やあまり有効に使われていない調整区域の土地を酪農に利用する事と、酪農家も周囲が
 宅地化され、近所から臭いや騒音のなどの苦情も寄せられ、後継者がいても今後についての事業継続についての悩み解消と
 いうのが、酪農団地の誕生した背景だそうです。

   
 と、言うことらしいのですが、この酪農団地についての資料がほぼないです。中央図書館でヒットした本はわずか1冊。

福移地区の他には拓北地区に1戸、酪農団地があるところまでは調べられたのですが(ネットではこの他に前田地区に1戸?)

 

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札幌のヤツメウナギ漁師

2023-07-18 21:23:35 | 札幌 見・遊・食

    例の如く、札幌のキワをストリートビューで眺めていたところ 

                  あれ?ないぞ?

  

                 無くなってる?

  
           2011年9月撮影の ストリートビュー


  
          以前はこんな感じだったのですが。

    
  
       これはもしや、ヤツメウナギ漁に使うカゴでは?  (笯~どうと呼ぶそうです)

        石狩川では明治中期からヤツメウナギ漁が行われていたそうです。

  昭和50年頃に、札幌に9人のヤツメウナギ漁師がいたそうですが、これは最後の漁師さんが引退されたのか?

    (2006年発行 札幌秘境100選~青木由直氏著には漁師の方のお名前も掲載されていました)

    その場所は茨戸川緑地の先端、茨戸川のほとりにありました。
    
  


    
      令和2(2020)年9月29日撮影の国土地理院航空写真には、当該建物が写っています。

    
        
     昭和50(1976)年8月29日撮影の航空写真と見比べると…橋の辺りには数軒の家があったようで
     茨戸川緑地は水田が広がっていたようです。

   ヤツメウナギは河川に住む脊椎動物亜門・円口類・ヤツメウナギ目に属します。
 名前の由来は、目の後方に7つのくぼみがあり、実際の目と合わせて8つの目があるようにみえることから「八つ目鰻」と
 呼ばれるようになりました。ウナギ科ウナギ属に属する魚類のウナギ(鰻)とは別物です。

 

   
             現場に急行するものの、やはり。

   
            漁師小屋も船もありませんでした。

   
        棒杭と土手に残る階段が
漁師小屋の遺構を感じさせます。

            もう少し早く訪れていれば。

   
    
       ただただ、木製の山口橋がその名残を残すばかりです。

 資料によると、令和2年にヤツメウナギは石狩市で2,415kg・江別市で128kgの水揚げがあったようです。
     (石狩管内水産業の概要 石狩振興局産業振興部水産課 令和4年3月 による)

             
                    写真 江別市郷土博物館 展示写真より

   江別市内ではヤツメウナギを提供している飲食店が数軒があるそうです(季節による)。

   

                    茨戸川


   札幌市内で漁業で生計を成す人はもう既に存在しなくなってしまったのでしょうか?

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(*^-^*)(*^-^*)