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損保調査員の現業末期頃の記【2008/2/18記】

2022-01-09 | コラム
損保調査員の現業末期頃の記【2008/2/18記】
 筆者のPC内には筆者自身が忘却してしまった記述があったりして、今更ながらそれを発見し、あの頃こんなことを考えていたのかと、いささか驚きを感じる機会もある。そんな、14年前の記として、以下公表してみたい。

 損害保険会社が行っている活動について私見としての理想の姿を記して見ます。(2008/2/18記述)

その1
 損害保険会社が行う事故後の損害調査活動や賠償金の支払いについては、現状は各保険会社に任されております。しかし、真の公正・公平な査定と支払いを行うには、各保険会社とは独立した機関により行うことが、その様な理想に近づくものと思います。つまり保険会社は保険契約の契約募集(入り口)のみに専念し、その支払い(出口)にはノータッチとするのです。この様にすれば、もしかしたらあるかもしれない、大口契約者(大手代理店と言い換えても良いかもしれません)と小口契約者との支払い格差や、昨今問題となった保険金の不払い問題等々も自動的に防止できることとなります。

 しかし、この様な第三者機関を用いた共同査定といった組織体を新たに作ることには、既存各保険会社の思惑等から種々の抵抗が生じる可能性があります。また、その組織体自体の公正性や公平性を審査・管理して行くためには、政府機関等の新たな管理組織体を作ることも、新たな無駄を生み出すことも懸念されます。

 ところで、私は、共産主義を信奉するものではありませんが、民主主義を前提とした資本主義(キャピタリズム)に賛意を感じはしつつも、このところの世の流れには種々その限界を感じつつ過ごして来ました。そんな中、過日読んだ「スーパーキャピタリズムの恐怖」(週間ダイヤモンド08/1/5新年号)という表題のコラムで米国のロバート・B.ライッシュという方が記されているのを見ました。私の感じている実感を、さらに端的に記した内容であり、極めて感銘を受けたのです。

 同氏は云います。1945年~75年頃までは、民主的資本主義が成り立っていた時代であったと。企業間の競争がさして激しくなく、大企業がある程度の社会的責任を肩代わりし、経営者は公共的な視点をもつ人物として尊敬されていた。収入や富の不均衡も、どの時代より小さかったと。そして、最後に同氏は記しています。今のままスーパーキャピタリズムが続けば、公共政策はやがて特定の企業や産業の利益のみを利するものとなり、公平性は必ずや失われるはずであると。

その2
 損害保険業界も、いわゆる保険料金の自由化以降、損害保険会社の競争は激化しつつ収益を悪化させると共に、そこで働く者達のモラルの低下も招いたのであろうと感じます。自由化以前の損害保険会社の問題がなかったのかと云えば、そうではなかったろうとは思います。しかし、現在に比べれば競争は激しくなく、そこで働く従業員の公正・公平に向けた正義感と云うモラルは高いものであったのだと思い出されます。しかし、現在は、コンプライアンスという法律的な縛りは強められこそしていますが、法律違反にさえならなければ良しとするかの様なモラルの低下、端的に云えば弱者いじめと云った側面が垣間見られる様になって来たと感じられます。それは何故か、コンプライアンスという上辺だけの強化であり、社内規則の強化、不公正な能力給という差別化による従業員の奴隷化等が思い浮かびます。この様な縛りの強化により、そこで働く従業員の正義感は低下しつつ、何ら意見を表明せず黙々と従う「家畜化」が進行しつつあるのだと感じます。

 私は皆にあえて勇気を持って活動することを主張します。種々の苦難、困難、反発、冷遇等々の抵抗はあるでしょうが、正義感を忘れ弱者いじめをする様になったら人間終わりであると。十分思考し、真実を公正・公平に認め、公正・公正に処理し、種々の配慮を心がける人としての情も忘れてはならないと。そうでないと、技術アジャスターはおろか、保険業界全体も、そして日本自体も荒みきってしまうと。

キャピタリズムの限界
2008-01-09 | コラム
https://blog.goo.ne.jp/wiseman410/e/9520c47edad72948d811d74090a2f907


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