【書評】能力主義は正義か? マイケル・サンデル著
この本は、米国マイケル・サンデル氏という米学者が著した著作で、原文は当然英語なのだが、それを読み下すまでの英語力はない。従って、翻訳文としての日本語版を読んだ感想として記すのだが、今回の訳者が必ずしも悪いという訳ではないが、翻訳本というのはなかなか難しい部分がある。
このことは現代のNet環境で、他国原語でも直ちに機械翻訳ができてしまうが、日本語としておかしいというのを感じる機会は多いだろう。それとか、希に最初は日本人かと思いつつ短いメールをやりとりを繰り返すが、数回でこれは機械翻訳の文書だと判り、相手は日本人ではないなと意識するなんてことがある。
翻訳の難しさというのは、日本語でもそうだが、一つのワードに、複数の訳語があり、その文章だとか起筆者の思いなどによって、単純な翻訳ではアンマッチになってしまうと云うことがあると思える。
今回の日本版「能力主義は正義か?」だが原題は「the tyranny of merit」で、Google直訳すると「メリットの専制政治」と訳される。ここで、メリット(merit)だが、日本でも外来語としてよく使うが、意味は価値、長所、取り柄、美点、勲功、功績、功労などとなる。
つまり、役者はメリトクラシー(meritocracy)を一般的な日本語訳として、能力主義と約す訳だが、必ずしも日本語での能力に留まらない場合があることを、文末の解説でも述べていた。解説者は、メリトクラシーは能力主義というより場合によるが、功績主義と読み替えた方が良いかもしれないと記している。すなわち、功績は顕在化し証明された結果であるのに対し、能力とは功績を生み出す要因にしかならないものだからというのだ。
今回、この本で得作者が伝えたいことを十分に咀嚼できたかと問われれば、とても不十分だと云えるだろう。それは、訳文故に表現のレトリックだとか言い回しが、とても読み辛く、かなりの斜め飛ばし読みとなった傾向が多大にあるからだ。
ただ本書の中で、サンデル氏は能力(功績)主義について批判的だが、必ずしもその全廃を主張している訳ではない。世にはいわゆる成功者と、必ずしもそうでない者が分断された形で存在するが、社会の幸福を考えた時、個人が幸せになるためには、快適かつ栄誉ある新たな地位に自由に出世できる必用があるだけでない。出世しようがしまいが、尊厳と文化ある生活を送ることができなければならない。そして、社会が何を基準として求めるべきかについて、共通善という考え方があると云う。
この共通善だが二つの考え方があり、一つは消費者的共通善であり、もう一つは市民的共通善だ。共通善が消費者の幸福の最大化に過ぎないのら、結局のところ、条件の平等の達成はどうでもよいことになる。だが、共通善が市民的なものだとすれば、ある程度の平等の合理性が得られる。ただし民主主義は共同生活の性格と無縁であるはずはなく、完璧な平等が絶体必用条件ではない。
それとサンデル氏は云う。「なぜ、成功者が社会の恵まれないメンバーに負うものがあるのか。」と。その答えは、どれほど頑張ったにしても、自分だけの力ではないこと、そして身を立て生きているのではない。才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなければならない。つまり、成功者は謙虚でなければならず、決して自分だけの努力で今があるなんていう考え方をしてはいけないのだと諭す。
この本はサンデル氏が、米国の有名大学卒業生ばかりが社会の成功者という、いわば特権階級に属するエリートになっている現状を社会(市民)の幸福という点から、問題を指摘する内容だが、このことは日本はおろか、たぶん世界中で共通していることなんだろうと思える。
結論として、サンデル氏は完全な平等の目指す必用はないが、メリトクラシーの中で失われて来た労働の尊厳の回復を目指す様があると説く。
特に本書で気付かされたのは、ともすると共通善として消費者善が最大の正義だと思いがちだが、必ずしもそうでなく、社会の全体幸福のためには、市民善という思考が大切だという新たに知る正義というところに感心を抱いた。
この本は、米国マイケル・サンデル氏という米学者が著した著作で、原文は当然英語なのだが、それを読み下すまでの英語力はない。従って、翻訳文としての日本語版を読んだ感想として記すのだが、今回の訳者が必ずしも悪いという訳ではないが、翻訳本というのはなかなか難しい部分がある。
このことは現代のNet環境で、他国原語でも直ちに機械翻訳ができてしまうが、日本語としておかしいというのを感じる機会は多いだろう。それとか、希に最初は日本人かと思いつつ短いメールをやりとりを繰り返すが、数回でこれは機械翻訳の文書だと判り、相手は日本人ではないなと意識するなんてことがある。
翻訳の難しさというのは、日本語でもそうだが、一つのワードに、複数の訳語があり、その文章だとか起筆者の思いなどによって、単純な翻訳ではアンマッチになってしまうと云うことがあると思える。
今回の日本版「能力主義は正義か?」だが原題は「the tyranny of merit」で、Google直訳すると「メリットの専制政治」と訳される。ここで、メリット(merit)だが、日本でも外来語としてよく使うが、意味は価値、長所、取り柄、美点、勲功、功績、功労などとなる。
つまり、役者はメリトクラシー(meritocracy)を一般的な日本語訳として、能力主義と約す訳だが、必ずしも日本語での能力に留まらない場合があることを、文末の解説でも述べていた。解説者は、メリトクラシーは能力主義というより場合によるが、功績主義と読み替えた方が良いかもしれないと記している。すなわち、功績は顕在化し証明された結果であるのに対し、能力とは功績を生み出す要因にしかならないものだからというのだ。
今回、この本で得作者が伝えたいことを十分に咀嚼できたかと問われれば、とても不十分だと云えるだろう。それは、訳文故に表現のレトリックだとか言い回しが、とても読み辛く、かなりの斜め飛ばし読みとなった傾向が多大にあるからだ。
ただ本書の中で、サンデル氏は能力(功績)主義について批判的だが、必ずしもその全廃を主張している訳ではない。世にはいわゆる成功者と、必ずしもそうでない者が分断された形で存在するが、社会の幸福を考えた時、個人が幸せになるためには、快適かつ栄誉ある新たな地位に自由に出世できる必用があるだけでない。出世しようがしまいが、尊厳と文化ある生活を送ることができなければならない。そして、社会が何を基準として求めるべきかについて、共通善という考え方があると云う。
この共通善だが二つの考え方があり、一つは消費者的共通善であり、もう一つは市民的共通善だ。共通善が消費者の幸福の最大化に過ぎないのら、結局のところ、条件の平等の達成はどうでもよいことになる。だが、共通善が市民的なものだとすれば、ある程度の平等の合理性が得られる。ただし民主主義は共同生活の性格と無縁であるはずはなく、完璧な平等が絶体必用条件ではない。
それとサンデル氏は云う。「なぜ、成功者が社会の恵まれないメンバーに負うものがあるのか。」と。その答えは、どれほど頑張ったにしても、自分だけの力ではないこと、そして身を立て生きているのではない。才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなければならない。つまり、成功者は謙虚でなければならず、決して自分だけの努力で今があるなんていう考え方をしてはいけないのだと諭す。
この本はサンデル氏が、米国の有名大学卒業生ばかりが社会の成功者という、いわば特権階級に属するエリートになっている現状を社会(市民)の幸福という点から、問題を指摘する内容だが、このことは日本はおろか、たぶん世界中で共通していることなんだろうと思える。
結論として、サンデル氏は完全な平等の目指す必用はないが、メリトクラシーの中で失われて来た労働の尊厳の回復を目指す様があると説く。
特に本書で気付かされたのは、ともすると共通善として消費者善が最大の正義だと思いがちだが、必ずしもそうでなく、社会の全体幸福のためには、市民善という思考が大切だという新たに知る正義というところに感心を抱いた。
